田元神社 (たもと神社、旧 村社、六地蔵幢 (どう)((大永8年 (1528年))小城出雲守 建立)、11面観音像 (推定江戸後期作)、板碑 (いたぴ、慶長18年 (1613年)10月16日 建立)、新しい金色の鈴と鈴紐 (すずひも))  (宮崎県 宮崎市 大字本郷 字南方)







<標高、位置>  田元神社 (たもとじんじゃ)は
標高 約10 m
 北緯31度52分05秒  東経131度25分53秒

<標高、位置>  JR 日南線の「南方駅」は
標高 数 m
 北緯31度51分34秒  東経131度26分04秒


 「田元神社 (たもとじんじゃ)」は宮崎県 宮崎市 大字本郷 字南方 394-1 にあります。
御神徳は縁結び・お産・女性の守護・家内安全です。 現在の社殿は平成25年6月に完成しました。
「田元神社 (たもとじんじゃ)」の説明板から、
祭神 木花開耶姫命 (このはなさくやひめ) 彦火々出見命 (ひこほほでみのみこと) 豊玉彦命 (とよたまひこのみこと) 豊玉姫命 (とよたまひめのみこと)、例祭日 10月17日、社殿 本殿 (流造) 4坪、境内 (けいだい)坪数 271坪、創立年月日 明治5年9月。
由緒沿革 (ゆいしょえんかく)
 寛治 (平安後期 1087年〜1094年)4年5月 都萬神社 (西都市にある。)の祭神を神託により赤江村 恒久の地に分祀 (ぶんし)するにあたり、先 (ま)ず仮殿を本郷南方の田元と称 (しょう)するところに建造し奉神した。 同年11月 本殿を恒久に造営し、一ノ宮大明神と称 (しょう)し鎮祭した。 しかし、その後 田元の宮跡も廃除せず、そのまま田元宮と称して同地の産土神 (うぶすなかみ)として奉斎 (ほうさい)したところ、明治5年に至 (いた)り赤江村 大字本郷 字鵜戸尾の鵜戸尾宮を合祀 (ごうし)、田元神社と改称し村社に列格 現在に至 (いた)っている。
 「田元神社の文化財」の説明板から、
十一面観音像 推定江戸後期作 頭上の十の化仏 (けぶつ)を頂 (いただ)く。 衆生 (しゅじょう) (命あるもの)が救いを求めると自在に救うという仏。
六地蔵幢 (ろくじぞうどう、六地蔵塔) 大永8年 (1528年) 仏教の教えでは、人間は死ぬと地獄・餓鬼 (がき)・畜生 (ちくしょう)・修羅 (しゅら)・人間・天上の6道のいずれかに行くという。 その6道のそれぞれに導くのが6体の地蔵。
板碑 (いたぴ) 慶長18年 (1613年)10月16日 建立 (こんりゅう) 板碑には珍しく3体の仏像が彫 (ほ)ってある。 向 (む)かって右から釈迦如来 (しゃかにょらい)、観音菩薩 (かんのんぼさつ)、薬師如来 (やくしにょらい)、さらに3人の戒名 (かいみょう)があることからこれらを供養 (くよう)したもの。
これらは当社本殿裏に永く祀 (まつ)られていましたが、この度 (たび)の社殿改築・境内整備にともなって表に移しました。 中央の六地蔵幢はほぼ500年前のもの、宮崎の歴史を語 (かた)る貴重な遺産です。
 石碑 (せきひ)から、
大東亜戦争末期に於 (おい)いて本殿と拝殿及 (およ)び石灯籠 (いしどうろう)3基が空襲に依 (よ)り破壊され、其 (そ)の後 復元されたが、拝殿は特に傷 (いた)みがひどく再度立て直 (なお)おされた。 今日 落成するのを記念して石灯籠 (いしどうろう)3基 補修復元するものなり。 昭和60年12月吉日。

 JR 日南線の「南方駅」は宮崎県 宮崎市 大字本郷 字南方 にあります。


写真A: 手前の道路は県道367号線です。 南を見たものです。 バス停「田元神社 (たもとじんじゃ)前 宮崎交通」があります。 「←宮崎東病院、県立 赤江まつばら支援学校、、特別養護老人ホーム みやざき荘」と書いてある標識があります。 右は田元神社です。 先に進むと加護神社、宮崎県総合運動公園、青島、日南市などがあります。



