弥五郎どんの館、弥五郎どんの巨大人形 (大人(おおひと)人形)、的野六面地蔵石幢(まとのろくめんじぞうせきしょう、的野六地蔵塔) (やごろうどんのやかた (中山間地域総合整備事業)、弥五郎どん交流活性化センター、池之尾権現宮 (池之尾神社)、的野農村公園、隼人族の首長の弥五郎どん、弥五郎どんの面、弥五郎どん祭り (浜殿下り)、山之口弥五郎どん祭り (文化庁選択・宮崎県指定「無形民俗文化財」)、放生会(ほうじょうえ)、片剣舞 (かたつるぎまい、片刀の舞 (かたとうのまい))、田の神舞 (たのかんめ)、浦安の舞、的野正八幡宮 (まとのしょうはちまんぐう、旧 円野神社、旧 郷社)の参道、都城市立 富吉小学校、上富吉地区体育館、郷土芸能体験室、地域伝統農耕具展示室、古代ロマンひむか街道 水俣駅、地場産品直売場、山之口弥五郎どん、飫肥 (おび)弥五郎様、大隅 (おおすみ)弥五郎どん、隼人 (はやと)の乱、隼人族、大和朝廷、宮崎県伝統工芸品の楽器 ごったん (箱三味線 (しゃみせん)、板三味線))  (宮崎県 都城市 山之口町 大字富吉)







<標高、位置>  弥五郎どんの館 (やごろうどんのやかた)は
標高 約160 m
 北緯31度46分07秒  東経131度09分04秒

<標高、位置>  池之尾権現宮 (池之尾神社)は
標高 約160 m
 北緯31度46分05秒  東経131度08分59秒

<標高、位置>  都城市立 富吉小学校は
標高 約160 m
 北緯31度46分08秒  東経131度08分59秒

<標高、位置>  上富吉地区体育館は
標高 約160 m
 北緯31度46分04秒  東経131度08分55秒

<標高、位置>  的野六面地蔵石幢 (まとのろくめんじぞうせきしょう、的野六面地蔵塔)は
標高 約160 m
 北緯31度46分04秒  東経131度09分04秒

<標高、位置>  的野正八幡宮 (円野神社)は
標高 約180 m
 北緯31度46分05秒  東経131度09分21秒

 「弥五郎どんの館 (やごろうどんのやかた)」は宮崎県 都城市 山之口町 富吉 1702番地 にあります。
弥五郎どんの館は弥五郎どん祭り関係の多くの展示があります。 世代間交流の場の交流研修室、生活改善食品加工室も併設されています。 弥五郎どんの高さ 4 m の大人 (おおひと)人形 (これは実物大レプリカです。)、的野正八幡宮の例大祭の御神幸行列 (浜殿下り、一の鳥居 (とりい)のそばの御手洗池 (みたらいいけ)を海に見立てています。)の模型、パネル表示、ビデオなどがあります。 言い伝えでは的野正八幡宮の神が年に1度、600 m 西の御手洗池の小さな島にある池之尾神社 (池之尾権現宮)にいる母の神功皇后 (こうごう)に会いに行きます。 御手洗池のそばの仮殿で、神楽 (かぐら)、浦安の舞い、郷土芸能などが舞 (ま)われます。 浜殿下り (御神幸行列)では弥五郎どんの大きな人形、大きな鞍 (くら)を付けた御神馬、3つの神輿 (みこし)なども出ます。 弥五郎どんの大きな人形は中は竹を組 (く)んで作ってあります。 御神馬に付き添 (そ)った人たちが「御神馬馬方節 (ごしんばうまかたぶし)」を歌いながら進みます。 「弥五郎どん」とは奈良時代初期の大和朝廷 (ちょうてい)と隼人族が戦った、隼人の乱のときの隼人族の首領と言われています。 隼人側は数千人の兵が集まりました。 7箇所 (かしょ)の城に立てこもりました。 大和朝廷は九州各地から1万人以上の兵を集めました。 そして九州の東側と西側の二つの経路で進軍しました。 戦いは1年半近く続きました。 隼人の乱では隼人族の戦死者と捕虜 (ほりょ)の合計が約1400人でした。 隼人族の首は大分県の宇佐神宮の近くへ持っていかれました。 それが「凶首塚」 (昭和46年3月26日 県指定史跡)という石室古墳 (いしむろこふん)です。 鹿児島県 国分市 (現 霧島市)には隼人塚が残っています。 捕虜は都 (奈良県の平城京 (平城京は710年から784年です。))に連 (つ)れて行かれました。

 「隼人の乱 (はやとのらん)と放生会 (ほうじょうえ)」の説明板から、
<隼人反乱の原因>
 ことの起こりは、大和朝廷 (やまとちょうてい)が全国の地方政治をより細かく行っていくために制定した「養老律令 (ようろうりつりょう)」です。 酋長 (しゅうちょう)を中心に強固な共同体を組織していた隼人にとっては、中央から派遣 (はけん)された官僚に支配されることは大変な屈辱 (くつじょく)でした。
 養老4年 (720年)2月29日 (奈良時代は710年〜784年です。)、大隅 (おおすみ)、日向 (ひゅうが)の隼人らは初代 大隅国守・陽候史麻呂を殺害して反乱を起こしました。 同年3月4日、朝廷は中納言 大伴旅人を征隼人持節大将軍とし、また笠御室と巨勢真人を福将軍として派遣 (はけん)しました。 同年9月、当時 豊前守であった正六位 宇努首男人が将軍として戦地に赴 (おもむ)き、また八幡神の禰宜辛嶋勝波米豆が御権人となって薦神社 (中津市 大貞)の「真薦」を刈 (か)り取りました。 さらに下宮に御羽屋殿を建て、そこで「薦枕」の「御験」を御神体として、御神輿 (おみこし)に奉 (ほう)じて隼人たちの立てこもる奴久良・幸原・神野・牛屎・志加牟・曽於乃石城・比売乃城の7城を次々と攻 (せ)めていったのです。
 隼人軍は苦戦を強 (し)いられ、圧倒的な兵力をもつ政府軍の前に隼人の城は次々に落ち、最後まで抵抗し続けた曽於乃石城と比売乃城の隼人たちもついに戦死、また捕虜 (ほりょ)となったのです。 (隼人の乱では隼人族の戦死 又 (また)は捕虜(ほりょ)の合計が約1400人でした。 戦いは1年半近く続きました。)
 養老7年 (723年) 宇佐の集団は隼人の首を持ち帰り、(大分県の)宇佐の松隈に埋 (う)めました。 それが「凶首塚」 (昭和46年3月26日 県指定史跡)という石室古墳 (いしむろこふん)です。 鹿児島県 国分市 (現 霧島市)には隼人塚が残っています。
<放生会 (ほうじょうえ)と弥五郎どん>
 その後、(大分県の)宇佐地方に疫病 (えきびょう)が流行しました。 これは「隼人の乱でたくさんの反乱軍を殺した報 (むく)い」だとして「霊 (れい)を慰 (なぐさ)めるため放生会をすべし」と宇佐八幡の託宣 (たくせん)がありました。 神亀元年 (724年)のことです。
 隼人族の首領・弥五郎をはじめ犠牲 (ぎせい)となった、たくさんの隼人族の怨霊 (おんりょう)を恐れた大和朝廷は、全国で放生会を行わせました。 その名残 (なご)りが、現在の南九州の八幡神社で行われている「弥五郎どん祭り」です。
 三俣院 (みまたいん)の宗廟 (そうびょう)として和銅3年 (710年) (奈良時代は710年〜784年です。)に建立 (こんりゅう)された的野正八幡宮 (まとのしょうはちまんぐう)の御神幸祭では、御神幸行列の先頭に立つ弥五郎どんが、千数百年の時を経 (へ)た今も隼人族を守り、その勇姿 (ゆうし)を見せてくれています。

 「山之口弥五郎どん」の説明板から、
 毎年11月3日に宮崎県 都城市 山之口町の的野正八幡宮 周辺で行われ、約1000年の歴史を持ち、盛大な中にも古式豊かな一大絵巻の祭りで、素朴さに特徴があります。 文化庁から無形民俗文化財に選択されています。
 弥五郎どんは身の丈 (たけ)4 m 、顔には朱面を着 (つ)け、三俣大鋒 (ほこ)鉾 (ほこ)を負 (お)い、腰 (こし)には大小の刀を差 (さ)しています。
 弥五郎どんは明治維新の廃仏毀釈 (はいぶつきしゃく)により、竹内宿称と称 (しょう)されていましたが、隼人族 (はやとぞく)の首長ともいわれています。 「弥五郎どんゆかりのものに触 (ふ)れると病気をせず、1年中元気に過 (す)ごせる。」という言い伝えがあります。

 「飫肥 (おび)弥五郎様」の説明板から、
 毎年11月第2日曜日に宮崎県 日南市 飫肥の田ノ上八幡神社で斎行される例大祭では弥五郎様を曳 (ひ)く御神幸が盛大に執 (と)り行われます。 文化庁から無形民俗文化財に選択されています。
 弥五郎様は身の丈 (たけ)7 m 余り (御神幸用は 5.5 m )、白衣の上に紫色の素袴 (はかま)、赤袴を履 (は)き烏帽子 (えぼうし)をかぶり、5 m ほどの長刀を帯び、右手に長槍 (やり)をついています。
 伝説によると、大隅国 桑原郡に稲津弥五郎 (弥五郎様)というものがおり、八幡様の御神体を背負 (せお)い、現在の田ノ上八幡神社にお祀 (まつ)りしたと伝えられています。 弥五郎様の股 (また)を年の数だけ潜 (くぐ)ると無病息災の御神徳があると伝えられています。

 「大隅 (おおすみ)弥五郎どん」の説明板から、
 毎年11月3日に 鹿児島県 曽於市 大隅町の岩川八幡神社 周辺で行われ、約900年の伝統を持ち鹿児島県下 三大祭りの1つです。 鹿児島県から無形民俗文化財に指定されています。
 弥五郎どんは身の丈 (たけ)6 m の大男で、25反 (たん)もの梅染の衣を纏 (まと)い、ギョロリ目に太い眉 (まゆ)、4 m 25 cm と 2 m 85 cm の大小2刀を腰に携 (たずさ)えたその姿は、勇ましく威風堂々 (いふうどうどう)としています。 一説には300歳の長寿を誇 (ほこ)り、6代の天皇に仕 (つか)えた竹内宿称とされたり、隼人族 (はやとぞく)の首領などとも言われる伝説の巨人です。 穀物の豊作や地域守護の先導役として尊崇を集めています。

