的野正八幡宮、不思議な文字の石塔 (石碑) (まとのしょうはちまんぐう、円野神社 (まるのじんじゃ)、的野神社、神代文字の石塔 (石碑(せきひ))、大きな弥五郎どんの人形がでる「弥五郎どん祭り」、弥五郎どんは南九州に住んでいた隼人族 (はやとぞく)の首領、大和朝廷と隼人族の戦い「隼人の乱 (はやとのらん)」)  (宮崎県 都城市 山之口町 大字富吉)







<標高、位置>  的野正八幡宮 (円野神社)は
標高 約180 m
 北緯31度46分05秒  東経131度09分21秒

<標高、位置>  池之尾権現宮 (池之尾神社)は
標高 約160 m
 北緯31度46分05秒  東経131度08分59秒

<標高、位置>  弥五郎どんの館 (やごろうどんのやかた)は
標高 約160 m
 北緯31度46分07秒  東経131度09分04秒

<標高、位置>  都城市立 富吉小学校は
標高 約160 m
 北緯31度46分08秒  東経131度08分59秒

<標高、位置>  的野六面地蔵石幢 (まとのろくめんじぞうせきしょう、的野六面地蔵塔)は
標高 約160 m
 北緯31度46分04秒  東経131度09分04秒


 「的野正八幡宮 (まとのしょうはちまんぐう)」は宮崎県 都城市 山之口町 大字富吉 字的野 1412番地 にあります。
 11月3日に「弥五郎どん祭り」があります。 的野正八幡宮から約600 m 西にある池之尾神社まで浜殿下り (はまくだり)と呼 (よ)ばれる御神幸行列があり、台車に乗った高さ約4 m の弥五郎どんの大きな人形もでます。 境内 (けいだい)に漢字が日本に入ってくる前の文字 (神代文字 (じんだいもじ、かみよもじ))阿比留文字で彫 (ほ)られた石塔 (石碑 (せきひ))があります。 この2つの石塔は明治時代に建立 (こんりゅう)されました。 神代文字で「メウチニシヲイチネム・タテマツル・シアスキチニチ (明治21年奉 (たてまつ)る 師走 (しわす)吉日)」と書いてあるそうです。 名称は的野正八幡宮、円野神社 (まるのじんじゃ)、的野正八幡宮と変わりました。 旧 郷社です。 的野正八幡宮は現在の鹿児島神宮 (鹿児島県 霧島市 隼人町内 2496-1 にあります。)の末社です。

 「神代文字 (じんだいもじ、かみよもじ)」は我が国固有の、神代から伝えられたという文字。 実は、亀トの灼兆 (しゃくちょう)や朝鮮のハングルに擬した偽作。 日文 (ひふみ)・天名地鎮 (あないち)・阿比留文字などの種類があります。 江戸時代、その存否について平田篤胤 (ひらたあつたね、江戸時代後期の国学者。)の「神字日文伝 (かむなひふみのつたえ)」(存在説)や伴信友の「仮字本末 (かなのもとすえ)」(否定説)などの論争がありました。

 「的野正八幡宮 由来 (ゆらい)」の説明板から、
 祭神は、宇佐神宮と同じく応神天皇 (誉田別命)・玉依姫命 (比売大神)・神功皇后 (こうごう、息長足姫命)である。
 的野正八幡宮は、古文書にあるように和銅3年 (奈良時代のはじめ) 西暦710年 (弥五郎どんが首領だった隼人の乱の10年前です。) (奈良時代は710年〜784年です。)に創建され、三国名勝図会には「往古、大社なりしといへり」と記 (しる)されている。
 奈良・平安時代は荘園発達の時代に入り三俣院 (山之口町、高城町、三股町、都城市の1部)は700町歩の面積をもつ日本有数の荘園となる。 ここで収穫される農産物の集散地として、延喜式にみる水俣駅が当地 (山之口・推定)に置かれたのである。 駅には納税物を入れる倉庫が建ち、荘園を治める役所が設 (もう)けられ、運搬用として駅馬5頭が常時配置されていた。
 的野正八幡宮は、この三俣院の宗廟として栄え、新町 (字名、現在も残る。)は門前町の様相を呈 (てい)し賑 (にぎ)わったといわれている。
 武家政権の胎動 (たいどう)と同じくして、この荘園をめぐる抗争もはげしくなっていく。 肝付 (きもつき)氏ー島津氏ー伊東氏ー島津氏と攻防をくりかえす中でも、歴代の院司や領主たちに崇敬され、伊東家の氏神になったり、島津家の氏神になったりして厚く庇護 (ひご)されてきたのである。 的野正八幡宮の紋 (もん)が(島津の紋)の 丸に十の字 になったり、伊東の九曜の紋になったりしたのをみれば如何 (いか)に大事にされてきたかがわかる。 現在、的野正八幡宮の紋 (もん)は伊東家の九曜の紋である。
 この的野正八幡宮は、明治4年の廃藩置県・廃仏毀釈 (はいぶつきしゃく)によって大打撃をうけ、長くこの的野正八幡宮を守ってきた弥勒寺 (みろくじ)も財産を没収され跡形 (あとかた)もなく破壊されている。
 明治4年5月、神社の社格を定 (さだ)める太政官布告が出され、的野正八幡宮は郷社に列せられる。 翌年、明治5年7月円野神社と改号した。
 黎明 (れいめい)21世紀を迎 (むか)え、本殿の修復・幣拝殿御改築の奉祝を機として、平成14年4月30日これまでの円野神社を的野正八幡宮と改号し5月7日に登記したのである。
 的野正八幡宮にある「山之口弥五郎どん祭り」の説明板から、
宮崎県指定 (文化庁選択)、日向の弥五郎人形行事
11月3日 (文化の日) 浜殿下り
 山之口弥五郎どん祭りでは、的野正八幡宮の御神幸行列の先頭に放生会の主人公「弥五郎どん」の大きな人形がその勇姿を見せてくれます。 地元ではこの行列を「浜殿下り」と呼 (よ)んで、古い昔から伝わる最も盛んなお祭りです。
 「弥五郎どんゆかりのものに触れると病気をせず1年中元気で幸せである」という言い伝えから、人々に親しまれ、祭りの主役で地域のシンボルとして、最大の人気があります。
 弥五郎どんは隼人族 (はやとぞく)の首長
 昔、九州が西海道といわれた時代、南九州は日向と呼ばれていました。 昔からここに住んでいた人々が隼人族です。
 奈良時代のはじめ (約1300年前)頃 (ごろ)、大和朝廷 (ちょうてい)は、「養老律令 (ようろうりつりょう、養老2年 (718年)) (奈良時代は710年〜784年です。)」という法律をつくって支配の強化をはかり、全国の地方の政治をより細かく行っていこうと考えて、日向の国に薩摩 (さつま)と大隅 (おおすみ)の国を分置したのです。 それまで首長を中心に強固な共同体を組織していた隼人 (はやと)にとっては、1人1人が完全に帳簿 (ちょうぼ)に登記され、中央から派遣 (はけん)された官僚 (かんりょう)に支配されることは大変な屈辱 (くつじょく)であり、一族としての今までの様な土地の所有権、又は生活ができなくなると思い、反抗したのです。
 養老4年 (720年) (奈良時代は710年〜784年です。)、大隅・日向の隼人らは中央から派遣された初代 大隅国守を殺害して反乱を起こしました。 隼人軍は苦戦の連続で、圧倒的な兵力をもつ政府軍の前に力尽 (ちからつ)き、隼人たちの城は次々に落ちてたいへんいたましいものとなりました。 隼人族の首領、弥五郎をはじめ犠牲 (ぎせい)となった1400余名の隼人族の怨霊 (おんりょう)をおそれた大和朝廷は、全国で放生会 (ほうじょうえ)を行わせました。 放生会で隼人族の首領「弥五郎どん」の大きな人形をつくり、その霊 (れい)を慰 (なぐさ)めるようになったのです。 神仏習合 (しんぶつしゅうごう)の八幡信仰にあって、御神幸祭と放生会が一体となって、その名残 (なご)りが現在の南九州の八幡神社で行われている、「弥五郎どん祭り」なのです。