写真B: 国道220号 (宮崎南バイパス)が見えます。 手前の道路は県道367号線です。 南東を見たものです。



写真C: 東を見たものです。



写真D: 北東を見たものです。 左に、宮崎空港に行く道路の高いワシントン椰子 (やし)が見えます。 ラーメン店があります。 左端に軽飛行機を置いてあります。



写真E: 北を見たものです。 県道367号線です。 宮崎空港に行く道路の高いワシントン椰子 (やし)が見えます。 右に軽飛行機を置いてあります。 先に進むと宮崎空港、宮崎市の中心部に行きます。



写真F: 北西を見たものです。 田元神社の駐車場、石灯籠 (いしどうろう)、鎮守の森 (ちんじゅのもり)があります。



写真G: 田元神社の駐車場、鎮守の森 (ちんじゅのもり)が見えます。



写真H: 西を見たものです。 左下はバス停のベンチです。



写真I: 「本郷まちづくり推進委員会掲示板 (けいじばん)」があります。 標高 11.0 m と書いてあります。



写真J: 田元神社の境内 (けいだい)が見えます。



写真K: 南西を見たものです。 田元神社の社殿、石灯籠 (いしどうろう)、国旗、幟 (のぼ)り、石碑 (せきひ)が見えます。



写真L: 南を見たものです。 「奉納 交通安全」、「奉納 家内安全」と書いてある幟 (のぼ)りがあります。 田元神社の鎮守の森 (ちんじゅのもり)、社殿、手水舎 (ちょうずや)も見えます。



写真M: 近くの店、施設などの地図があります。 田元神社も載 (の)っています。



写真N: 近くの店や施設の地図です。 加護神社も載 (の)っています。



写真O: 「木花開耶姫命 (このはなさくやひめ)を祀 (まつ)る田元神社 彦火々出見命・豊玉彦命・豊玉姫命」と書いてある看板 (かんばん)があります。



写真P: 南を見たものです。 右端に鳥居 (とりい)があります。 右奥に宮崎信用金庫の赤い看板 (かんばん)があります。 「奉納 田元神社」と書いてある幟 (のぼ)りもあります。 国道220号 (宮崎南バイパス)の高架 (こうか)の陸橋も見えます。



写真Q: 奥に宮崎信用金庫の赤い看板 (かんばん)があります。 田元神社に「奉納 厄除祈願 (やくよけきがん)」の幟 (のぼ)りがあります。 鳥居 (とりい)も見えます。



写真R: 南西を見たものです。 鳥居 (とりい)の額 (がく)に「田元神社 (たもとじんじゃ)」と書いてあります。 しめ縄もあります。 奥に日の丸の旗 (日章旗)が見えます。 手前に白い標柱、石碑 (せきひ)、右に手水舎 (ちょうずや)が見えます。



写真S: 田元神社の鳥居 (とりい)の上方です。



写真T: 鎮守の森 (ちんじゅのもり)の上部です。



写真U: 大きな木、右下に看板 (かんばん)、左に手水舎 (ちょうずや)があります。



写真V: 北西を見たものです。 右にバス停「田元神社 (たもとじんじゃ)前 宮崎交通」が見えます。



写真W: 「田元神社の文化財」と書いてある標柱があります。 その右に石碑 (せきひ)もあります。



写真X: 「田元神社」の説明板 (石碑 (せきひ))があります。
祭神 木花開耶姫命 (このはなさくやひめ) 彦火々出見命 豊玉彦命 豊玉姫命、例祭日 10月17日、社殿 本殿 (流造) 4坪、境内 (けいだい)坪数 271坪、創立年月日 明治5年9月。
由緒沿革 (ゆいしょえんかく)
 寛治 (平安後期 1087年〜1094年)4年5月 都萬神社 (西都市にある。)の祭神を神託により赤江村 恒久の地に分祀 (ぶんし)するにあたり、先 (ま)ず仮殿を本郷南方の田元と称 (しょう)するところに建造し奉神した。 同年11月 本殿を恒久に造営し、一ノ宮大明神と称 (しょう)し鎮祭した。 しかし、その後 田元の宮跡も廃除せず、そのまま田元宮と称して同地の産土神 (うぶすなかみ)として奉斎 (ほうさい)したところ、明治5年に至 (いた)り赤江村 大字本郷 字鵜戸尾の鵜戸尾宮を合祀 (ごうし)、田元神社と改称し村社に列格 現在に至 (いた)っている。
と書かれています。