 「的野六面地蔵石幢 (まとのろくめんじぞうせきしょう、的野六面地蔵塔)」の標柱から、
この石塔は、万治元年 (1658年、江戸時代の初期。)に建立されたもので、明治初年の廃仏毀釈 (はいぶつきしゃく)時の受難の跡 (あと)が、東面と南面に見られます。 上部の地蔵は、6道において衆生の苦患を救うという地蔵で、6道輪回をあらわしています。

 「都城市立 富吉小学校」は宮崎県 都城市 山之口町 富吉 1659番地1 にあります。

 「上富吉地区体育館」は宮崎県 都城市 山之口町 富吉 1752番地7 にあります。

 「的野正八幡宮 (まとのしょうはちまんぐう)」は宮崎県 都城市 山之口町 大字富吉 字的野 1412番地 にあります。
 「的野正八幡宮 由来 (ゆらい)」の説明板から、
 祭神は、宇佐神宮と同じく応神天皇 (誉田別命)・玉依姫命 (比売大神)・神功皇后 (こうごう、息長足姫命)である。
 的野正八幡宮は、古文書にあるように和銅3年 (奈良時代のはじめ) 西暦710年 (弥五郎どんが首領だった隼人の乱の10年前です。) (奈良時代は710年〜784年です。)に創建され、三国名勝図会には「往古、大社なりしといへり」と記 (しる)されている。
 奈良・平安時代は荘園発達の時代に入り三俣院は700町歩の面積をもつ日本有数の荘園となる。 ここで収穫される農産物の集散地として、延喜式にみる水俣駅が当地 (山之口・推定)に置かれたのである。 駅には納税物を入れる倉庫が建ち、荘園を治める役所が設 (もう)けられ、運搬用として駅馬5頭が常時配置されていた。
 的野正八幡宮は、この三俣院の宗廟として栄え、新町 (字名、現在も残る。)は門前町の様相を呈 (てい)し賑 (にぎ)わったといわれている。
 武家政権の胎動 (たいどう)と同じくして、この荘園をめぐる抗争もはげしくなっていく。 肝付 (きもつき)氏ー島津氏ー伊東氏ー島津氏と攻防をくりかえす中でも、歴代の院司や領主たちに崇敬され、伊東家の氏神になったり、島津家の氏神になったりして厚く庇護 (ひご)されてきたのである。 的野正八幡宮の紋 (もん)が(島津の紋)の 丸に十の字 になったり、伊東の九曜の紋になったりしたのをみれば如何 (いか)に大事にされてきたかがわかる。 現在、的野正八幡宮の紋 (もん)は伊東家の九曜の紋である。
 この的野正八幡宮は、明治4年の廃藩置県・廃仏毀釈 (はいぶつきしゃく)によって大打撃をうけ、長くこの的野正八幡宮を守ってきた弥勒寺 (みろくじ)も財産を没収され跡形 (あとかた)もなく破壊されている。
 明治4年5月、神社の社格を定 (さだ)める太政官布告が出され、的野正八幡宮は郷社に列せられる。 翌年、明治5年7月円野神社と改号した。
 黎明 (れいめい)21世紀を迎 (むか)え、本殿の修復・幣拝殿御改築の奉祝を機として、平成14年4月30日これまでの円野神社を的野正八幡宮と改号し5月7日に登記したのである。

 「弥五郎どん祭り」
弥五郎どん祭りは平成2年2月27日に文化庁選択「無形民俗文化財」になりました。
説明板から、
毎年11月3日 (文化の日)に行われる弥五郎どん祭りでは、的野正八幡宮の御神幸行列の先頭に、放生会の主人公「弥五郎どん」の大きな人形がその勇姿を見せてくれます。 地元ではこの行列を 「浜殿下り」と呼んで、古い昔から伝わる最も盛んなお祭りです。 「弥五郎どんゆかりのものに触れると病気をせず1年中元気で幸せである。」という言い伝えから、人々に親しまれ、祭りの主役で地域のシンボルとして、最大の人気があります。
 「11月3日 弥五郎どん祭り」の説明板から、
 「弥五郎どんのゆかりのものに触 (ふ)れると病気をせず、1年中元気で幸せである。」との言い伝えから、みんなに親しまれ、祭りのシンボルとして1番の人気があります。 隼人族の首長「弥五郎どん人形」は放生会の主人公で、「浜殿下り」の先頭に立って露払い (つゆはらい)・悪魔払いをしてくれます。 神仏習合の八幡信仰の具体的展開として、貴重なものであるといわれています。
 「片剣舞 (かたつるぎまい、片刀の舞 (かたとうのまい))」の説明板から、
 毎年11月3日 弥五郎どん祭りの日に舞われる里神楽 (さとかぐら)である。 舞は、修験者 (しゅげんじゃ)がもつ鈴を右手に持ち剣を正眼の構えから、中刀、切っ先と舞い、最後に剣の柄 (つか)を執 (と)り左右に切り払い舞い、神の霊を鎮 (しず)め悪魔払いをして、人々の無病息災を祈願する神楽 (かぐら)である。
 「田の神舞 (たのかんめ)」の説明板から、
 現在、11月3日の「弥五郎どん祭り」で舞われている6つの神楽 (かぐら)の中で1番人気のある舞である。 舞は、田植えの時の姿そのままに前かがみで腰を折り、腰に幣竹 (へいちく)を2本差し、股 (もも)を高くあげて田んぼから引き抜 (ぬ)き、足先から前に踏 (ふ)み込 (こ)んでリズムよく踊っていく。 手には、鈴・メシゲ (しゃもじ)・扇 (おうぎ)をもち「稲穂の長さ1尺8寸ブラブラ ユラユラ・・・米粒の大きさ1寸8分コロコロ ゴロゴロ・・・」を唱 (とな)えながら、神の恵みによってできる米の尊 (たっと)さを述べて、無病息災、五穀豊穣、農耕安全を祈って舞う。
 「浦安の舞」の説明板から、
 昭和天皇の詠 (よ)まれた歌をもとにした浦安の舞は「扇の舞」、「鈴の舞」の2部構成からなる優雅な舞いである。 弥五郎どん祭りでは、町内の各地区を代表する4人の女子中学生が浜殿下りの仮殿で舞い、的野正八幡宮の神々に奉納する習慣である。
 「猿田彦の神」の説明板から、
 猿田彦は、悪鬼邪霊を怖 (おじ)けさせ打ち払って、露払いをしてくれるといわれている。 言い伝えでは、身長すこぶる高く、顔赤くして鼻高く、眼は大きくて、そのさまはホオズキの如 (ごと)くであった。 ニニギノミコトの降臨に際し最初じゃまをしたが、その後服属し道案内をしたと伝えられている。 的野正八幡宮の「浜殿下り」でも2人の猿田彦が3つの御神輿 (おみこし)をお守りして神様たちの道案内をしてくれる。
 「農村公園利用者の皆様」の看板 (かんばん)から、
 この農村公園 (的野農村公園)は憩 (いこ)いの場でお祭りが有る場所です。 農村公園を利用される皆様の御心でゴミはお持ち帰りをお願い致します。 的野正八幡宮。

 「古代ロマン 南九州大人弥五郎 伝説」の説明板から、
 南九州の大人弥五郎伝説は、養老4年 (720年) (奈良時代は710年〜784年です。)大和朝廷による隼人征伐 (はやとせいばつ)に由来 (ゆらい)します。 この時の「隼人の乱」では、多くの隼人族が斬首 (首切り)や残虐行為にあいました。 この隼人族の怨霊 (おんりょう)を恐れた大和朝廷は、全国規模で「放生会 (ほうじょうえ)」を行いました。
 弥五郎伝説は、神亀元年 (724年)に始まる「放生会=生類を放つために執 (と)り行われる儀式 (ぎしき)」が、後に大人 (おおひと)人形行事として数百年を超える歴史の中で郷土の誇 (ほこ)りとして先人から大切に保存・継承されてきた貴重な伝統文化行事です。 継承されているそれぞれの祭りでは、祭りの主役として先頭に立ち、神様達の先導役となって露払い (つゆはらい)、悪魔払いをしてくれます。
 南九州の八幡神社では、昔 弥五郎祭りが行われており、その史実も各地に残されていますが、現在「弥五郎人形行事」として行われているのは、宮崎県都城市山之口町の的野正八幡宮、鹿児島県曽於市大隅町の岩川八幡神社、宮崎県日南市飫肥の田ノ上八幡神社です。
 弥五郎は、誰なのか、いつ頃から始まり何のために、どのように保存・継承されてきたのか分からないことばかりですが、庶民に親しまれ愛されている大人弥五郎には畏怖 (いふ)の念さえ抱 (いだ)かされます。 大人弥五郎伝説の未来への思いを抱きつつ・・・
的野正八幡宮 和銅3年 (710年)(奈良時代は710年〜784年です。)創建 宮崎県都城市山之口町
岩川八幡神社 万寿2年 (1025年)創建 鹿児島県曽於市大隅町
田之上八幡神社 天永元年 (1110年)創建 宮崎市県日南市飫肥

 「ごったん」は南九州地方に伝わる楽器です。 バチを使わずに人差し指で弾 (ひ)くのが原則の楽器です。 3本の弦 (げん)の弦楽器です。 「ごったん」は箱三味線や板三味線とも呼 (よ)ばれます。 杉を材料として、三股町などで作られています。 歴史は約500年と言われています。 中国の雲南省、貴州省のミャオ族に伝わる三弦琵琶 (びわ)の楽器 古弾 (グータン)が「ごったん」の原形と言われています。 念仏信仰の伴奏楽器としても用いられます。 「ごったん」は宮崎県伝統工芸品に指定されています。


写真A: 県道47号の西に都城市立 富吉小学校が見えます。 手前は池之尾神社 (池之尾権現宮)の池 (御手洗池)です。 県道47号を右に進むとJR山之口駅、青井岳荘、宮崎市 田野町などに行きます。 県道47号を左に進むとJR三股駅、椎八重公園などに行きます。