  「弥五郎どんの館 (やごろうどんのやかた)」は宮崎県 都城市 山之口町 富吉 1702番地 にあります。
弥五郎どんの館は弥五郎どん祭り関係の多くの展示があります。 世代間交流の場の交流研修室、生活改善食品加工室も併設されています。 弥五郎どんの高さ 4 m の大人 (おおひと)人形 (これは実物大レプリカです。)、的野正八幡宮の例大祭の御神幸行列 (浜殿下り、一の鳥居 (とりい)のそばの御手洗池 (みたらいいけ)を海に見立てています。)の模型、パネル表示、ビデオなどがあります。 言い伝えでは的野正八幡宮の神が年に1度、600 m 西の御手洗池の小さな島にある池之尾神社 (池之尾権現宮)にいる母の神功皇后 (こうごう)に会いに行きます。 御手洗池のそばの仮殿で、神楽 (かぐら)、浦安の舞い、郷土芸能などが舞 (ま)われます。 浜殿下り (御神幸行列)では弥五郎どんの大きな人形、大きな鞍 (くら)を付けた御神馬、3つの神輿 (みこし)なども出ます。 弥五郎どんの大きな人形は中は竹を組 (く)んで作ってあります。 御神馬に付き添 (そ)った人たちが「御神馬馬方節 (ごしんばうまかたぶし)」を歌いながら進みます。 「弥五郎どん」とは奈良時代初期の大和朝廷 (ちょうてい)と隼人族が戦った、隼人の乱のときの隼人族の首領と言われています。 隼人側は数千人の兵が集まりました。 7箇所 (かしょ)の城に立てこもりました。 大和朝廷は九州各地から1万人以上の兵を集めました。 そして九州の東側と西側の二つの経路で進軍しました。 戦いは1年半近く続きました。 隼人の乱では隼人族の戦死者と捕虜 (ほりょ)の合計が約1400人でした。 隼人族の首は大分県の宇佐神宮の近くへ持っていかれました。 それが「凶首塚」 (昭和46年3月26日 県指定史跡)という石室古墳 (いしむろこふん)です。 鹿児島県 国分市 (現 霧島市)には隼人塚が残っています。 捕虜は都 (奈良県の平城京 (平城京は710年から784年です。))に連 (つ)れて行かれました。

 「隼人の乱 (はやとのらん)と放生会 (ほうじょうえ)」の説明板から、
<隼人反乱の原因>
 ことの起こりは、大和朝廷 (やまとちょうてい)が全国の地方政治をより細かく行っていくために制定した「養老律令 (ようろうりつりょう、養老2年 (718年)) (奈良時代は710年〜784年です。)」です。 酋長 (しゅうちょう)を中心に強固な共同体を組織していた隼人にとっては、中央から派遣 (はけん)された官僚に支配されることは大変な屈辱 (くつじょく)でした。
 養老4年 (720年)2月29日 (奈良時代は710年〜784年です。)、大隅 (おおすみ)、日向 (ひゅうが)の隼人らは初代 大隅国守・陽候史麻呂を殺害して反乱を起こしました。 同年3月4日、朝廷は中納言 大伴旅人を征隼人持節大将軍とし、また笠御室と巨勢真人を福将軍として派遣 (はけん)しました。 同年9月、当時 豊前守であった正六位 宇努首男人が将軍として戦地に赴 (おもむ)き、また八幡神の禰宜辛嶋勝波米豆が御権人となって薦神社 (中津市 大貞)の「真薦」を刈 (か)り取りました。 さらに下宮に御羽屋殿を建て、そこで「薦枕」の「御験」を御神体として、御神輿 (おみこし)に奉 (ほう)じて隼人たちの立てこもる奴久良・幸原・神野・牛屎・志加牟・曽於乃石城・比売乃城の7城を次々と攻 (せ)めていったのです。
 隼人軍は苦戦を強 (し)いられ、圧倒的な兵力をもつ政府軍の前に隼人の城は次々に落ち、最後まで抵抗し続けた曽於乃石城と比売乃城の隼人たちもついに戦死、また捕虜 (ほりょ)となったのです。 (隼人の乱では隼人族の戦死 又 (また)は捕虜(ほりょ)の合計が約1400人でした。 戦いは1年半近く続きました。)
 養老7年 (723年) 宇佐の集団は隼人の首を持ち帰り、(大分県の)宇佐の松隈に埋 (う)めました。 それが「凶首塚」 (昭和46年3月26日 県指定史跡)という石室古墳 (いしむろこふん)です。 鹿児島県 国分市 (現 霧島市)には隼人塚が残っています。
<放生会 (ほうじょうえ)と弥五郎どん>
 その後、(大分県の)宇佐地方に疫病 (えきびょう)が流行しました。 これは「隼人の乱でたくさんの反乱軍を殺した報 (むく)い」だとして「霊 (れい)を慰 (なぐさ)めるため放生会をすべし」と宇佐八幡の託宣 (たくせん)がありました。 神亀元年 (724年)のことです。
 隼人族の首領・弥五郎をはじめ犠牲 (ぎせい)となった、たくさんの隼人族の怨霊 (おんりょう)を恐れた大和朝廷は、全国で放生会を行わせました。 その名残 (なご)りが、現在の南九州の八幡神社で行われている「弥五郎どん祭り」です。
 三俣院 (みまたいん、 (山之口町、高城町、三股町、都城市の1部))の宗廟 (そうびょう)として和銅3年 (710年) (奈良時代は710年〜784年です。)に建立 (こんりゅう)された的野正八幡宮 (まとのしょうはちまんぐう)の御神幸祭では、御神幸行列の先頭に立つ弥五郎どんが、千数百年の時を経 (へ)た今も隼人族を守り、その勇姿 (ゆうし)を見せてくれています。