写真Y: 「田元神社 (たもとじんじゃ)」の説明板です。
祭神 木花開耶姫命 (このはなさくやひめ) 彦火々出見命 豊玉彦命 豊玉姫命、例祭日 10月17日、社殿 本殿 (流造) 4坪、境内 (けいだい)坪数 271坪、創立年月日 明治5年9月。
由緒沿革 (ゆいしょえんかく)
 寛治 (平安後期 1087年〜1094年)4年5月 都萬神社 (西都市にある。)の祭神を神託により赤江村 恒久の地に分祀 (ぶんし)するにあたり、先 (ま)ず仮殿を本郷南方の田元と称 (しょう)するところに建造し奉神した。 同年11月 本殿を恒久に造営し、一ノ宮大明神と称 (しょう)し鎮祭した。 しかし、その後 田元の宮跡も廃除せず、そのまま田元宮と称して同地の産土神 (うぶすなかみ)として奉斎 (ほうさい)したところ、明治5年に至 (いた)り赤江村 大字本郷 字鵜戸尾の鵜戸尾宮を合祀 (ごうし)、田元神社と改称し村社に列格 現在に至 (いた)っている。
と書かれています。



写真Z: 「田元神社 (たもとじんじゃ)」の説明板。
祭神 木花開耶姫命 (このはなさくやひめ) 彦火々出見命 豊玉彦命 豊玉姫命、例祭日 10月17日、社殿 本殿 (流造) 4坪、境内 (けいだい)坪数 271坪、創立年月日 明治5年9月。
由緒沿革 (ゆいしょえんかく)
 寛治 (平安後期 1087年〜1094年)4年5月 都萬神社 (西都市にある。)の祭神を神託により赤江村 恒久の地に分祀 (ぶんし)するにあたり、先 (ま)ず仮殿を本郷南方の田元と称 (しょう)するところに建造し奉神した。 同年11月 本殿を恒久に造営し、一ノ宮大明神と称 (しょう)し鎮祭した。 しかし、その後 田元の宮跡も廃除せず、そのまま田元宮と称して同地の産土神 (うぶすなかみ)として奉斎 (ほうさい)したところ、明治5年に至 (いた)り赤江村 大字本郷 字鵜戸尾の鵜戸尾宮を合祀 (ごうし)、田元神社と改称し村社に列格 現在に至 (いた)っている。
と書かれています。



写真AA: 「田元神社 (たもとじんじゃ)」の説明板です。
祭神 木花開耶姫命 (このはなさくやひめ) 彦火々出見命 豊玉彦命 豊玉姫命、例祭日 10月17日、社殿 本殿 (流造) 4坪、境内 (けいだい)坪数 271坪、創立年月日 明治5年9月。
由緒沿革 (ゆいしょえんかく)
 寛治 (平安後期 1087年〜1094年)4年5月 都萬神社 (西都市にある。)の祭神を神託により赤江村 恒久の地に分祀 (ぶんし)するにあたり、先 (ま)ず仮殿を本郷南方の田元と称 (しょう)するところに建造し奉神した。 同年11月 本殿を恒久に造営し、一ノ宮大明神と称 (しょう)し鎮祭した。 しかし、その後 田元の宮跡も廃除せず、そのまま田元宮と称して同地の産土神 (うぶすなかみ)として奉斎 (ほうさい)したところ、明治5年に至 (いた)り赤江村 大字本郷 字鵜戸尾の鵜戸尾宮を合祀 (ごうし)、田元神社と改称し村社に列格 現在に至 (いた)っている。
と書かれています。



写真AB: 「田元神社 (たもとじんじゃ)」の説明板。
祭神 木花開耶姫命 (このはなさくやひめ) 彦火々出見命 豊玉彦命 豊玉姫命、例祭日 10月17日、社殿 本殿 (流造) 4坪、境内 (けいだい)坪数 271坪、創立年月日 明治5年9月。
由緒沿革 (ゆいしょえんかく)
 寛治 (平安後期 1087年〜1094年)4年5月 都萬神社 (西都市にある。)の祭神を神託により赤江村 恒久の地に分祀 (ぶんし)するにあたり、先 (ま)ず仮殿を本郷南方の田元と称 (しょう)するところに建造し奉神した。 同年11月 本殿を恒久に造営し、一ノ宮大明神と称 (しょう)し鎮祭した。 しかし、その後 田元の宮跡も廃除せず、そのまま田元宮と称して同地の産土神 (うぶすなかみ)として奉斎 (ほうさい)したところ、明治5年に至 (いた)り赤江村 大字本郷 字鵜戸尾の鵜戸尾宮を合祀 (ごうし)、田元神社と改称し村社に列格 現在に至 (いた)っている。
と書かれています。