写真B: 金網のところに「都城市立 富吉小学校」と書いてあります。



写真C: 県道47号です。 先 (北)に進むと約1 km のところにあじさい公園、JR山之口駅などがあります。



写真D: 左に富吉小学校があります。 北を見たものです。



写真E: 富吉小学校の門があります。 奥は校舎です。



写真F: 門に「都城市立 富吉小学校」と書いてあります。 校庭の木、校舎も見えています。



写真G: 富吉小学校の校舎です。 校舎にスピーカーもあります。



写真H: 富吉小学校の体育館と思われます。



写真I: 「富吉小学校→」、「←的野農村公園」と書いてある標識があります。 右に「二次避難所」と書いてあります。



写真J: 「←的野正八幡宮」、「←弥五郎の館」と書いてある標識があります。 右奥に上富吉地区体育館が見えます。 南を見たものです。



写真K: 的野農村公園が見えます。 鉄棒、石碑 (せきひ)、建物があります。



写真L: ブランコ、鉄棒などがあります。 的野農村公園です。



写真M: 左に広場もあります。 的野農村公園。



写真N: 北を見たものです。 左は県道47号です。



写真O: ここは十字路になっています。 右は富吉小学校です。 西を見たものです。



写真P: 南西を見たものです。 上富吉地区体育館があります。



写真Q: 「上富吉地区体育館」と建物に書いてあります。



写真R: 南を見たものです。 先に進むとJR三股駅、椎八重公園などに行きます。



写真S: 左に進むと弥五郎どんの館、的野正八幡宮があります。



写真T: 左に的野正八幡宮 (円野神社)の一の鳥居 (いちのとりい)が見えます。



写真U: 左に池之尾神社 (池之尾権現宮)の赤い社 (やしろ)が見えます。 中央に的野正八幡宮 (まとのしょうはちまんぐう)の一の鳥居 (とりい)があります。 手前の池 (御手洗池)にはスイレンが生 (は)えています。
弥五郎どんの大きな人形がでる的野正八幡宮の「浜殿下り (御神幸行列)」では 600 m 東にある的野正八幡宮から、この付近まで行列が進みます。



写真V: 池之尾権現宮 (池之尾神社)は池 (御手洗池)の中の島にあります。 島には2つの橋で渡 (わた)れます。



写真W: 北を見たものです。 県道47号です。



写真X: 東を見たものです。



写真Y: 池 (御手洗池)にスイレンの葉があります。



写真Z: 東を見たものです。 この道の突 (つ)き当 (あた)りに的野正八幡宮 (円野神社)があります。 弥五郎どんの館はこの道の左にあります。



写真AA: 一の鳥居 (とりい)に「的野正八幡宮」と書いてあります。



写真AB: 左に池之尾神社の赤い神橋が見えます。 石灯籠 (いしどうろう)も3つ見えています。



写真AC: 池之尾神社です。 左に富吉小学校が見えます。



写真AD: 池の奥に富吉小学校が見えます。



写真AE: 西を見たものです。



写真AF: 池之尾神社は池の中の島にあります。 2つの橋があります。



写真AG: 鳥居 (とりい)に「池之尾神社」と書いてあります。



写真AH: 池之尾神社の社 (やしろ)まで石を並 (なら)べてあります。



写真AI: 池之尾神社から見た富吉小学校と池 (御手洗池)です。 手前に古い木もあります。 西を見たものです。



写真AJ: 「池之尾権現宮」と書いてあります。 しめ縄 (なわ)、横木に象の彫 (ほ)り物もあります。



写真AK: 石が多くあります。



写真AL: しめ縄です。



写真AM: 赤い神橋が見えます。 奥に看板 (かんばん)があります。



写真AN: 裏から見たものです。



写真AO: 下部です。



写真AP: 東を見たものです。 神橋です。



写真AQ: 奥に赤い鳥居 (とりい)が見えます。 東を見たものです。



写真AR: 南を見たものです。



写真AS: 「ひむか神話街道、弥五郎どん祭りの絵もあります。 宮崎県「ひむか神話街道」 環境整備事業」の説明板があります。



写真AT: 「ひむか神話街道、弥五郎どん祭りの絵、神話街道の地図もあります。 宮崎県「ひむか神話街道」 環境整備事業」の説明板。



写真AU: 弥五郎どん祭りの絵です。 弥五郎どんの大きな人形も見えます。



写真AV: 「毎年11月3日 (文化の日)に行われる弥五郎どん祭りでは、的野正八幡宮の御神幸行列の先頭に、放生会の主人公「弥五郎どん」の大きな人形がその勇姿を見せてくれます。 地元ではこの行列を 「浜殿下り」と呼んで、古い昔から伝わる最も盛んなお祭りです。 「弥五郎どんゆかりのものに触れると病気をせず1年中元気で幸せである。」という言い伝えから、人々に親しまれ、祭りの主役で地域のシンボルとして、最大の人気があります。」
と書いてあります。



写真AW: 的野農村公園です。 滑り台 (すべりだい)、ブランコ、鉄棒、石碑 (せきひ)があります。 子どもたち、自転車も見えます。 奥は富吉小学校です。



写真AX: 赤い鳥居 (とりい)です。



写真AY: テーブル、椅子 (いす)があります。 左に滑り台 (すべりだい)があります。



写真AZ: 右にも椅子 (いす)、テーブルがあります。



写真BA: 広場です。



写真BB: 林があります。 東を見たものです。



写真BC: 上を見たものです。



写真BD: 「農村公園利用者の皆様」の看板 (かんばん)があります。
 この農村公園は憩 (いこ)いの場でお祭りが有る場所です。 農村公園を利用される皆様の御心でゴミはお持ち帰りをお願い致します。 的野正八幡宮
と書いてあります。



写真BE: 「自然と芸能のふるさとへ ようこそ! 山之口町 文化・史跡・観光案内」の看板 (かんばん)があります。



写真BF: 弥五郎どんの館、的野正八幡宮、あじさい公園、花木あげ馬、南方神社、荒平神社などの地図もあります。



写真BG: 人形の館、道の駅山之口、青井岳荘、青井岳キャンプ場などが載 (の)っています。



写真BH: 永野 島津寒天工場跡、安楽寺なども載 (の)っています。



写真BI: 田島かくれ念仏洞、安楽寺、南方神社も載 (の)っています。



写真BJ: 「昭和60年度 農村基盤整備事業」と書いてあります。 奥に赤い鳥居 (とりい)が見えます。 北を見たものです。



写真BK: 「的野農村公園 (まとののうそんこうえん)」と書いてあります。 北を見たものです。



写真BL: 「的野正八幡宮の一の鳥居 (とりい)」です。



写真BM: 一の鳥居 (とりい)です。



写真BN: 西を見たものです。



写真BO: 石灯籠 (いしどうろう)もあります。 南西を見たものです。



写真BP: 一の鳥居に「奉納 平成14年度 中原正近線道路改良工事により 鳥居 灯籠 (とうろう)を改築。」と書いてあります。



写真BQ: 一の鳥居に「的野正八幡宮 宮司 氏子一同 竣工 紀元2663年 平成15年4月吉日」と書いてあります。



写真BR: 「11月3日 弥五郎どんまつり 県指定・国選択無形文化財 保存会」と書いてある幟 (のぼり)があります。 国選択は平成2年2月27日に決まりました。



写真BS: 西を見たものです。 突 (つ)き当りに円野神社 (的野正八幡宮)があります。 その手前の左に弥五郎どんの館があります。 この参道には桜の並木 (なみき)があります。



写真BT: 突 (つ)き当りに的野正八幡宮の二の鳥居 (とりい)が小さく見えます。 東を見たものです。 奥に大きな山も見えています。 この山は東岳 (標高 898 m )です。
天神山の南西約1.5 km に東岳 (標高 898 m )があります。 この東岳は江戸時代に薩摩藩で浄土真宗が禁止されていたころに、宮崎市 清武町の伝道僧 佐々木深道が山越えして薩摩藩の山之口に入るときに通った山です。
「安楽寺」は宮崎県 都城市 山之口町 富吉 3527 にあります。
「安楽寺」は浄土真宗 本願寺派のお寺です。 島津は島津義弘が第2次朝鮮出兵した頃から、浄土真宗(一向宗)を禁制にしました。 それで信者は田島かくれ念仏洞などで密(ひそ)かに信仰を続けました(隠れ念仏)。 島津はそれを抑(おさ)えこむために拷問石(ごうもんいし)などで自白を迫(せま)りました。 責め苦に耐え切れずに白状すれば禅宗に改宗を命じられ、あくまでも拒否すれば死刑に処せられました。 特に武士の場合は、血判の上、改宗を誓っても処罰を免れず、切腹の重刑、軽くても家禄召揚の上、百姓として追放処分を受けました。 安楽寺にはその時の都城会所で使われた拷問石が5枚置いてあり、殉教之碑(じゅんきょうのひ)もそのそばにあります。 また、親鸞聖人(しんらんしょうにん)の像、久遠堂、大きなイチョウの木(安楽寺の大イチョウ)などもあります。 一向宗(浄土真宗)をこの地に伝えたのは島津藩外の清武(飫肥藩)から命がけで東岳(標高 898 m)を越えて来た伝道僧 佐々木深道(安楽寺の初代)でした。 東岳は桝安森林公園(ますやすしんりんこうえん)の北東 約6 kmにある山です。 安楽寺は安政3年に飫肥(おび)藩主により宮崎郡 清武郷に建立されました。 薩摩宗教難民の避難所の役割を果たしていました。 安楽寺の住職は念仏禁制の薩摩各地に潜入して布教を行いました。 明治26年に山之口地方 信徒の希望で現在地に寺号(寺の名前)移転しました。



写真BU: 遠くの山も見えています。 南東を見たものです。



写真BV: 参道です。



写真BW: 東を見たものです。 参道です。 左が弥五郎どんの館です。 右に六面地蔵塔が見えます。



写真BX: 農業用ビニールハウスの骨組みの奥に弥五郎どんの館の建物が見えます。 右はその入り口です。 北東を見たものです。



写真BY: 北を見たものです。 中央付近に弥五郎どんの館が見えます。



写真BZ: 北西を見たものです。



写真CA: 西を見たものです。 奥に一の鳥居 (とりい)が見えます。 桜の木が多くあります。



写真CB: 参道にある桜の木です。 南を見たものです。



写真CC: 参道から見た「弥五郎どんの館」です。 中央部がこのような塔の形になっています。



写真CD: 弥五郎どんの館の近くに「的野六面地蔵石幢(ろくめんじぞうせきしょう、六地蔵塔)」があります。 屋根があります。



写真CE: 「的野六面地蔵石幢(ろくめんじぞうせきしょう、六地蔵塔)」の下部です。 参道の南側にあります。 弥五郎どんの館の入り口のそばです。



写真CF: 「的野六面地蔵石幢(ろくめんじぞうせきしょう、六地蔵塔)」の上部です。



写真CG: 「的野六面地蔵石幢(ろくめんじぞうせきしょう、六地蔵塔)」の中部です。 文字も彫 (ほ)ってあります。



写真CH: 「的野六面地蔵石幢(ろくめんじぞうせきしょう、六地蔵塔)」にある文字です。



写真CI: 文字もあります。



写真CJ: 「的野六面地蔵石幢(ろくめんじぞうせきしょう、六地蔵塔)」の下部です。



写真CK: 上部に地蔵を彫 (ほ)ってあります。



写真CL: 側面が見えます。



写真CM: 六面地蔵の内の2つの地蔵様が見えます。 元 (もと)は6つあります。



写真CN: 中部です。



写真CO: 「的野六面地蔵石幢(ろくめんじぞうせきしょう、六地蔵塔)」のお地蔵様の像です。



写真CP: 「的野六面地蔵石幢(ろくめんじぞうせきしょう)、この石塔は、万治元年 (1658年、江戸時代の初期。)に建立されたもので、明治初年の廃仏毀釈 (はいぶつきしゃく)時の受難の跡 (あと)が、東面と南面に見られます。 上部の地蔵は、6道において衆生の苦患を救うという地蔵で、6道輪回をあらわしています。」と書いてある標柱です。