 「山之口弥五郎どん」の説明板から、
 毎年11月3日に宮崎県 都城市 山之口町の的野正八幡宮 周辺で行われ、約1000年の歴史を持ち、盛大な中にも古式豊かな一大絵巻の祭りで、素朴さに特徴があります。 文化庁から無形民俗文化財に選択されています。
 弥五郎どんは身の丈 (たけ)4 m 、顔には朱面を着 (つ)け、三俣大鋒 (ほこ)鉾 (ほこ)を負 (お)い、腰 (こし)には大小の刀を差 (さ)しています。
 弥五郎どんは明治維新の廃仏毀釈 (はいぶつきしゃく)により、竹内宿称と称 (しょう)されていましたが、隼人族 (はやとぞく)の首長ともいわれています。 「弥五郎どんゆかりのものに触 (ふ)れると病気をせず、1年中元気に過 (す)ごせる。」という言い伝えがあります。

 「飫肥 (おび)弥五郎様」の説明板から、
 毎年11月第2日曜日に宮崎県 日南市 飫肥の田ノ上八幡神社で斎行される例大祭では弥五郎様を曳 (ひ)く御神幸が盛大に執 (と)り行われます。 文化庁から無形民俗文化財に選択されています。
 弥五郎様は身の丈 (たけ)7 m 余り (御神幸用は 5.5 m )、白衣の上に紫色の素袴 (はかま)、赤袴を履 (は)き烏帽子 (えぼうし)をかぶり、5 m ほどの長刀を帯び、右手に長槍 (やり)をついています。
 伝説によると、大隅国 桑原郡に稲津弥五郎 (弥五郎様)というものがおり、八幡様の御神体を背負 (せお)い、現在の田ノ上八幡神社にお祀 (まつ)りしたと伝えられています。 弥五郎様の股 (また)を年の数だけ潜 (くぐ)ると無病息災の御神徳があると伝えられています。

 「大隅 (おおすみ)弥五郎どん」の説明板から、
 毎年11月3日に 鹿児島県 曽於市 大隅町の岩川八幡神社 周辺で行われ、約900年の伝統を持ち鹿児島県下 三大祭りの1つです。 鹿児島県から無形民俗文化財に指定されています。
 弥五郎どんは身の丈 (たけ)6 m の大男で、25反 (たん)もの梅染の衣を纏 (まと)い、ギョロリ目に太い眉 (まゆ)、4 m 25 cm と 2 m 85 cm の大小2刀を腰に携 (たずさ)えたその姿は、勇ましく威風堂々 (いふうどうどう)としています。 一説には300歳の長寿を誇 (ほこ)り、6代の天皇に仕 (つか)えた竹内宿称とされたり、隼人族 (はやとぞく)の首領などとも言われる伝説の巨人です。 穀物の豊作や地域守護の先導役として尊崇を集めています。

 「古代ロマン 南九州大人弥五郎 伝説」の説明板から、
 南九州の大人弥五郎伝説は、養老4年 (720年) (奈良時代は710年〜784年です。)大和朝廷による隼人征伐 (はやとせいばつ)に由来 (ゆらい)します。 この時の「隼人の乱」では、多くの隼人族が斬首 (首切り)や残虐行為にあいました。 この隼人族の怨霊 (おんりょう)を恐れた大和朝廷は、全国規模で「放生会 (ほうじょうえ)」を行いました。
 弥五郎伝説は、神亀元年 (724年)に始まる「放生会=生類を放つために執 (と)り行われる儀式 (ぎしき)」が、後に大人 (おおひと)人形行事として数百年を超える歴史の中で郷土の誇 (ほこ)りとして先人から大切に保存・継承されてきた貴重な伝統文化行事です。 継承されているそれぞれの祭りでは、祭りの主役として先頭に立ち、神様達の先導役となって露払い (つゆはらい)、悪魔払いをしてくれます。
 南九州の八幡神社では、昔 弥五郎祭りが行われており、その史実も各地に残されていますが、現在「弥五郎人形行事」として行われているのは、宮崎県都城市山之口町の的野正八幡宮、鹿児島県曽於市大隅町の岩川八幡神社、宮崎県日南市飫肥の田ノ上八幡神社です。
 弥五郎は、誰なのか、いつ頃から始まり何のために、どのように保存・継承されてきたのか分からないことばかりですが、庶民に親しまれ愛されている大人弥五郎には畏怖 (いふ)の念さえ抱 (いだ)かされます。 大人弥五郎伝説の未来への思いを抱きつつ・・・
的野正八幡宮 和銅3年 (710年)(奈良時代は710年〜784年です。)創建 宮崎県都城市山之口町
岩川八幡神社 万寿2年 (1025年)創建 鹿児島県曽於市大隅町
田之上八幡神社 天永元年 (1110年)創建 宮崎市県日南市飫肥