写真AC: 「田元神社 (たもとじんじゃ)」の説明板です。
祭神 木花開耶姫命 (このはなさくやひめ) 彦火々出見命 豊玉彦命 豊玉姫命、例祭日 10月17日、社殿 本殿 (流造) 4坪、境内 (けいだい)坪数 271坪、創立年月日 明治5年9月。
由緒沿革 (ゆいしょえんかく)
 寛治 (平安後期 1087年〜1094年)4年5月 都萬神社 (西都市にある。)の祭神を神託により赤江村 恒久の地に分祀 (ぶんし)するにあたり、先 (ま)ず仮殿を本郷南方の田元と称 (しょう)するところに建造し奉神した。 同年11月 本殿を恒久に造営し、一ノ宮大明神と称 (しょう)し鎮祭した。 しかし、その後 田元の宮跡も廃除せず、そのまま田元宮と称して同地の産土神 (うぶすなかみ)として奉斎 (ほうさい)したところ、明治5年に至 (いた)り赤江村 大字本郷 字鵜戸尾の鵜戸尾宮を合祀 (ごうし)、田元神社と改称し村社に列格 現在に至 (いた)っている。
と書かれています。



写真AD: 「御祈祷 (きとう)案内」を書いてあります。



写真AE: 田元神社 (たもとじんじゃ)の拝殿です。 しめ縄をした狛犬 (こまいぬ)があります。
「田元神社 (たもとじんじゃ)」は宮崎県 宮崎市 大字本郷 字南方 394-1 にあります。



写真AF: 拝殿の上方です。 高い木があります。



写真AG: 上方を見たものです。



写真AH: 内側から見た鳥居 (とりい)です。 「平成元年」と書いてあります。



写真AI: 鳥居 (とりい)の下部です。



写真AJ: 田元神社の手水舎 (ちょうずや)です。 しめ縄もあります。



写真AK: 手水鉢 (ちょうずばち)、柄杓 (ひしゃく)、水の出る所などがあります。



写真AL: 北東を見たものです。 看板 (かんばん)の裏が見えます。



写真AM: 北を見たものです。 石灯籠 (いしどうろう)の奥は駐車場です。



写真AN: 石碑 (せきひ)があります。



写真AO: 西を見たものです。 左は拝殿です。 御神籤 (おみくじ)を縛 (しば)り付ける所があります。 右端は石碑 (せきひ)です。



写真AP: 田元神社です。 日章旗 (日の丸の旗)が見えます。 しめ縄、鈴紐 (ひも)もあります。
「田元神社 (たもとじんじゃ)」は宮崎県 宮崎市 大字本郷 字南方 394-1 にあります。
御神徳は縁結び・お産・女性の守護・家内安全です。 現在の社殿は平成25年6月に完成しました。
「田元神社 (たもとじんじゃ)」の説明板から、
祭神 木花開耶姫命 (このはなさくやひめ) 彦火々出見命 (ひこほほでみのみこと) 豊玉彦命 (とよたまひこのみこと) 豊玉姫命 (とよたまひめのみこと)、例祭日 10月17日、社殿 本殿 (流造) 4坪、境内 (けいだい)坪数 271坪、創立年月日 明治5年9月。
由緒沿革 (ゆいしょえんかく)
 寛治 (平安後期 1087年〜1094年)4年5月 都萬神社 (西都市にある。)の祭神を神託により赤江村 恒久の地に分祀 (ぶんし)するにあたり、先 (ま)ず仮殿を本郷南方の田元と称 (しょう)するところに建造し奉神した。 同年11月 本殿を恒久に造営し、一ノ宮大明神と称 (しょう)し鎮祭した。 しかし、その後 田元の宮跡も廃除せず、そのまま田元宮と称して同地の産土神 (うぶすなかみ)として奉斎 (ほうさい)したところ、明治5年に至 (いた)り赤江村 大字本郷 字鵜戸尾の鵜戸尾宮を合祀 (ごうし)、田元神社と改称し村社に列格 現在に至 (いた)っている。