写真CQ: 「この石塔は、万治元年 (1658年、江戸時代の初期。)に建立されたもので、明治初年の廃仏毀釈 (はいぶつきしゃく)時の受難の跡 (あと)が、東面と南面に見られます。 上部の地蔵は、6道において衆生の苦患を救うという地蔵で、6道輪回をあらわしています。」と標柱に書いてあります。



写真CR: 「的野六面地蔵石幢(ろくめんじぞうせきしょう)、この石塔は、万治元年 (1658年、江戸時代の初期。)に建立されたもので、明治初年の廃仏毀釈 (はいぶつきしゃく)時の受難の跡 (あと)が、東面と南面に見られます。 上部の地蔵は、6道において衆生の苦患を救うという地蔵で、6道輪回をあらわしています。」と書いてある標柱。



写真CS: 「的野六面地蔵石幢(ろくめんじぞうせきしょう)、この石塔は、万治元年 (1658年、江戸時代の初期。)に建立されたもので、明治初年の廃仏毀釈 (はいぶつきしゃく)時の受難の跡 (あと)が、東面と南面に見られます。 上部の地蔵は、6道において衆生の苦患を救うという地蔵で、6道輪回をあらわしています。」と書いてあります。



写真CT: 北を見たものです。 弥五郎どんの面が入り口にあります。 北を見たものです。
「弥五郎どんの館 (やごろうどんのやかた)」は宮崎県 都城市 山之口町 富吉 1702番地 にあります。
弥五郎どんの館は弥五郎どん祭り関係の多くの展示があります。 世代間交流の場の交流研修室、生活改善食品加工室も併設されています。 弥五郎どんの高さ 4 m の大人 (おおひと)人形 (これは実物大レプリカです。)、的野正八幡宮の例大祭の御神幸行列 (浜殿下り、一の鳥居 (とりい)のそばの御手洗池 (みたらいいけ)を海に見立てています。)の模型、パネル表示、ビデオなどがあります。 言い伝えでは的野正八幡宮の神が年に1度、600 m 西の御手洗池の小さな島にある池之尾神社 (池之尾権現宮)にいる母の神功皇后 (こうごう)に会いに行きます。 御手洗池のそばの仮殿で、神楽 (かぐら)、浦安の舞い、郷土芸能などが舞 (ま)われます。 浜殿下り (御神幸行列)では弥五郎どんの大きな人形、大きな鞍 (くら)を付けた御神馬、3つの神輿 (みこし)なども出ます。 弥五郎どんの大きな人形は中は竹を組 (く)んで作ってあります。 御神馬に付き添 (そ)った人たちが「御神馬馬方節 (ごしんばうまかたぶし)」を歌いながら進みます。 「弥五郎どん」とは奈良時代初期の大和朝廷 (ちょうてい)と隼人族が戦った、隼人の乱のときの隼人族の首領と言われています。 隼人側は数千人の兵が集まりました。 7箇所 (かしょ)の城に立てこもりました。 大和朝廷は九州各地から1万人以上の兵を集めました。 そして九州の東側と西側の二つの経路で進軍しました。 戦いは1年半近く続きました。 隼人の乱では隼人族の戦死者と捕虜 (ほりょ)の合計が約1400人でした。 隼人族の首は大分県の宇佐神宮の近くへ持っていかれました。 それが「凶首塚」 (昭和46年3月26日 県指定史跡)という石室古墳 (いしむろこふん)です。 鹿児島県 国分市 (現 霧島市)には隼人塚が残っています。 捕虜は都 (奈良県の平城京 (平城京は710年から784年です。))に連 (つ)れて行かれました。



写真CU: 「弥五郎どんの館 (やごろうどんのやかた)」と書いてある標柱が入り口にあります。



写真CV: 入り口に弥五郎どんの面があります。 ヒゲもあります。



写真CW: 下に「弥五郎どんの館」と書いてあります。



写真CX: 黄色のコスモスの花も見えます。



写真CY: 入り口の近くです。



写真CZ: 弥五郎どんの館の入り口から東を見たものです。 桜の並木 (なみき)、奥に小さく的野正八幡宮の二の鳥居 (とりい)が見えています。 参道のそばに「弥五郎どんの館」があります。



写真DA: 弥五郎どんの館の駐車場もあります。 北東を見たものです。



写真DB: 弥五郎どんの館と駐車場です。 北を見たものです。



写真DC: 入り口に「弥五郎どんの館」と書いてあります。



写真DD: 弥五郎どんの館の入り口です。



写真DE: 入り口付近です。



写真DF: 弥五郎どんの館の入り口から西を見たものです。 一の鳥居 (とりい)、桜の並木 (なみき)が見えます。



写真DG: 南西を見たものです。 六面地蔵塔が見えます。



写真DH: 南を見たものです。 六面地蔵塔は「弥五郎どんの館」の入り口の近くにあります。



写真DI: 南東を見たものです。



写真DJ: 西を見たものです。 大型の農機具がこちらに向かっています。



写真DK: 「弥五郎どんの館」です。 中央の高い塔の中に「大きな弥五郎どんの人形」があります。 北を見たものです。
「弥五郎どんの館 (やごろうどんのやかた)」は宮崎県 都城市 山之口町 富吉 1702番地 にあります。



写真DL: 弥五郎どんの館です。



写真DM: 「11月3日 円野神社 弥五郎どんまつり 保存会」と書いてある幟 (のぼり)があります。 円野神社は的野正八幡宮とも呼 (よ)ばれます。



写真DN: 弥五郎どんの館の建物です。 北東を見たものです。



写真DO:  左の建物の中に「弥五郎どんの巨大人形」があります。



写真DP:  弥五郎どんの館です。 入り口も見えます。 北を見たものです。



写真DQ: 北西を見たものです。 左は地場産品直売場 「古代ロマンひむか街道」、「水俣駅」です。



写真DR: 西を見たものです。



写真DS: 南西を見たものです。



写真DT: 南を見たものです。



写真DU: 東を見たものです。



写真DV: 建物です。



写真DW: 「ニチニチソウの花」が咲いていました。



写真DX: 建物に「生活改善食品加工室の使用について。」の看板 (かんばん)があります。



写真DY: 「生活改善食品加工室の使用について。」の看板 (かんばん)です。



写真DZ: 飲料水の自動販売機もあります。



写真EA: 「弥五郎どんの館、中山間地域総合整備事業、弥五郎どん交流活性化センター」の入り口です。



写真EB: 入り口の近くです。 植物を育てるプランターが並 (なら)んでいます。



写真EC: 北西を見たものです。



写真ED: 塔の屋根の上に「弥五郎どんの面」があります。



写真EE: 「御利用案内」の看板 (かんばん)があります。



写真EF: 弥五郎どんの館の玄関です。 右から入ります。



写真EG: 弥五郎どんの館の玄関。



写真EH: 「山之口弥五郎どん祭り、文化庁選択・宮崎県指定「無形民俗文化財」、11月3日 (祝) 11時30分 浜殿下り (御神幸行列)。」と書いてあります。



写真EI: 弥五郎どん祭りの絵も載 (の)っています。 弥五郎どんの巨大人形、神輿 (みこし)も見えます。



写真EJ: 弥五郎どんの大きな人形を展示してあります。 顔は赤い面です。 頭の上に3つの槍 (やり)のようなものがあります。 刀も2本さしています。 台車の上に乗っています。



写真EK: 弥五郎どんの巨大人形の下部です。 台車の上に乗っています。



写真EL: 室内です。



写真EM: 天井 (てんじょう)はこのようになっています。 上に明 (あ)かり窓があります。



写真EN: 照明もあります。



写真EO: 弥五郎どん関係の展示があります。



写真EP: 獅子舞 (ししまい)のシシもあります。 このシシは「御神幸行列 浜殿下り」の先頭をつとめます。



写真EQ: 左下に草鞋 (わらじ)を履 (は)いた弥五郎どんの足と台車の木製車輪が見えます。
「11月3日 弥五郎どん祭り」の説明板があります。
 「弥五郎どんのゆかりのものに触 (ふ)れると病気をせず、1年中元気で幸せである。」との言い伝えから、みんなに親しまれ、祭りのシンボルとして1番の人気があります。 隼人族の首長「弥五郎どん人形」は放生会の主人公で、「浜殿下り」の先頭に立って露払い (つゆはらい)・悪魔払いをしてくれます。 神仏習合の八幡信仰の具体的展開として、貴重なものであるといわれています。



写真ER: 台車に御幣 (ごへい)があります。



写真ES: 「宮崎県指定 文化庁選択 山之口弥五郎どん祭り」と書いてあります。
右下に大小2つの置物があります。



写真ET: お賽銭箱 (さいせんばこ)の後ろに2つの美しい置物が2つあります。



写真EU: 大小2つの置物に弥五郎どん人形の絵があります。



写真EV: 2本の刀と台車の上部も見えます。



写真EW: 弥五郎どん人形は白い布の着物を身に付けています。



写真EX: 弥五郎どん人形の顔にはヒゲがあります。 顔は赤い面です。 頭に3本の槍 (やり)のようなものがあります。



写真EY: 弥五郎どんの顔などです。



写真EZ: 側面から見た弥五郎どんの下部です。 台車の木製車輪と弥五郎どんが履 (は)いている草履 (ぞうり)が見えます。 刀も2本見えます。 台車にまたがるように弥五郎どんは立っています。



写真FA: 側面から見た弥五郎どんの中部です。



写真FB: 側面から見た弥五郎どんの上部です。 頭部の後ろに飾 (かざ)りがあります。



写真FC: 弥五郎どん人形の背部です。 3本の先端部がある槍 (やり)が台車のところから上に伸び、頭部の上に出ています。 槍 (やり)に緑色と白の飾りが付いています。 弥五郎どんの帯 (おび)も見えます。