 「弥五郎どん祭り」
弥五郎どん祭りは平成2年2月27日に文化庁選択「無形民俗文化財」になりました。
説明板から、
毎年11月3日 (文化の日)に行われる弥五郎どん祭りでは、的野正八幡宮の御神幸行列の先頭に、放生会の主人公「弥五郎どん」の大きな人形がその勇姿を見せてくれます。 地元ではこの行列を 「浜殿下り」と呼んで、古い昔から伝わる最も盛んなお祭りです。 「弥五郎どんゆかりのものに触れると病気をせず1年中元気で幸せである。」という言い伝えから、人々に親しまれ、祭りの主役で地域のシンボルとして、最大の人気があります。
 「11月3日 弥五郎どん祭り」の説明板から、
 「弥五郎どんのゆかりのものに触 (ふ)れると病気をせず、1年中元気で幸せである。」との言い伝えから、みんなに親しまれ、祭りのシンボルとして1番の人気があります。 隼人族の首長「弥五郎どん人形」は放生会の主人公で、「浜殿下り」の先頭に立って露払い (つゆはらい)・悪魔払いをしてくれます。 神仏習合の八幡信仰の具体的展開として、貴重なものであるといわれています。
 「片剣舞 (かたつるぎまい、片刀の舞 (かたとうのまい))」の説明板から、
 毎年11月3日 弥五郎どん祭りの日に舞われる里神楽 (さとかぐら)である。 舞は、修験者 (しゅげんじゃ)がもつ鈴を右手に持ち剣を正眼の構えから、中刀、切っ先と舞い、最後に剣の柄 (つか)を執 (と)り左右に切り払い舞い、神の霊を鎮 (しず)め悪魔払いをして、人々の無病息災を祈願する神楽 (かぐら)である。
 「田の神舞 (たのかんめ)」の説明板から、
 現在、11月3日の「弥五郎どん祭り」で舞われている6つの神楽 (かぐら)の中で1番人気のある舞である。 舞は、田植えの時の姿そのままに前かがみで腰を折り、腰に幣竹 (へいちく)を2本差し、股 (もも)を高くあげて田んぼから引き抜 (ぬ)き、足先から前に踏 (ふ)み込 (こ)んでリズムよく踊っていく。 手には、鈴・メシゲ (しゃもじ)・扇 (おうぎ)をもち「稲穂の長さ1尺8寸ブラブラ ユラユラ・・・米粒の大きさ1寸8分コロコロ ゴロゴロ・・・」を唱 (とな)えながら、神の恵みによってできる米の尊 (たっと)さを述べて、無病息災、五穀豊穣、農耕安全を祈って舞う。
 「浦安の舞」の説明板から、
 昭和天皇の詠 (よ)まれた歌をもとにした浦安の舞は「扇の舞」、「鈴の舞」の2部構成からなる優雅な舞いである。 弥五郎どん祭りでは、町内の各地区を代表する4人の女子中学生が浜殿下りの仮殿で舞い、的野正八幡宮の神々に奉納する習慣である。
 「猿田彦の神」の説明板から、
 猿田彦は、悪鬼邪霊を怖 (おじ)けさせ打ち払って、露払いをしてくれるといわれている。 言い伝えでは、身長すこぶる高く、顔赤くして鼻高く、眼は大きくて、そのさまはホオズキの如 (ごと)くであった。 ニニギノミコトの降臨に際し最初じゃまをしたが、その後服属し道案内をしたと伝えられている。 的野正八幡宮の「浜殿下り」でも2人の猿田彦が3つの御神輿 (おみこし)をお守りして神様たちの道案内をしてくれる。
 「農村公園利用者の皆様」の看板 (かんばん)から、
 この農村公園 (的野農村公園)は憩 (いこ)いの場でお祭りが有る場所です。 農村公園を利用される皆様の御心でゴミはお持ち帰りをお願い致します。 的野正八幡宮。

 「的野六面地蔵石幢 (まとのろくめんじぞうせきしょう、的野六面地蔵塔)」の標柱から、
この石塔は、万治元年 (1658年、江戸時代の初期。)に建立されたもので、明治初年の廃仏毀釈 (はいぶつきしゃく)時の受難の跡 (あと)が、東面と南面に見られます。 上部の地蔵は、6道において衆生の苦患を救うという地蔵で、6道輪回をあらわしています。

 「都城市立 富吉小学校」は宮崎県 都城市 山之口町 富吉 1659番地1 にあります。


写真A: 手前は県道47号です。 県道の西側に都城市立 富吉小学校があります。 右 (北)に進むと約1 km のところに あじさい公園、JR山之口駅、道の駅山之口、青井岳荘、宮崎市田野町、宮崎市の中心部などがあります。 左 (南)に進むとJR三股駅、椎八重公園などがあります。



写真B: 東を見たものです。 的野正八幡宮 (まとのしょうはちまんぐう)の大きな一の鳥居 (とりい)、左に水之尾権現宮 (水之尾神社)の赤い社 (やしろ)と御手洗池 (みたらいいけ)があります。 的野正八幡宮の「弥五郎どん祭り (やごろうどんまつり)」の行列は的野正八幡宮からこの水之尾神社の近くまで行われます。



写真C: 東を見たものです。 まっすぐの参道が突 (つ)き当りの的野正八幡宮まで続いています。 弥五郎どん祭りの行列は奥からこちらに進みます。 遠くに大きな山も見えています。



写真D: 「的野正八幡宮」と一の鳥居 (とりい)に書いてあります。



写真E: 水之尾神社の御手洗池 (みたらいいけ)、小さな島にある赤い社 (やしろ)、御手洗池の赤い神橋、石灯籠 (いしどうろう)、鳥居 (とりい)などがあります。 左奥は富吉小学校と県道47号です。 北西を見たものです。



写真F: 東を見たものです。 的野正八幡宮の参道です。 左に「弥五郎どんの館 (やかた)」の入り口、右に的野六面地蔵石幢 (まとのろくめんじぞうせきしょう、的野六地蔵塔)が見えます。 参道の突き当りに的野正八幡宮があります。



写真G: 北を見たものです。 「弥五郎どんの館」の建物と駐車場が見えます。 塔のような建物の中に弥五郎どんの大きな人形があります。



写真H: 「弥五郎どんの館、弥五郎どんの大きな人形の絵、中山間地域総合整備事業」と書いてある看板 (かんばん)があります。 右奥に弥五郎どんの館の建物が見えます。