写真AQ: 南を見たものです。 狛犬 (こまいぬ)、石灯籠 (いしどうろう)、説明板、石造物もあります。



写真AR: 南東を見たものです。 左端は手水舎 (ちょうずや)です。 鳥居 (とりい)、石碑 (せきひ)、石灯籠 (いしどうろう)、説明板も見えます。



写真AS: 手水舎 (ちょうずや)と鳥居 (とりい)です。



写真AT: 狛犬 (こまいぬ)にしめ縄をまいてあります。



写真AU: こちらにも狛犬 (こまいぬ)があります。



写真AV: 拝殿の下部です。



写真AW: 横木に象の彫り物 (ほりもの)があります。 拝殿です。



写真AX: 横木に彫刻 (ちょうこく)があります。 拝殿です。



写真AY: 真 (ま)新しい金色の鈴と鈴紐 (すずひも)です。 蛍光灯もあります。



写真AZ: 拝殿の上部です。



写真BA: 田元神社の拝殿の中です。 太鼓 (たいこ)、御幣 (ごへい)があります。



写真BB: 拝殿の中。



写真BC: 拝殿の中です。



写真BD: お札 (ふだ)、お守りなどがあります。 左に鈴紐 (すずひも)の下部が見えます。



写真BE: おみくじの丸い穴 (あな)のあいた箱があります。 「おみくじ 100円」と書いてあります。 「奉納」と書いてあるお賽銭箱 (さいせんばこ)もあります。



写真BF: 「参拝者芳名帳」、パンフレットなどがあります。



写真BG: 「田元神社の文化財」の説明板があります。
十一面観音像 推定江戸後期作 頭上の十の化仏 (けぶつ)を頂 (いただ)く。 衆生 (しゅじょう) (命あるもの)が救いを求めると自在に救うという仏。
六地蔵幢 (ろくじぞうどう、六地蔵塔) 大永8年 (1528年) 仏教の教えでは、人間は死ぬと地獄・餓鬼 (がき)・畜生 (ちくしょう)・修羅 (しゅら)・人間・天上の6道のいずれかに行くという。 その6道のそれぞれに導くのが6体の地蔵。
板碑 (いたぴ) 慶長18年 (1613年)10月16日 建立 (こんりゅう) 板碑には珍しく3体の仏像が彫 (ほ)ってある。 向 (む)かって右から釈迦如来 (しゃかにょらい)、観音菩薩 (かんのんぼさつ)、薬師如来 (やくしにょらい)、さらに3人の戒名 (かいみょう)があることからこれらを供養 (くよう)したもの。
これらは当社本殿裏に永く祀 (まつ)られていましたが、この度 (たび)の社殿改築・境内整備にともなって表に移しました。 中央の六地蔵幢はほぼ500年前のもの、宮崎の歴史を語 (かた)る貴重な遺産です。
平成25年9月 田元神社宮司
と書かれています。



写真BH: 「田元神社の文化財」の説明板です。
十一面観音像 推定江戸後期作 頭上の十の化仏 (けぶつ)を頂 (いただ)く。 衆生 (しゅじょう) (命あるもの)が救いを求めると自在に救うという仏。
六地蔵幢 (ろくじぞうどう、六地蔵塔) 大永8年 (1528年) 仏教の教えでは、人間は死ぬと地獄・餓鬼 (がき)・畜生 (ちくしょう)・修羅 (しゅら)・人間・天上の6道のいずれかに行くという。 その6道のそれぞれに導くのが6体の地蔵。
板碑 (いたぴ) 慶長18年 (1613年)10月16日 建立 (こんりゅう) 板碑には珍しく3体の仏像が彫 (ほ)ってある。 向 (む)かって右から釈迦如来 (しゃかにょらい)、観音菩薩 (かんのんぼさつ)、薬師如来 (やくしにょらい)、さらに3人の戒名 (かいみょう)があることからこれらを供養 (くよう)したもの。
これらは当社本殿裏に永く祀 (まつ)られていましたが、この度 (たび)の社殿改築・境内整備にともなって表に移しました。 中央の六地蔵幢はほぼ500年前のもの、宮崎の歴史を語 (かた)る貴重な遺産です。
平成25年9月 田元神社宮司
と書かれています。