写真FD: 弥五郎どんの背部の下部です。 わら草履 (ぞうり)と台車の車輪がよく見えます。 車輪のところに車止め (くるまどめ)があります。



写真FE: 車輪の軸 (じく)に細い棒を付けてあります。 右足の内部が少し見えます。



写真FF: 毎年11月3日 弥五郎どん祭りの日に舞われる里神楽 (さとかぐら)の「片剣舞 (かたつるぎまい、片刀の舞 (かたとうのまい))」です。



写真FG: 「片剣舞 (かたつるぎまい、片刀の舞 (かたとうのまい))」の説明板です。
 毎年11月3日 弥五郎どん祭りの日に舞われる里神楽 (さとかぐら)である。 舞は、修験者 (しゅげんじゃ)がもつ鈴を右手に持ち剣を正眼の構えから、中刀、切っ先と舞い、最後に剣の柄 (つか)を執 (と)り左右に切り払い舞い、神の霊を鎮 (しず)め悪魔払いをして、人々の無病息災を祈願する神楽 (かぐら)である。
と書いてあります。



写真FH: 「田の神舞 (たのかんめ)」です。
11月3日の「弥五郎どん祭り」で舞われている6つの神楽 (かぐら)の中で1番人気のある舞です。



写真FI: 「田の神舞 (たのかんめ)」の説明板です。
 現在、11月3日の「弥五郎どん祭り」で舞われている6つの神楽 (かぐら)の中で1番人気のある舞である。 舞は、田植えの時の姿そのままに前かがみで腰を折り、腰に幣竹 (へいちく)を2本差し、股 (もも)を高くあげて田んぼから引き抜 (ぬ)き、足先から前に踏 (ふ)み込 (こ)んでリズムよく踊っていく。 手には、鈴・メシゲ (しゃもじ)・扇 (おうぎ)をもち「稲穂の長さ1尺8寸ブラブラ ユラユラ・・・米粒の大きさ1寸8分コロコロ ゴロゴロ・・・」を唱 (とな)えながら、神の恵みによってできる米の尊 (たっと)さを述べて、無病息災、五穀豊穣、農耕安全を祈って舞う。
と書いてあります。



写真FJ: 弥五郎どんの館の展示です。



写真FK: 「御神幸行列 浜殿下り」の昔の絵です。 先頭に今の人形とは異なる弥五郎どんの巨大人形がいます。 やはり台車に乗っています。



写真FL: 「御神幸行列 浜殿下り」の説明板があります。



写真FM: 弥五郎どんの面です。 顔の右上の部分が割れていて補修してあります。
「江戸時代から明治時代のはじめ (廃仏毀釈 (はいぶつきしゃく))まで使用された最も古い面。 的野正八幡宮 所蔵」と書いてあります。



写真FN: 「江戸時代から明治時代のはじめ (廃仏毀釈 (はいぶつきしゃく))まで使用された最も古い面。 的野正八幡宮 所蔵」と書いてあります。



写真FO: 「明治・大正・昭和時代に使用された面。 的野正八幡宮 所蔵」と書いてあります。



写真FP: 「御神幸行列 浜殿下り」の模型を展示してあります。 先頭に獅子舞 (ししまい)のシシが見えます。 弥五郎どんの巨大人形の台車に紐 (ひも)を付けて何人かの人が引いています。 池之尾神社、一の鳥居 (とりい)、弥五郎どんの館の模型も見えます。



写真FQ: 弥五郎どんの人形、馬、太鼓 (たいこ)、神輿 (みこし)の模型があります。



写真FR: 3つの神輿 (みこし)の模型があります。



写真FS: 的野正八幡宮の石段、二の鳥居 (とりい)、神輿 (みこし)の模型があります。



写真FT: 的野正八幡宮の模型です。 弥五郎どんの館にあります。



写真FU: 「猿田彦の神」です。



写真FV: 「猿田彦の神」の下部です。 高下駄 (たかげた)を履 (は)いています。



写真FW: 「猿田彦の神」の説明板です。
 猿田彦は、悪鬼邪霊を怖 (おじ)けさせ打ち払って、露払いをしてくれるといわれている。 言い伝えでは、身長すこぶる高く、顔赤くして鼻高く、眼は大きくて、そのさまはホオズキの如 (ごと)くであった。 ニニギノミコトの降臨に際し最初じゃまをしたが、その後服属し道案内をしたと伝えられている。 的野正八幡宮の「浜殿下り」でも2人の猿田彦が3つの御神輿 (おみこし)をお守りして神様たちの道案内をしてくれる。
と書いてあります。



写真FX: 3つの神輿 (みこし)を展示してあります。 弥五郎どんの館です。



写真FY: 神輿 (みこし)と「浦安の舞」です。



写真FZ: 「的野正八幡宮 由来 (ゆらい)」の説明板です。
 祭神は、宇佐神宮と同じく応神天皇 (誉田別命)・玉依姫命 (比売大神)・神功皇后 (こうごう、息長足姫命)である。
 的野正八幡宮は、古文書にあるように和銅3年 (奈良時代のはじめ) 西暦710年 (奈良時代は710年〜784年です。)に創建され、三国名勝図会には「往古、大社なりしといへり」と記 (しる)されている。
 奈良・平安時代は荘園発達の時代に入り三俣院は700町歩の面積をもつ日本有数の荘園となる。 ここで収穫される農産物の集散地として、延喜式にみる水俣駅が当地 (山之口・推定)に置かれたのである。 駅には納税物を入れる倉庫が建ち、荘園を治める役所が設 (もう)けられ、運搬用として駅馬5頭が常時配置されていた。
 的野正八幡宮は、この三俣院の宗廟として栄え、新町 (字名、現在も残る。)は門前町の様相を呈 (てい)し賑 (にぎ)わったといわれている。
 武家政権の胎動 (たいどう)と同じくして、この荘園をめぐる抗争もはげしくなっていく。 肝付 (きもつき)氏ー島津氏ー伊東氏ー島津氏と攻防をくりかえす中でも、歴代の院司や領主たちに崇敬され、伊東家の氏神になったり、島津家の氏神になったりして厚く庇護 (ひご)されてきたのである。 的野正八幡宮の紋 (もん)が(島津の紋)の 丸に十の字 になったり、伊東の九曜の紋になったりしたのをみれば如何 (いか)に大事にされてきたかがわかる。 現在、的野正八幡宮の紋 (もん)は伊東家の九曜の紋である。
 この的野正八幡宮は、明治4年の廃藩置県・廃仏毀釈 (はいぶつきしゃく)によって大打撃をうけ、長くこの的野正八幡宮を守ってきた弥勒寺 (みろくじ)も財産を没収され跡形 (あとかた)もなく破壊されている。
 明治4年5月、神社の社格を定 (さだ)める太政官布告が出され、的野正八幡宮は郷社に列せられる。 翌年、明治5年7月円野神社と改号した。
 黎明 (れいめい)21世紀を迎 (むか)え、本殿の修復・幣拝殿御改築の奉祝を機として、平成14年4月30日これまでの円野神社を的野正八幡宮と改号し5月7日に登記したのである。
と書かれています。



写真GA: 「的野正八幡宮 由来 (ゆらい)」の説明板。
 祭神は、宇佐神宮と同じく応神天皇 (誉田別命)・玉依姫命 (比売大神)・神功皇后 (こうごう、息長足姫命)である。
 的野正八幡宮は、古文書にあるように和銅3年 (奈良時代のはじめ) 西暦710年 (奈良時代は710年〜784年です。)に創建され、三国名勝図会には「往古、大社なりしといへり」と記 (しる)されている。
 奈良・平安時代は荘園発達の時代に入り三俣院は700町歩の面積をもつ日本有数の荘園となる。 ここで収穫される農産物の集散地として、延喜式にみる水俣駅が当地 (山之口・推定)に置かれたのである。 駅には納税物を入れる倉庫が建ち、荘園を治める役所が設 (もう)けられ、運搬用として駅馬5頭が常時配置されていた。
 的野正八幡宮は、この三俣院の宗廟として栄え、新町 (字名、現在も残る。)は門前町の様相を呈 (てい)し賑 (にぎ)わったといわれている。
 武家政権の胎動 (たいどう)と同じくして、この荘園をめぐる抗争もはげしくなっていく。 肝付 (きもつき)氏ー島津氏ー伊東氏ー島津氏と攻防をくりかえす中でも、歴代の院司や領主たちに崇敬され、伊東家の氏神になったり、島津家の氏神になったりして厚く庇護 (ひご)されてきたのである。 的野正八幡宮の紋 (もん)が(島津の紋)の 丸に十の字 になったり、伊東の九曜の紋になったりしたのをみれば如何 (いか)に大事にされてきたかがわかる。 現在、的野正八幡宮の紋 (もん)は伊東家の九曜の紋である。
 この的野正八幡宮は、明治4年の廃藩置県・廃仏毀釈 (はいぶつきしゃく)によって大打撃をうけ、長くこの的野正八幡宮を守ってきた弥勒寺 (みろくじ)も財産を没収され跡形 (あとかた)もなく破壊されている。
 明治4年5月、神社の社格を定 (さだ)める太政官布告が出され、的野正八幡宮は郷社に列せられる。 翌年、明治5年7月円野神社と改号した。
 黎明 (れいめい)21世紀を迎 (むか)え、本殿の修復・幣拝殿御改築の奉祝を機として、平成14年4月30日これまでの円野神社を的野正八幡宮と改号し5月7日に登記したのである。
と書かれています。



写真GB: 「的野正八幡宮 由来 (ゆらい)」の説明板です。
 祭神は、宇佐神宮と同じく応神天皇 (誉田別命)・玉依姫命 (比売大神)・神功皇后 (こうごう、息長足姫命)である。
 的野正八幡宮は、古文書にあるように和銅3年 (奈良時代のはじめ) 西暦710年 (奈良時代は710年〜784年です。)に創建され、三国名勝図会には「往古、大社なりしといへり」と記 (しる)されている。
 奈良・平安時代は荘園発達の時代に入り三俣院は700町歩の面積をもつ日本有数の荘園となる。 ここで収穫される農産物の集散地として、延喜式にみる水俣駅が当地 (山之口・推定)に置かれたのである。 駅には納税物を入れる倉庫が建ち、荘園を治める役所が設 (もう)けられ、運搬用として駅馬5頭が常時配置されていた。
 的野正八幡宮は、この三俣院の宗廟として栄え、新町 (字名、現在も残る。)は門前町の様相を呈 (てい)し賑 (にぎ)わったといわれている。
 武家政権の胎動 (たいどう)と同じくして、この荘園をめぐる抗争もはげしくなっていく。 肝付 (きもつき)氏ー島津氏ー伊東氏ー島津氏と攻防をくりかえす中でも、歴代の院司や領主たちに崇敬され、伊東家の氏神になったり、島津家の氏神になったりして厚く庇護 (ひご)されてきたのである。 的野正八幡宮の紋 (もん)が(島津の紋)の 丸に十の字 になったり、伊東の九曜の紋になったりしたのをみれば如何 (いか)に大事にされてきたかがわかる。 現在、的野正八幡宮の紋 (もん)は伊東家の九曜の紋である。
 この的野正八幡宮は、明治4年の廃藩置県・廃仏毀釈 (はいぶつきしゃく)によって大打撃をうけ、長くこの的野正八幡宮を守ってきた弥勒寺 (みろくじ)も財産を没収され跡形 (あとかた)もなく破壊されている。
 明治4年5月、神社の社格を定 (さだ)める太政官布告が出され、的野正八幡宮は郷社に列せられる。 翌年、明治5年7月円野神社と改号した。
 黎明 (れいめい)21世紀を迎 (むか)え、本殿の修復・幣拝殿御改築の奉祝を機として、平成14年4月30日これまでの円野神社を的野正八幡宮と改号し5月7日に登記したのである。
と書かれています。