写真I: 参道です。 突き当りに的野正八幡宮の二の鳥居 (とりい)が小さく見えます。 参道に桜の並木 (なみき)があります。 東を見たものです。 奥に大きな山が見えます。 この山は東岳 (標高 898 m )です。
天神山の南西約1.5 km に東岳 (標高 898 m )があります。 この東岳は江戸時代に薩摩藩で浄土真宗が禁止されていたころに、宮崎市 清武町の伝道僧 佐々木深道が山越えして薩摩藩の山之口に入るときに通った山です。
「安楽寺」は宮崎県 都城市 山之口町 富吉 3527 にあります。
「安楽寺」は浄土真宗 本願寺派のお寺です。 島津は島津義弘が第2次朝鮮出兵した頃から、浄土真宗(一向宗)を禁制にしました。 それで信者は田島かくれ念仏洞などで密(ひそ)かに信仰を続けました(隠れ念仏)。 島津はそれを抑(おさ)えこむために拷問石(ごうもんいし)などで自白を迫(せま)りました。 責め苦に耐え切れずに白状すれば禅宗に改宗を命じられ、あくまでも拒否すれば死刑に処せられました。 特に武士の場合は、血判の上、改宗を誓っても処罰を免れず、切腹の重刑、軽くても家禄召揚の上、百姓として追放処分を受けました。 安楽寺にはその時の都城会所で使われた拷問石が5枚置いてあり、殉教之碑(じゅんきょうのひ)もそのそばにあります。 また、親鸞聖人(しんらんしょうにん)の像、久遠堂、大きなイチョウの木(安楽寺の大イチョウ)などもあります。 一向宗(浄土真宗)をこの地に伝えたのは島津藩外の清武(飫肥藩)から命がけで東岳(標高 898 m)を越えて来た伝道僧 佐々木深道(安楽寺の初代)でした。 東岳は桝安森林公園(ますやすしんりんこうえん)の北東 約6 kmにある山です。 安楽寺は安政3年に飫肥(おび)藩主により宮崎郡 清武郷に建立されました。 薩摩宗教難民の避難所の役割を果たしていました。 安楽寺の住職は念仏禁制の薩摩各地に潜入して布教を行いました。 明治26年に山之口地方 信徒の希望で現在地に寺号(寺の名前)移転しました。



写真J: 遠くの山並み (やまなみ)が見えます。 手前に円筒形の牛の飼料 (しりょう)、農業用ビニールハウス、「弥五郎どんまつり」の幟 (のぼり)も桜の木のそばにあります。 車道の右に歩道があります。 東を見たものです。



写真K: 桜並木の参道と奥の二の鳥居 (とりい)が見えます。 二の鳥居の奥は登りの石段になっています。 赤と緑の「弥五郎どんまつり」の幟 (のぼり)がたくさん見えます。 東を見たものです。



写真L: 南東を見たものです。 遠くの山、民家、林、畑などがあります。



写真M: 車道の右に歩道があります。 消火栓 (せん)の丸い標識、ミラーがある十字路があります。 東を見たものです。



写真N: 参道にある十字路です。 「止まれ」の道路標識もあります。 東を見たものです。



写真O: 車道の右に歩道があります。 神社の鎮守の森 (ちんじゅのもり)、二の鳥居、民家の塀 (へい)、畑、円筒形の牛の飼料などがあります。



写真P: 野草の「ツユクサの花」が咲いていました。



写真Q: バス停「あじさい のりば 都城市」があります。 コミュニティーバスの停留所と思われます。



写真R: バス停「的野正八幡宮西 (まとのしょうはちまんぐう西)」の運行日、運行時刻、利用方法が書いてあります。



写真S: 参道の車道の南側にある歩道です。 桜の木と「弥五郎どんまつり」の幟 (のぼり)があります。 東を見たものです。



写真T: そばに刈 (か)り取られた田んぼがありました。 南を見たものです。



写真U: 的野正八幡宮 (まとのしょうはちまんぐう)の鎮守の森 (ちんじゅのもり)、二の鳥居 (とりい)が見えます。 右の家のあたりに昔は神宮寺の「弥勒寺」がありました。 神宮寺 (じんぐうじ)とは神仏習合のあらわれとして、神社に付属して置かれた寺院のことです。 明治維新以後 神仏分離によって廃絶あるいは独立しました。 別当寺とも呼 (よ)ばれます。 東を見たものです。



写真V: 北東を見たものです。



写真W: 右に民家があります。 このあたりは明治時代初めの廃仏毀釈 (はいぶつきしゃく)のときまでは的野正八幡宮別当弥勒寺がありました。 鳥居と家の間に小さくその標柱が見えます。 右に看板 (かんばん)があります。 南東を見たものです。



写真X: 「山之口町史跡案内図」の看板 (かんばん)があります。



写真Y: 右に弥勒寺跡 (みろくでらあと)の標柱があります。 二の鳥居の奥に石段、左右に細目の道があります。 左の道は上の社殿のところに行けます。 東を見たものです。



写真Z: 二の鳥居の右手前に「的野正八幡宮別当弥勒寺跡」の標柱があります。 南東を見たものです。



写真AA: 南東を見たものです。 細い道があります。 このあたりは昔に神社の神宮寺だった「弥勒 (みろく)寺」がありました。
神宮寺 (じんぐうじ)とは神仏習合のあらわれとして、神社に付属して置かれた寺院のことです。 明治維新以後 神仏分離によって廃絶あるいは独立しました。 別当寺とも呼 (よ)ばれます。



写真AB: 東を見たものです。 標柱があります。



写真AC: 南西を見たものです。 看板 (かんばん)があります。



写真AD: 西を見たものです。 的野正八幡宮の参道です。 奥に一の鳥居、弥五郎どんの館、県道47号、富吉小学校があります。 弥五郎どん祭りのときは手前から奥に行列が進みます。



写真AE: 北西を見たもの。



写真AF: 北を見たものです。



写真AG: 宮崎県 都城市 山之口町 大字富吉にある的野正八幡宮 (まとのしょうはちまんぐう)の二の鳥居 (とりい)です。



写真AH: 二の鳥居のそばです。



写真AI: 南東を見たものです。



写真AJ: 鳥居 (とりい)の奥に石段が見えます。
「的野正八幡宮 (まとのしょうはちまんぐう)」は宮崎県 都城市 山之口町 大字富吉 字的野 1412番地 にあります。
 11月3日に「弥五郎どん祭り」があります。 的野正八幡宮から約600 m 西にある池之尾神社まで浜殿下り (はまくだり)と呼 (よ)ばれる御神幸行列があり、台車に乗った高さ約4 m の弥五郎どんの大きな人形もでます。 境内 (けいだい)に漢字が日本に入ってくる前の文字 (神代文字 (じんだいもじ、かみよもじ))阿比留文字で彫 (ほ)られた石塔 (石碑 (せきひ))があります。 この2つの石塔は明治時代に建立 (こんりゅう)されました。 神代文字で「メウチニシヲイチネム・タテマツル・シアスキチニチ (明治21年奉 (たてまつ)る 師走 (しわす)吉日)」と書いてあるそうです。 名称は的野正八幡宮、円野神社 (まるのじんじゃ)、的野正八幡宮と変わりました。 旧 郷社です。 的野正八幡宮は現在の鹿児島神宮 (鹿児島県 霧島市 隼人町内 2496-1 にあります。)の末社です。