写真BI: 「田元神社の文化財」の説明板。
十一面観音像 推定江戸後期作 頭上の十の化仏 (けぶつ)を頂 (いただ)く。 衆生 (しゅじょう) (命あるもの)が救いを求めると自在に救うという仏。
六地蔵幢 (ろくじぞうどう、六地蔵塔) 大永8年 (1528年) 仏教の教えでは、人間は死ぬと地獄・餓鬼 (がき)・畜生 (ちくしょう)・修羅 (しゅら)・人間・天上の6道のいずれかに行くという。 その6道のそれぞれに導くのが6体の地蔵。
板碑 (いたぴ) 慶長18年 (1613年)10月16日 建立 (こんりゅう) 板碑には珍しく3体の仏像が彫 (ほ)ってある。 向 (む)かって右から釈迦如来 (しゃかにょらい)、観音菩薩 (かんのんぼさつ)、薬師如来 (やくしにょらい)、さらに3人の戒名 (かいみょう)があることからこれらを供養 (くよう)したもの。
これらは当社本殿裏に永く祀 (まつ)られていましたが、この度 (たび)の社殿改築・境内整備にともなって表に移しました。 中央の六地蔵幢はほぼ500年前のもの、宮崎の歴史を語 (かた)る貴重な遺産です。
平成25年9月 田元神社宮司
と書かれています。



写真BJ: 「田元神社の文化財」の説明板です。
十一面観音像 推定江戸後期作 頭上の十の化仏 (けぶつ)を頂 (いただ)く。 衆生 (しゅじょう) (命あるもの)が救いを求めると自在に救うという仏。
六地蔵幢 (ろくじぞうどう、六地蔵塔) 大永8年 (1528年) 仏教の教えでは、人間は死ぬと地獄・餓鬼 (がき)・畜生 (ちくしょう)・修羅 (しゅら)・人間・天上の6道のいずれかに行くという。 その6道のそれぞれに導くのが6体の地蔵。
板碑 (いたぴ) 慶長18年 (1613年)10月16日 建立 (こんりゅう) 板碑には珍しく3体の仏像が彫 (ほ)ってある。 向 (む)かって右から釈迦如来 (しゃかにょらい)、観音菩薩 (かんのんぼさつ)、薬師如来 (やくしにょらい)、さらに3人の戒名 (かいみょう)があることからこれらを供養 (くよう)したもの。
これらは当社本殿裏に永く祀 (まつ)られていましたが、この度 (たび)の社殿改築・境内整備にともなって表に移しました。 中央の六地蔵幢はほぼ500年前のもの、宮崎の歴史を語 (かた)る貴重な遺産です。
平成25年9月 田元神社宮司
と書かれています。



写真BK: 「田元神社の文化財」の説明板です。
十一面観音像 推定江戸後期作 頭上の十の化仏 (けぶつ)を頂 (いただ)く。 衆生 (しゅじょう) (命あるもの)が救いを求めると自在に救うという仏。
六地蔵幢 (ろくじぞうどう、六地蔵塔) 大永8年 (1528年) 仏教の教えでは、人間は死ぬと地獄・餓鬼 (がき)・畜生 (ちくしょう)・修羅 (しゅら)・人間・天上の6道のいずれかに行くという。 その6道のそれぞれに導くのが6体の地蔵。
板碑 (いたぴ) 慶長18年 (1613年)10月16日 建立 (こんりゅう) 板碑には珍しく3体の仏像が彫 (ほ)ってある。 向 (む)かって右から釈迦如来 (しゃかにょらい)、観音菩薩 (かんのんぼさつ)、薬師如来 (やくしにょらい)、さらに3人の戒名 (かいみょう)があることからこれらを供養 (くよう)したもの。
これらは当社本殿裏に永く祀 (まつ)られていましたが、この度 (たび)の社殿改築・境内整備にともなって表に移しました。 中央の六地蔵幢はほぼ500年前のもの、宮崎の歴史を語 (かた)る貴重な遺産です。
平成25年9月 田元神社宮司
と書かれています。



写真BL: 左から板碑 (いたぴ)、六地蔵幢 (ろくじぞうどう、六地蔵塔)、十一面観音像です。 南を見たものです。



写真BM: 板碑 (いたぴ) 慶長18年 (1613年)10月16日 建立 (こんりゅう) 板碑には珍しく3体の仏像が彫 (ほ)ってある。 向 (む)かって右から釈迦如来 (しゃかにょらい)、観音菩薩 (かんのんぼさつ)、薬師如来 (やくしにょらい)、さらに3人の戒名 (かいみょう)があることからこれらを供養 (くよう)したもの。