写真GC: 「的野正八幡宮 由来 (ゆらい)」の説明板です。
 祭神は、宇佐神宮と同じく応神天皇 (誉田別命)・玉依姫命 (比売大神)・神功皇后 (こうごう、息長足姫命)である。
 的野正八幡宮は、古文書にあるように和銅3年 (奈良時代のはじめ) 西暦710年 (奈良時代は710年〜784年です。)に創建され、三国名勝図会には「往古、大社なりしといへり」と記 (しる)されている。
 奈良・平安時代は荘園発達の時代に入り三俣院は700町歩の面積をもつ日本有数の荘園となる。 ここで収穫される農産物の集散地として、延喜式にみる水俣駅が当地 (山之口・推定)に置かれたのである。 駅には納税物を入れる倉庫が建ち、荘園を治める役所が設 (もう)けられ、運搬用として駅馬5頭が常時配置されていた。
 的野正八幡宮は、この三俣院の宗廟として栄え、新町 (字名、現在も残る。)は門前町の様相を呈 (てい)し賑 (にぎ)わったといわれている。
 武家政権の胎動 (たいどう)と同じくして、この荘園をめぐる抗争もはげしくなっていく。 肝付 (きもつき)氏ー島津氏ー伊東氏ー島津氏と攻防をくりかえす中でも、歴代の院司や領主たちに崇敬され、伊東家の氏神になったり、島津家の氏神になったりして厚く庇護 (ひご)されてきたのである。 的野正八幡宮の紋 (もん)が(島津の紋)の 丸に十の字 になったり、伊東の九曜の紋になったりしたのをみれば如何 (いか)に大事にされてきたかがわかる。 現在、的野正八幡宮の紋 (もん)は伊東家の九曜の紋である。
 この的野正八幡宮は、明治4年の廃藩置県・廃仏毀釈 (はいぶつきしゃく)によって大打撃をうけ、長くこの的野正八幡宮を守ってきた弥勒寺 (みろくじ)も財産を没収され跡形 (あとかた)もなく破壊されている。
 明治4年5月、神社の社格を定 (さだ)める太政官布告が出され、的野正八幡宮は郷社に列せられる。 翌年、明治5年7月円野神社と改号した。
 黎明 (れいめい)21世紀を迎 (むか)え、本殿の修復・幣拝殿御改築の奉祝を機として、平成14年4月30日これまでの円野神社を的野正八幡宮と改号し5月7日に登記したのである。
と書かれています。



写真GD: 「第2の御神輿 (おみこし) 玉依姫命」です。



写真GE: 「第1の御神輿 (おみこし) 応神天皇」です。



写真GF: 「第3の御神輿 (おみこし) 神功皇后」です。



写真GG: 「浦安の舞」です。



写真GH: 「浦安の舞」の説明板です。
 昭和天皇の詠 (よ)まれた歌をもとにした浦安の舞は「扇の舞」、「鈴の舞」の2部構成からなる優雅な舞いである。 弥五郎どん祭りでは、町内の各地区を代表する4人の女子中学生が浜殿下りの仮殿で舞い、的野正八幡宮の神々に奉納する習慣である。
と書いてあります。



写真GI:  「飫肥 (おび)弥五郎様」の説明板があります。
 毎年11月第2日曜日に宮崎県 日南市 飫肥の田ノ上八幡神社で斎行される例大祭では弥五郎様を曳 (ひ)く御神幸が盛大に執 (と)り行われます。 文化庁から無形民俗文化財に選択されています。
 弥五郎様は身の丈 (たけ)7 m 余り (御神幸用は 5.5 m )、白衣の上に紫色の素袴 (はかま)、赤袴を履 (は)き烏帽子 (えぼうし)をかぶり、5 m ほどの長刀を帯び、右手に長槍 (やり)をついています。
 伝説によると、大隅国 桑原郡に稲津弥五郎 (弥五郎様)というものがおり、八幡様の御神体を背負 (せお)い、現在の田ノ上八幡神社にお祀 (まつ)りしたと伝えられています。 弥五郎様の股 (また)を年の数だけ潜 (くぐ)ると無病息災の御神徳があると伝えられています。
と書かれています。



写真GJ: 「山之口弥五郎どん」の説明板です。
 毎年11月3日に宮崎県 都城市 山之口町の的野正八幡宮 周辺で行われ、約1000年の歴史を持ち、盛大な中にも古式豊かな一大絵巻の祭りで、素朴さに特徴があります。 文化庁から無形民俗文化財に選択されています。
 弥五郎どんは身の丈 (たけ)4 m 、顔には朱面を着 (つ)け、三俣大鋒 (ほこ)鉾 (ほこ)を負 (お)い、腰 (こし)には大小の刀を差 (さ)しています。
 弥五郎どんは明治維新の廃仏毀釈 (はいぶつきしゃく)により、竹内宿称と称 (しょう)されていましたが、隼人族 (はやとぞく)の首長ともいわれています。 「弥五郎どんゆかりのものに触 (ふ)れると病気をせず、1年中元気に過 (す)ごせる。」という言い伝えがあります。
と書いてあります。



写真GK: 「大隅 (おおすみ)弥五郎どん」の説明板があります。
 毎年11月3日に 鹿児島県 曽於市 大隅町の岩川八幡神社 周辺で行われ、約900年の伝統を持ち鹿児島県下 三大祭りの1つです。 鹿児島県から無形民俗文化財に指定されています。
 弥五郎どんは身の丈 (たけ)6 m の大男で、25反 (たん)もの梅染の衣を纏 (まと)い、ギョロリ目に太い眉 (まゆ)、4 m 25 cm と 2 m 85 cm の大小2刀を腰に携 (たずさ)えたその姿は、勇ましく威風堂々 (いふうどうどう)としています。 一説には300歳の長寿を誇 (ほこ)り、6代の天皇に仕 (つか)えた竹内宿称とされたり、隼人族 (はやとぞく)の首領などとも言われる伝説の巨人です。 穀物の豊作や地域守護の先導役として尊崇を集めています。
と書いてあります。



写真GL: 「隼人の乱 (はやとのらん)と放生会 (ほうじょうえ)」の説明板があります。
<隼人反乱の原因>
 ことの起こりは、大和朝廷 (やまとちょうてい)が全国の地方政治をより細かく行っていくために制定した「養老律令 (ようろうりつりょう)」です。 酋長 (しゅうちょう)を中心に強固な共同体を組織していた隼人にとっては、中央から派遣 (はけん)された官僚に支配されることは大変な屈辱 (くつじょく)でした。
 養老4年 (720年)2月29日 (奈良時代は710年〜784年です。)、大隅 (おおすみ)、日向 (ひゅうが)の隼人らは初代 大隅国守・陽候史麻呂を殺害して反乱を起こしました。 同年3月4日、朝廷は中納言 大伴旅人を征隼人持節大将軍とし、また笠御室と巨勢真人を福将軍として派遣 (はけん)しました。 同年9月、当時 豊前守であった正六位 宇努首男人が将軍として戦地に赴 (おもむ)き、また八幡神の禰宜辛嶋勝波米豆が御権人となって薦神社 (中津市 大貞)の「真薦」を刈 (か)り取りました。 さらに下宮に御羽屋殿を建て、そこで「薦枕」の「御験」を御神体として、御神輿 (おみこし)に奉 (ほう)じて隼人たちの立てこもる奴久良・幸原・神野・牛屎・志加牟・曽於乃石城・比売乃城の7城を次々と攻 (せ)めていったのです。
 隼人軍は苦戦を強 (し)いられ、圧倒的な兵力をもつ政府軍の前に隼人の城は次々に落ち、最後まで抵抗し続けた曽於乃石城と比売乃城の隼人たちもついに戦死、また捕虜 (ほりょ)となったのです。 (隼人の乱では隼人族の戦死 又 (また)は捕虜(ほりょ)の合計が約1400人でした。 戦いは1年半近く続きました。)
 養老7年 (723年) 宇佐の集団は隼人の首を持ち帰り、(大分県の)宇佐の松隈に埋 (う)めました。 それが「凶首塚」 (昭和46年3月26日 県指定史跡)という石室古墳 (いしむろこふん)です。 鹿児島県 国分市 (現 霧島市)には隼人塚が残っています。
<放生会 (ほうじょうえ)と弥五郎どん>
 その後、(大分県の)宇佐地方に疫病 (えきびょう)が流行しました。 これは「隼人の乱でたくさんの反乱軍を殺した報 (むく)い」だとして「霊 (れい)を慰 (なぐさ)めるため放生会をすべし」と宇佐八幡の託宣 (たくせん)がありました。 神亀元年 (724年)のことです。
 隼人族の首領・弥五郎をはじめ犠牲 (ぎせい)となった、たくさんの隼人族の怨霊 (おんりょう)を恐れた大和朝廷は、全国で放生会を行わせました。 その名残 (なご)りが、現在の南九州の八幡神社で行われている「弥五郎どん祭り」です。
 三俣院 (みまたいん)の宗廟 (そうびょう)として和銅3年 (710年)に建立 (こんりゅう)された的野正八幡宮 (まとのしょうはちまんぐう)の御神幸祭では、御神幸行列の先頭に立つ弥五郎どんが、千数百年の時を経 (へ)た今も隼人族を守り、その勇姿 (ゆうし)を見せてくれています。
と書かれています。