写真AK: 的野正八幡宮です。



写真AL: 二の鳥居に「的野正八幡宮」と書いてあります。



写真AM: 二の鳥居に「御大典・・」と書いてあります。



写真AN: 「弥五郎どんまつり」の幟 (のぼり)が鳥居のそばにあります。



写真AO: 「山之口弥五郎どん祭り」の説明板があります。
宮崎県指定 (文化庁選択)、日向の弥五郎人形行事
11月3日 (文化の日) 浜殿下り
 山之口弥五郎どん祭りでは、的野正八幡宮の御神幸行列の先頭に放生会の主人公「弥五郎どん」の大きな人形がその勇姿を見せてくれます。 地元ではこの行列を「浜殿下り」と呼 (よ)んで、古い昔から伝わる最も盛んなお祭りです。
 「弥五郎どんゆかりのものに触れると病気をせず1年中元気で幸せである」という言い伝えから、人々に親しまれ、祭りの主役で地域のシンボルとして、最大の人気があります。
 弥五郎どんは隼人族 (はやとぞく)の首長
 昔、九州が西海道といわれた時代、南九州は日向と呼ばれていました。 昔からここに住んでいた人々が隼人族です。
 奈良時代のはじめ (約1300年前)頃 (ごろ)、大和朝廷 (ちょうてい)は、「養老律令 (ようろうりつりょう、養老2年 (718年)) (奈良時代は710年〜784年です。)」という法律をつくって支配の強化をはかり、全国の地方の政治をより細かく行っていこうと考えて、日向の国に薩摩 (さつま)と大隅 (おおすみ)の国を分置したのです。 それまで首長を中心に強固な共同体を組織していた隼人 (はやと)にとっては、1人1人が完全に帳簿 (ちょうぼ)に登記され、中央から派遣 (はけん)された官僚 (かんりょう)に支配されることは大変な屈辱 (くつじょく)であり、一族としての今までの様な土地の所有権、又は生活ができなくなると思い、反抗したのです。
 養老4年 (720年) (奈良時代は710年〜784年です。)、大隅・日向の隼人らは中央から派遣された初代 大隅国守を殺害して反乱を起こしました。 隼人軍は苦戦の連続で、圧倒的な兵力をもつ政府軍の前に力尽 (ちからつ)き、隼人たちの城は次々に落ちてたいへんいたましいものとなりました。 隼人族の首領、弥五郎をはじめ犠牲 (ぎせい)となった1400余名の隼人族の怨霊 (おんりょう)をおそれた大和朝廷は、全国で放生会 (ほうじょうえ)を行わせました。 放生会で隼人族の首領「弥五郎どん」の大きな人形をつくり、その霊 (れい)を慰 (なぐさ)めるようになったのです。 神仏習合 (しんぶつしゅうごう)の八幡信仰にあって、御神幸祭と放生会が一体となって、その名残 (なご)りが現在の南九州の八幡神社で行われている、「弥五郎どん祭り」なのです。
山之口町ふるさとの伝統文化掘り起こし事業、宮崎県「神話・伝説の道」 周辺環境整備事業
と書かれています。



写真AP: 「山之口弥五郎どん祭り」の説明板があります。
宮崎県指定 (文化庁選択)、日向の弥五郎人形行事
11月3日 (文化の日) 浜殿下り
 山之口弥五郎どん祭りでは、的野正八幡宮の御神幸行列の先頭に放生会の主人公「弥五郎どん」の大きな人形がその勇姿を見せてくれます。 地元ではこの行列を「浜殿下り」と呼 (よ)んで、古い昔から伝わる最も盛んなお祭りです。
 「弥五郎どんゆかりのものに触れると病気をせず1年中元気で幸せである」という言い伝えから、人々に親しまれ、祭りの主役で地域のシンボルとして、最大の人気があります。
 弥五郎どんは隼人族 (はやとぞく)の首長
 昔、九州が西海道といわれた時代、南九州は日向と呼ばれていました。 昔からここに住んでいた人々が隼人族です。
 奈良時代のはじめ (約1300年前)頃 (ごろ)、大和朝廷 (ちょうてい)は、「養老律令 (ようろうりつりょう、養老2年 (718年)) (奈良時代は710年〜784年です。)」という法律をつくって支配の強化をはかり、全国の地方の政治をより細かく行っていこうと考えて、日向の国に薩摩 (さつま)と大隅 (おおすみ)の国を分置したのです。 それまで首長を中心に強固な共同体を組織していた隼人 (はやと)にとっては、1人1人が完全に帳簿 (ちょうぼ)に登記され、中央から派遣 (はけん)された官僚 (かんりょう)に支配されることは大変な屈辱 (くつじょく)であり、一族としての今までの様な土地の所有権、又は生活ができなくなると思い、反抗したのです。
 養老4年 (720年) (奈良時代は710年〜784年です。)、大隅・日向の隼人らは中央から派遣された初代 大隅国守を殺害して反乱を起こしました。 隼人軍は苦戦の連続で、圧倒的な兵力をもつ政府軍の前に力尽 (ちからつ)き、隼人たちの城は次々に落ちてたいへんいたましいものとなりました。 隼人族の首領、弥五郎をはじめ犠牲 (ぎせい)となった1400余名の隼人族の怨霊 (おんりょう)をおそれた大和朝廷は、全国で放生会 (ほうじょうえ)を行わせました。 放生会で隼人族の首領「弥五郎どん」の大きな人形をつくり、その霊 (れい)を慰 (なぐさ)めるようになったのです。 神仏習合 (しんぶつしゅうごう)の八幡信仰にあって、御神幸祭と放生会が一体となって、その名残 (なご)りが現在の南九州の八幡神社で行われている、「弥五郎どん祭り」なのです。
山之口町ふるさとの伝統文化掘り起こし事業、宮崎県「神話・伝説の道」 周辺環境整備事業
と書かれています。