写真BN: 六地蔵幢 (ろくじぞうどう、六地蔵塔) 大永8年 (1528年) 仏教の教えでは、人間は死ぬと地獄・餓鬼 (がき)・畜生 (ちくしょう)・修羅 (しゅら)・人間・天上の6道のいずれかに行くという。 その6道のそれぞれに導くのが6体の地蔵。



写真BO: 六地蔵幢 (ろくじぞうどう、六地蔵塔)の中部です。



写真BP: 六地蔵幢 (ろくじぞうどう、六地蔵塔)の下部です。



写真BQ: 十一面観音像 推定江戸後期作 頭上の十の化仏 (けぶつ)を頂 (いただ)く。 衆生 (しゅじょう) (命あるもの)が救いを求めると自在に救うという仏。



写真BR: 十一面観音像の下部です。



写真BS: 東を見たものです。



写真BT: 北東を見たものです。



写真BU: 左は本殿、右は拝殿の側面です。 田元神社です。



写真BV: 西を見たものです。



写真BW: 多くの木があります。



写真BX: 南西を見たものです。 左手前は十一面観音像です。



写真BY: 北を見たものです。 左は拝殿です。



写真BZ: 拝殿の側面です。 北を見たものです。



写真CA: 拝殿の下部の側面です。



写真CB: 田元神社の本殿の屋根に外切りの千木 (ちぎ)と4本の円筒形の鰹木 (かつおぎ)があります。



写真CC: 本殿の屋根に外切りの千木 (ちぎ)と4本の円筒形の鰹木 (かつおぎ)があります。 田元神社です。



写真CD: お札などを焼く所です。



写真CE: 南西を見たものです。



写真CF: 石碑 (せきひ)があります。 西を見たものです。 奥に墓場があります。



写真CG: 「大東亜戦争末期に於 (おい)いて本殿と拝殿及 (およ)び石灯籠 (いしどうろう)3基が空襲に依 (よ)り破壊され、其 (そ)の後 復元されたが、拝殿は特に傷 (いた)みがひどく再度立て直 (なお)おされた。 今日 落成するのを記念して石灯籠 (いしどうろう)3基 補修復元するものなり。 昭和60年12月吉日。」
と書いてあります。



写真CH: 西を見たものです。



写真CI: 境内 (けいだい)にある木の中部です。



写真CJ: 木の上部です。



写真CK: 西を見たものです。 奥に山が見えます。 手前の道路の奥に墓が多くあります。



写真CL: 北西を見たものです。 墓地があります。



写真CM: 本殿です。



写真CN: 本殿の上部です。 高い木が多くあります。 北を見たものです。



写真CO: 本殿の下部です。



写真CP: 右は拝殿、左は本殿です。



写真CQ: 東を見たものです。 田元神社の境内 (けいだい)です。 手前は石碑 (せきひ)です。



写真CR: 北西を見たものです。



写真CS: ボールがありました。



写真CT: 奥に石碑 (せきひ)があります。 北西を見たものです。



写真CU: 鎮守の森 (ちんじゅのもり)の木です。



写真CV: 北東を見たものです。 右は拝殿です。



写真CW: 木の中部です。



写真CX: 見上 (あ)げたものです。



写真CY: ドングリが落ちていました。



写真CZ: 田元神社の境内 (けいだい)にある日露戦役紀念碑 (ひ)です。



写真DA: 日露戦役紀念碑 (ひ)の下部です。



写真DB: 「日露戦役紀念碑」と書いてあります。



写真DC: 境内 (けいだい)にブランコ、鉄棒などの遊具があります。 北を見たものです。



写真DD: 北東を見たものです。 右に建物があります。



写真DE: 東を見たものです。 田元神社。



写真DF: 日露戦役紀念碑 (ひ)と奥の社殿です。 南東を見たものです。



写真DG: 南を見たものです。 左端は本殿、右に墓地があります。 国道220号の高いワシントン椰子 (やし)が見えます。



写真DH: 北東を見たものです。 田元神社の駐車場です。 遠くに宮崎空港に行く道路の高いワシントン椰子 (やし)が見えます。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)