写真GM: 「隼人の乱 (はやとのらん)と放生会 (ほうじょうえ)」の説明板です。
<隼人反乱の原因>
 ことの起こりは、大和朝廷 (やまとちょうてい)が全国の地方政治をより細かく行っていくために制定した「養老律令 (ようろうりつりょう)」です。 酋長 (しゅうちょう)を中心に強固な共同体を組織していた隼人にとっては、中央から派遣 (はけん)された官僚に支配されることは大変な屈辱 (くつじょく)でした。
 養老4年 (720年)2月29日 (奈良時代は710年〜784年です。)、大隅 (おおすみ)、日向 (ひゅうが)の隼人らは初代 大隅国守・陽候史麻呂を殺害して反乱を起こしました。 同年3月4日、朝廷は中納言 大伴旅人を征隼人持節大将軍とし、また笠御室と巨勢真人を福将軍として派遣 (はけん)しました。 同年9月、当時 豊前守であった正六位 宇努首男人が将軍として戦地に赴 (おもむ)き、また八幡神の禰宜辛嶋勝波米豆が御権人となって薦神社 (中津市 大貞)の「真薦」を刈 (か)り取りました。 さらに下宮に御羽屋殿を建て、そこで「薦枕」の「御験」を御神体として、御神輿 (おみこし)に奉 (ほう)じて隼人たちの立てこもる奴久良・幸原・神野・牛屎・志加牟・曽於乃石城・比売乃城の7城を次々と攻 (せ)めていったのです。
 隼人軍は苦戦を強 (し)いられ、圧倒的な兵力をもつ政府軍の前に隼人の城は次々に落ち、最後まで抵抗し続けた曽於乃石城と比売乃城の隼人たちもついに戦死、また捕虜 (ほりょ)となったのです。 (隼人の乱では隼人族の戦死 又 (また)は捕虜(ほりょ)の合計が約1400人でした。 戦いは1年半近く続きました。)
 養老7年 (723年) 宇佐の集団は隼人の首を持ち帰り、(大分県の)宇佐の松隈に埋 (う)めました。 それが「凶首塚」 (昭和46年3月26日 県指定史跡)という石室古墳 (いしむろこふん)です。 鹿児島県 国分市 (現 霧島市)には隼人塚が残っています。
<放生会 (ほうじょうえ)と弥五郎どん>
 その後、(大分県の)宇佐地方に疫病 (えきびょう)が流行しました。 これは「隼人の乱でたくさんの反乱軍を殺した報 (むく)い」だとして「霊 (れい)を慰 (なぐさ)めるため放生会をすべし」と宇佐八幡の託宣 (たくせん)がありました。 神亀元年 (724年)のことです。
 隼人族の首領・弥五郎をはじめ犠牲 (ぎせい)となった、たくさんの隼人族の怨霊 (おんりょう)を恐れた大和朝廷は、全国で放生会を行わせました。 その名残 (なご)りが、現在の南九州の八幡神社で行われている「弥五郎どん祭り」です。
 三俣院 (みまたいん)の宗廟 (そうびょう)として和銅3年 (710年)に建立 (こんりゅう)された的野正八幡宮 (まとのしょうはちまんぐう)の御神幸祭では、御神幸行列の先頭に立つ弥五郎どんが、千数百年の時を経 (へ)た今も隼人族を守り、その勇姿 (ゆうし)を見せてくれています。
と書かれています。



写真GN: 「隼人の乱 (はやとのらん)と放生会 (ほうじょうえ)」の説明板。
<隼人反乱の原因>
 ことの起こりは、大和朝廷 (やまとちょうてい)が全国の地方政治をより細かく行っていくために制定した「養老律令 (ようろうりつりょう)」です。 酋長 (しゅうちょう)を中心に強固な共同体を組織していた隼人にとっては、中央から派遣 (はけん)された官僚に支配されることは大変な屈辱 (くつじょく)でした。
 養老4年 (720年)2月29日 (奈良時代は710年〜784年です。)、大隅 (おおすみ)、日向 (ひゅうが)の隼人らは初代 大隅国守・陽候史麻呂を殺害して反乱を起こしました。 同年3月4日、朝廷は中納言 大伴旅人を征隼人持節大将軍とし、また笠御室と巨勢真人を福将軍として派遣 (はけん)しました。 同年9月、当時 豊前守であった正六位 宇努首男人が将軍として戦地に赴 (おもむ)き、また八幡神の禰宜辛嶋勝波米豆が御権人となって薦神社 (中津市 大貞)の「真薦」を刈 (か)り取りました。 さらに下宮に御羽屋殿を建て、そこで「薦枕」の「御験」を御神体として、御神輿 (おみこし)に奉 (ほう)じて隼人たちの立てこもる奴久良・幸原・神野・牛屎・志加牟・曽於乃石城・比売乃城の7城を次々と攻 (せ)めていったのです。
 隼人軍は苦戦を強 (し)いられ、圧倒的な兵力をもつ政府軍の前に隼人の城は次々に落ち、最後まで抵抗し続けた曽於乃石城と比売乃城の隼人たちもついに戦死、また捕虜 (ほりょ)となったのです。 (隼人の乱では隼人族の戦死 又 (また)は捕虜(ほりょ)の合計が約1400人でした。 戦いは1年半近く続きました。)
 養老7年 (723年) 宇佐の集団は隼人の首を持ち帰り、(大分県の)宇佐の松隈に埋 (う)めました。 それが「凶首塚」 (昭和46年3月26日 県指定史跡)という石室古墳 (いしむろこふん)です。 鹿児島県 国分市 (現 霧島市)には隼人塚が残っています。
<放生会 (ほうじょうえ)と弥五郎どん>
 その後、(大分県の)宇佐地方に疫病 (えきびょう)が流行しました。 これは「隼人の乱でたくさんの反乱軍を殺した報 (むく)い」だとして「霊 (れい)を慰 (なぐさ)めるため放生会をすべし」と宇佐八幡の託宣 (たくせん)がありました。 神亀元年 (724年)のことです。
 隼人族の首領・弥五郎をはじめ犠牲 (ぎせい)となった、たくさんの隼人族の怨霊 (おんりょう)を恐れた大和朝廷は、全国で放生会を行わせました。 その名残 (なご)りが、現在の南九州の八幡神社で行われている「弥五郎どん祭り」です。
 三俣院 (みまたいん)の宗廟 (そうびょう)として和銅3年 (710年)に建立 (こんりゅう)された的野正八幡宮 (まとのしょうはちまんぐう)の御神幸祭では、御神幸行列の先頭に立つ弥五郎どんが、千数百年の時を経 (へ)た今も隼人族を守り、その勇姿 (ゆうし)を見せてくれています。
と書かれています。



写真GO: 「隼人の乱 (はやとのらん)と放生会 (ほうじょうえ)」の説明板です。
<隼人反乱の原因>
 ことの起こりは、大和朝廷 (やまとちょうてい)が全国の地方政治をより細かく行っていくために制定した「養老律令 (ようろうりつりょう)」です。 酋長 (しゅうちょう)を中心に強固な共同体を組織していた隼人にとっては、中央から派遣 (はけん)された官僚に支配されることは大変な屈辱 (くつじょく)でした。
 養老4年 (720年)2月29日 (奈良時代は710年〜784年です。)、大隅 (おおすみ)、日向 (ひゅうが)の隼人らは初代 大隅国守・陽候史麻呂を殺害して反乱を起こしました。 同年3月4日、朝廷は中納言 大伴旅人を征隼人持節大将軍とし、また笠御室と巨勢真人を福将軍として派遣 (はけん)しました。 同年9月、当時 豊前守であった正六位 宇努首男人が将軍として戦地に赴 (おもむ)き、また八幡神の禰宜辛嶋勝波米豆が御権人となって薦神社 (中津市 大貞)の「真薦」を刈 (か)り取りました。 さらに下宮に御羽屋殿を建て、そこで「薦枕」の「御験」を御神体として、御神輿 (おみこし)に奉 (ほう)じて隼人たちの立てこもる奴久良・幸原・神野・牛屎・志加牟・曽於乃石城・比売乃城の7城を次々と攻 (せ)めていったのです。
 隼人軍は苦戦を強 (し)いられ、圧倒的な兵力をもつ政府軍の前に隼人の城は次々に落ち、最後まで抵抗し続けた曽於乃石城と比売乃城の隼人たちもついに戦死、また捕虜 (ほりょ)となったのです。 (隼人の乱では隼人族の戦死 又 (また)は捕虜(ほりょ)の合計が約1400人でした。 戦いは1年半近く続きました。)
 養老7年 (723年) 宇佐の集団は隼人の首を持ち帰り、(大分県の)宇佐の松隈に埋 (う)めました。 それが「凶首塚」 (昭和46年3月26日 県指定史跡)という石室古墳 (いしむろこふん)です。 鹿児島県 国分市 (現 霧島市)には隼人塚が残っています。
<放生会 (ほうじょうえ)と弥五郎どん>
 その後、(大分県の)宇佐地方に疫病 (えきびょう)が流行しました。 これは「隼人の乱でたくさんの反乱軍を殺した報 (むく)い」だとして「霊 (れい)を慰 (なぐさ)めるため放生会をすべし」と宇佐八幡の託宣 (たくせん)がありました。 神亀元年 (724年)のことです。
 隼人族の首領・弥五郎をはじめ犠牲 (ぎせい)となった、たくさんの隼人族の怨霊 (おんりょう)を恐れた大和朝廷は、全国で放生会を行わせました。 その名残 (なご)りが、現在の南九州の八幡神社で行われている「弥五郎どん祭り」です。
 三俣院 (みまたいん)の宗廟 (そうびょう)として和銅3年 (710年)に建立 (こんりゅう)された的野正八幡宮 (まとのしょうはちまんぐう)の御神幸祭では、御神幸行列の先頭に立つ弥五郎どんが、千数百年の時を経 (へ)た今も隼人族を守り、その勇姿 (ゆうし)を見せてくれています。
と書かれています。



写真GP: 「720年の隼人の乱の時、隼人族の最後の拠点 (きょてん)となったとされる、鹿児島県 国分市 (推定)の比売城。」 これは隼人7城の一つです。 そのときの様子 (ようす)の絵があります。