写真AQ: 「山之口弥五郎どん祭り」の説明板です。
宮崎県指定 (文化庁選択)、日向の弥五郎人形行事
11月3日 (文化の日) 浜殿下り
 山之口弥五郎どん祭りでは、的野正八幡宮の御神幸行列の先頭に放生会の主人公「弥五郎どん」の大きな人形がその勇姿を見せてくれます。 地元ではこの行列を「浜殿下り」と呼 (よ)んで、古い昔から伝わる最も盛んなお祭りです。
 「弥五郎どんゆかりのものに触れると病気をせず1年中元気で幸せである」という言い伝えから、人々に親しまれ、祭りの主役で地域のシンボルとして、最大の人気があります。
 弥五郎どんは隼人族 (はやとぞく)の首長
 昔、九州が西海道といわれた時代、南九州は日向と呼ばれていました。 昔からここに住んでいた人々が隼人族です。
 奈良時代のはじめ (約1300年前)頃 (ごろ)、大和朝廷 (ちょうてい)は、「養老律令 (ようろうりつりょう、養老2年 (718年)) (奈良時代は710年〜784年です。)」という法律をつくって支配の強化をはかり、全国の地方の政治をより細かく行っていこうと考えて、日向の国に薩摩 (さつま)と大隅 (おおすみ)の国を分置したのです。 それまで首長を中心に強固な共同体を組織していた隼人 (はやと)にとっては、1人1人が完全に帳簿 (ちょうぼ)に登記され、中央から派遣 (はけん)された官僚 (かんりょう)に支配されることは大変な屈辱 (くつじょく)であり、一族としての今までの様な土地の所有権、又は生活ができなくなると思い、反抗したのです。
 養老4年 (720年) (奈良時代は710年〜784年です。)、大隅・日向の隼人らは中央から派遣された初代 大隅国守を殺害して反乱を起こしました。 隼人軍は苦戦の連続で、圧倒的な兵力をもつ政府軍の前に力尽 (ちからつ)き、隼人たちの城は次々に落ちてたいへんいたましいものとなりました。 隼人族の首領、弥五郎をはじめ犠牲 (ぎせい)となった1400余名の隼人族の怨霊 (おんりょう)をおそれた大和朝廷は、全国で放生会 (ほうじょうえ)を行わせました。 放生会で隼人族の首領「弥五郎どん」の大きな人形をつくり、その霊 (れい)を慰 (なぐさ)めるようになったのです。 神仏習合 (しんぶつしゅうごう)の八幡信仰にあって、御神幸祭と放生会が一体となって、その名残 (なご)りが現在の南九州の八幡神社で行われている、「弥五郎どん祭り」なのです。
山之口町ふるさとの伝統文化掘り起こし事業、宮崎県「神話・伝説の道」 周辺環境整備事業
と書かれています。



写真AR: 「山之口弥五郎どん祭り」の説明板。
宮崎県指定 (文化庁選択)、日向の弥五郎人形行事
11月3日 (文化の日) 浜殿下り
 山之口弥五郎どん祭りでは、的野正八幡宮の御神幸行列の先頭に放生会の主人公「弥五郎どん」の大きな人形がその勇姿を見せてくれます。 地元ではこの行列を「浜殿下り」と呼 (よ)んで、古い昔から伝わる最も盛んなお祭りです。
 「弥五郎どんゆかりのものに触れると病気をせず1年中元気で幸せである」という言い伝えから、人々に親しまれ、祭りの主役で地域のシンボルとして、最大の人気があります。
 弥五郎どんは隼人族 (はやとぞく)の首長
 昔、九州が西海道といわれた時代、南九州は日向と呼ばれていました。 昔からここに住んでいた人々が隼人族です。
 奈良時代のはじめ (約1300年前)頃 (ごろ)、大和朝廷 (ちょうてい)は、「養老律令 (ようろうりつりょう、養老2年 (718年)) (奈良時代は710年〜784年です。)」という法律をつくって支配の強化をはかり、全国の地方の政治をより細かく行っていこうと考えて、日向の国に薩摩 (さつま)と大隅 (おおすみ)の国を分置したのです。 それまで首長を中心に強固な共同体を組織していた隼人 (はやと)にとっては、1人1人が完全に帳簿 (ちょうぼ)に登記され、中央から派遣 (はけん)された官僚 (かんりょう)に支配されることは大変な屈辱 (くつじょく)であり、一族としての今までの様な土地の所有権、又は生活ができなくなると思い、反抗したのです。
 養老4年 (720年) (奈良時代は710年〜784年です。)、大隅・日向の隼人らは中央から派遣された初代 大隅国守を殺害して反乱を起こしました。 隼人軍は苦戦の連続で、圧倒的な兵力をもつ政府軍の前に力尽 (ちからつ)き、隼人たちの城は次々に落ちてたいへんいたましいものとなりました。 隼人族の首領、弥五郎をはじめ犠牲 (ぎせい)となった1400余名の隼人族の怨霊 (おんりょう)をおそれた大和朝廷は、全国で放生会 (ほうじょうえ)を行わせました。 放生会で隼人族の首領「弥五郎どん」の大きな人形をつくり、その霊 (れい)を慰 (なぐさ)めるようになったのです。 神仏習合 (しんぶつしゅうごう)の八幡信仰にあって、御神幸祭と放生会が一体となって、その名残 (なご)りが現在の南九州の八幡神社で行われている、「弥五郎どん祭り」なのです。
山之口町ふるさとの伝統文化掘り起こし事業、宮崎県「神話・伝説の道」 周辺環境整備事業
と書かれています。



写真AS: 「山之口弥五郎どん祭り」の説明板があります。
宮崎県指定 (文化庁選択)、日向の弥五郎人形行事
11月3日 (文化の日) 浜殿下り
 山之口弥五郎どん祭りでは、的野正八幡宮の御神幸行列の先頭に放生会の主人公「弥五郎どん」の大きな人形がその勇姿を見せてくれます。 地元ではこの行列を「浜殿下り」と呼 (よ)んで、古い昔から伝わる最も盛んなお祭りです。
 「弥五郎どんゆかりのものに触れると病気をせず1年中元気で幸せである」という言い伝えから、人々に親しまれ、祭りの主役で地域のシンボルとして、最大の人気があります。
 弥五郎どんは隼人族 (はやとぞく)の首長
 昔、九州が西海道といわれた時代、南九州は日向と呼ばれていました。 昔からここに住んでいた人々が隼人族です。
 奈良時代のはじめ (約1300年前)頃 (ごろ)、大和朝廷 (ちょうてい)は、「養老律令 (ようろうりつりょう、養老2年 (718年)) (奈良時代は710年〜784年です。)」という法律をつくって支配の強化をはかり、全国の地方の政治をより細かく行っていこうと考えて、日向の国に薩摩 (さつま)と大隅 (おおすみ)の国を分置したのです。 それまで首長を中心に強固な共同体を組織していた隼人 (はやと)にとっては、1人1人が完全に帳簿 (ちょうぼ)に登記され、中央から派遣 (はけん)された官僚 (かんりょう)に支配されることは大変な屈辱 (くつじょく)であり、一族としての今までの様な土地の所有権、又は生活ができなくなると思い、反抗したのです。
 養老4年 (720年) (奈良時代は710年〜784年です。)、大隅・日向の隼人らは中央から派遣された初代 大隅国守を殺害して反乱を起こしました。 隼人軍は苦戦の連続で、圧倒的な兵力をもつ政府軍の前に力尽 (ちからつ)き、隼人たちの城は次々に落ちてたいへんいたましいものとなりました。 隼人族の首領、弥五郎をはじめ犠牲 (ぎせい)となった1400余名の隼人族の怨霊 (おんりょう)をおそれた大和朝廷は、全国で放生会 (ほうじょうえ)を行わせました。 放生会で隼人族の首領「弥五郎どん」の大きな人形をつくり、その霊 (れい)を慰 (なぐさ)めるようになったのです。 神仏習合 (しんぶつしゅうごう)の八幡信仰にあって、御神幸祭と放生会が一体となって、その名残 (なご)りが現在の南九州の八幡神社で行われている、「弥五郎どん祭り」なのです。
山之口町ふるさとの伝統文化掘り起こし事業、宮崎県「神話・伝説の道」 周辺環境整備事業
と書かれています。