写真GQ: 「古代ロマン 南九州大人弥五郎 伝説」の説明板です。
 南九州の大人弥五郎伝説は、養老4年 (720年) (奈良時代は710年〜784年です。)大和朝廷による隼人征伐 (はやとせいばつ)に由来 (ゆらい)します。 この時の「隼人の乱」では、多くの隼人族が斬首 (首切り)や残虐行為にあいました。 この隼人族の怨霊 (おんりょう)を恐れた大和朝廷は、全国規模で「放生会 (ほうじょうえ)」を行いました。
 弥五郎伝説は、神亀元年 (724年)に始まる「放生会=生類を放つために執 (と)り行われる儀式 (ぎしき)」が、後に大人 (おおひと)人形行事として数百年を超える歴史の中で郷土の誇 (ほこ)りとして先人から大切に保存・継承されてきた貴重な伝統文化行事です。 継承されているそれぞれの祭りでは、祭りの主役として先頭に立ち、神様達の先導役となって露払い (つゆはらい)、悪魔払いをしてくれます。
 南九州の八幡神社では、昔 弥五郎祭りが行われており、その史実も各地に残されていますが、現在「弥五郎人形行事」として行われているのは、宮崎県都城市山之口町の的野正八幡宮、鹿児島県曽於市大隅町の岩川八幡神社、宮崎県日南市飫肥の田ノ上八幡神社です。
 弥五郎は、誰なのか、いつ頃から始まり何のために、どのように保存・継承されてきたのか分からないことばかりですが、庶民に親しまれ愛されている大人弥五郎には畏怖 (いふ)の念さえ抱 (いだ)かされます。 大人弥五郎伝説の未来への思いを抱きつつ・・・
的野正八幡宮 和銅3年 (710年)(奈良時代は710年〜784年です。)創建 宮崎県都城市山之口町
岩川八幡神社 万寿2年 (1025年)創建 鹿児島県曽於市大隅町
田之上八幡神社 天永元年 (1110年)創建 宮崎市県日南市飫肥
と書かれています。



写真GR: 「古代ロマン 南九州大人弥五郎 伝説」の説明板。
 南九州の大人弥五郎伝説は、養老4年 (720年) (奈良時代は710年〜784年です。)大和朝廷による隼人征伐 (はやとせいばつ)に由来 (ゆらい)します。 この時の「隼人の乱」では、多くの隼人族が斬首 (首切り)や残虐行為にあいました。 この隼人族の怨霊 (おんりょう)を恐れた大和朝廷は、全国規模で「放生会 (ほうじょうえ)」を行いました。
 弥五郎伝説は、神亀元年 (724年)に始まる「放生会=生類を放つために執 (と)り行われる儀式 (ぎしき)」が、後に大人 (おおひと)人形行事として数百年を超える歴史の中で郷土の誇 (ほこ)りとして先人から大切に保存・継承されてきた貴重な伝統文化行事です。 継承されているそれぞれの祭りでは、祭りの主役として先頭に立ち、神様達の先導役となって露払い (つゆはらい)、悪魔払いをしてくれます。
 南九州の八幡神社では、昔 弥五郎祭りが行われており、その史実も各地に残されていますが、現在「弥五郎人形行事」として行われているのは、宮崎県都城市山之口町の的野正八幡宮、鹿児島県曽於市大隅町の岩川八幡神社、宮崎県日南市飫肥の田ノ上八幡神社です。
 弥五郎は、誰なのか、いつ頃から始まり何のために、どのように保存・継承されてきたのか分からないことばかりですが、庶民に親しまれ愛されている大人弥五郎には畏怖 (いふ)の念さえ抱 (いだ)かされます。 大人弥五郎伝説の未来への思いを抱きつつ・・・
的野正八幡宮 和銅3年 (710年)(奈良時代は710年〜784年です。)創建 宮崎県都城市山之口町
岩川八幡神社 万寿2年 (1025年)創建 鹿児島県曽於市大隅町
田之上八幡神社 天永元年 (1110年)創建 宮崎市県日南市飫肥
と書かれています。



写真GS: 「古代ロマン 南九州大人弥五郎 伝説」の説明板があります。
 南九州の大人弥五郎伝説は、養老4年 (720年) (奈良時代は710年〜784年です。)大和朝廷による隼人征伐 (はやとせいばつ)に由来 (ゆらい)します。 この時の「隼人の乱」では、多くの隼人族が斬首 (首切り)や残虐行為にあいました。 この隼人族の怨霊 (おんりょう)を恐れた大和朝廷は、全国規模で「放生会 (ほうじょうえ)」を行いました。
 弥五郎伝説は、神亀元年 (724年)に始まる「放生会=生類を放つために執 (と)り行われる儀式 (ぎしき)」が、後に大人 (おおひと)人形行事として数百年を超える歴史の中で郷土の誇 (ほこ)りとして先人から大切に保存・継承されてきた貴重な伝統文化行事です。 継承されているそれぞれの祭りでは、祭りの主役として先頭に立ち、神様達の先導役となって露払い (つゆはらい)、悪魔払いをしてくれます。
 南九州の八幡神社では、昔 弥五郎祭りが行われており、その史実も各地に残されていますが、現在「弥五郎人形行事」として行われているのは、宮崎県都城市山之口町の的野正八幡宮、鹿児島県曽於市大隅町の岩川八幡神社、宮崎県日南市飫肥の田ノ上八幡神社です。
 弥五郎は、誰なのか、いつ頃から始まり何のために、どのように保存・継承されてきたのか分からないことばかりですが、庶民に親しまれ愛されている大人弥五郎には畏怖 (いふ)の念さえ抱 (いだ)かされます。 大人弥五郎伝説の未来への思いを抱きつつ・・・
的野正八幡宮 和銅3年 (710年)(奈良時代は710年〜784年です。)創建 宮崎県都城市山之口町
岩川八幡神社 万寿2年 (1025年)創建 鹿児島県曽於市大隅町
田之上八幡神社 天永元年 (1110年)創建 宮崎市県日南市飫肥
と書かれています。



写真GT: 「南九州の大人 (おおひと)信仰 弥五郎どん」の説明板があります。



写真GU: 3箇所 (かしょ)の八幡神社の弥五郎どんの人形の写真も載 (の)っています。



写真GV: 童話「やごろうどん みやざき」が載 (の)っています。



写真GW: 童話「やごろうどん みやざき」です。



写真GX: 童話「やごろうどん みやざき」が載 (の)っています。



写真GY: 童話「やごろうどん みやざき」。



写真GZ: 山之口町 的野正八幡宮の弥五郎どんの写真です。
身の丈 (たけ): 4 m  朱面を付ける。 三俣大鋒 (ほこ)鉾 (ほこ)を負 (お)う。
後ろに的野正八幡宮の石段と二の鳥居 (とりい)が見えます。



写真HA: 大隅町 岩川八幡神社の弥五郎どんの写真です。
身の丈 (たけ): 4.85 m  肌色の面を付ける。



写真HB: 日南市 田之上八幡神社の弥五郎様の写真です。
身の丈 (たけ): 7 m  朱面を付ける。 右手に槍 (やり)を持つ。
後ろに飫肥城 (おびじょう)の石垣 (いしがき)と塀 (へい)が見えます。



写真HC: 弥五郎どん祭りの行列の動画を室内のテレビで見ることができます。 参道を東から西へと行列が進みます。



写真HD: 「郷土芸能体験室」、「地域伝統農耕具展示室」と書いてあります。 弥五郎どんの館の中です。



写真HE: 地域伝統農耕具展示室です。 弥五郎どんの館の中です。
いろいろな農具や柱時計、機織り機 (はたおりき)、火鉢 (ひばち)、臼 (うす)、石臼 (いしうす)、火鉢 (ひばち)なども見えます。



写真HF: 三味線 (しゃみせん)の1種のような「ごったん」が中央に見えます。 「ごったん」は南九州地方に伝わる楽器です。 バチを使わずに人差し指で弾 (ひ)くのが原則の楽器です。 3本の弦 (げん)の弦楽器です。 「ごったん」は箱三味線や板三味線とも呼 (よ)ばれます。 杉を材料として、三股町などで作られています。 歴史は約500年と言われています。 中国の雲南省、貴州省のミャオ族に伝わる三弦琵琶 (びわ)の楽器 古弾 (グータン)が「ごったん」の原形と言われています。 念仏信仰の伴奏楽器としても用いられます。 「ごったん」は宮崎県伝統工芸品に指定されています。
梯子 (はしご)、大きなノコギリ、農具も見えます。



写真HG: 弥五郎どん祭りの御神幸行列の「馬の鞍 (くら)」が左手前に見えます。 機織り機 (はたおりき)、ノコギリ、大八車 (だいはちぐるま)、農具も見えます。



写真HH: 機織り機 (はたおりき)です。 地域伝統農耕具展示室です。



写真HI: 郷土芸能体験室の中です。 弥五郎どん祭りの行列の写真です。 子どもたち、観客、馬なども見えます。 桜の並木 (なみき)も見えます。



写真HJ: 3箇所 (かしょ)の弥五郎どんの巨大人形が並 (なら)んでいる写真です。 弥五郎どんの館の郷土芸能体験室。



写真HK: 室外に出ました。 「古代ロマンひむか街道」、「水俣駅」と書いてあります。



写真HL: 「地場産品直売場」と書いてあります。



写真HM: 都城市 山之口町にある弥五郎どんの館です。



写真HN: 弥五郎どんの館です。 手前に外灯があります。



写真HO: 弥五郎どんの館。



写真HP: 西を見たものです。 的野農村公園の広場です。



写真HQ: 的野農村公園と左の地場産品直売場 「古代ロマンひむか街道」、「水俣駅」です。 南西を見たものです。



写真HR: 外灯があります。



写真HS: 外灯の支柱に宝探しゲームの看板 (かんばん)があります。



写真HT: 「都城 リアル宝探し、初級コース 謎一 (なぞいち)の手がかり 「にょやいちり」 主催: 都城市・三股町」と書いてあります。



写真HU: 南東を見たものです。 弥五郎どんの館の駐車場です。



写真HV: 花が咲いていました。



写真HW: 北西を見たものです。 建物は弥五郎どんの館です。



写真HX: 北を見たものです。 左は弥五郎どんの館です。 右に白く見える実の付いた木があります。 ねむの木 (ネムノキ)かもしれません。



写真HY: 東を見たものです。



写真HZ: 南東を見たものです。



写真IA: 南を見たものです。 弥五郎どんの館の駐車場です。



写真IB: 南西を見たものです。



写真IC: 西を見たものです。 右は地場産品直売場 「古代ロマンひむか街道」、「水俣駅」です。



写真ID: ネムノキの実と葉です。 ネムノキはマメ科です。



写真IE: 「弥五郎どんの館、中山間地域総合整備事業、弥五郎どんの人形の絵」と書いてあります。 入り口にあります。



写真IF: 西を見たものです。 参道に一の鳥居 (とりい)があります。 右手前は弥五郎どんの館です。



写真IG: 東を見たものです。 突 (つ)き当りに的野正八幡宮の二の鳥居 (とりい)があります。 この参道を弥五郎どん祭りの御神幸行列がこちらに向かって進みます。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)