写真AT: 「山之口弥五郎どん祭り」の説明板。
宮崎県指定 (文化庁選択)、日向の弥五郎人形行事
11月3日 (文化の日) 浜殿下り
 山之口弥五郎どん祭りでは、的野正八幡宮の御神幸行列の先頭に放生会の主人公「弥五郎どん」の大きな人形がその勇姿を見せてくれます。 地元ではこの行列を「浜殿下り」と呼 (よ)んで、古い昔から伝わる最も盛んなお祭りです。
 「弥五郎どんゆかりのものに触れると病気をせず1年中元気で幸せである」という言い伝えから、人々に親しまれ、祭りの主役で地域のシンボルとして、最大の人気があります。
 弥五郎どんは隼人族 (はやとぞく)の首長
 昔、九州が西海道といわれた時代、南九州は日向と呼ばれていました。 昔からここに住んでいた人々が隼人族です。
 奈良時代のはじめ (約1300年前)頃 (ごろ)、大和朝廷 (ちょうてい)は、「養老律令 (ようろうりつりょう、養老2年 (718年)) (奈良時代は710年〜784年です。)」という法律をつくって支配の強化をはかり、全国の地方の政治をより細かく行っていこうと考えて、日向の国に薩摩 (さつま)と大隅 (おおすみ)の国を分置したのです。 それまで首長を中心に強固な共同体を組織していた隼人 (はやと)にとっては、1人1人が完全に帳簿 (ちょうぼ)に登記され、中央から派遣 (はけん)された官僚 (かんりょう)に支配されることは大変な屈辱 (くつじょく)であり、一族としての今までの様な土地の所有権、又は生活ができなくなると思い、反抗したのです。
 養老4年 (720年) (奈良時代は710年〜784年です。)、大隅・日向の隼人らは中央から派遣された初代 大隅国守を殺害して反乱を起こしました。 隼人軍は苦戦の連続で、圧倒的な兵力をもつ政府軍の前に力尽 (ちからつ)き、隼人たちの城は次々に落ちてたいへんいたましいものとなりました。 隼人族の首領、弥五郎をはじめ犠牲 (ぎせい)となった1400余名の隼人族の怨霊 (おんりょう)をおそれた大和朝廷は、全国で放生会 (ほうじょうえ)を行わせました。 放生会で隼人族の首領「弥五郎どん」の大きな人形をつくり、その霊 (れい)を慰 (なぐさ)めるようになったのです。 神仏習合 (しんぶつしゅうごう)の八幡信仰にあって、御神幸祭と放生会が一体となって、その名残 (なご)りが現在の南九州の八幡神社で行われている、「弥五郎どん祭り」なのです。
山之口町ふるさとの伝統文化掘り起こし事業、宮崎県「神話・伝説の道」 周辺環境整備事業
と書かれています。



写真AU: 的野正八幡宮の石段が見えます。 その上に小さく社殿が見えています。 石段には手すりがあります。 弥五郎どん祭りの幟 (のぼり)がいくつも見えます。 左の道を登っても上の社殿のところに行くことができます。



写真AV: 手水鉢 (ちょうずばち)があります。



写真AW: 手水鉢 (ちょうずばち)のそばの石碑 (せきひ)です。



写真AX: 階段の上にも木が茂 (しげ)っています。



写真AY: 石段に緑の苔 (こけ)があります。



写真AZ: 石段の下部です。 右に手すりが見えます。



写真BA: 「的野正八幡宮 (的野神社)」の説明板があります。



写真BB: 石段の苔 (こけ)です。



写真BC: 石段に蛾 (が)の幼虫と思われる虫がいました。



写真BD: 石灯籠 (いしどうろう)があります。 右上は末社です。



写真BE: 末社があります。



写真BF: 右側の末社です。



写真BG: 石段を上りきったところの左右に石塔 (石碑 (せきひ))があります。 この2つに不思議な文字 (神代文字)があります。
石段の上に社殿があります。 東を見たものです。
「的野正八幡宮 (まとのしょうはちまんぐう)」は宮崎県 都城市 山之口町 大字富吉 字的野 1412番地 にあります。
 「的野正八幡宮 由来 (ゆらい)」の説明板から、
 祭神は、宇佐神宮と同じく応神天皇 (誉田別命)・玉依姫命 (比売大神)・神功皇后 (こうごう、息長足姫命)である。
 的野正八幡宮は、古文書にあるように和銅3年 (奈良時代のはじめ) 西暦710年 (弥五郎どんが首領だった隼人の乱の10年前です。) (奈良時代は710年〜784年です。)に創建され、三国名勝図会には「往古、大社なりしといへり」と記 (しる)されている。
 奈良・平安時代は荘園発達の時代に入り三俣院 (山之口町、高城町、三股町、都城市の1部)は700町歩の面積をもつ日本有数の荘園となる。 ここで収穫される農産物の集散地として、延喜式にみる水俣駅が当地 (山之口・推定)に置かれたのである。 駅には納税物を入れる倉庫が建ち、荘園を治める役所が設 (もう)けられ、運搬用として駅馬5頭が常時配置されていた。
 的野正八幡宮は、この三俣院の宗廟として栄え、新町 (字名、現在も残る。)は門前町の様相を呈 (てい)し賑 (にぎ)わったといわれている。
 武家政権の胎動 (たいどう)と同じくして、この荘園をめぐる抗争もはげしくなっていく。 肝付 (きもつき)氏ー島津氏ー伊東氏ー島津氏と攻防をくりかえす中でも、歴代の院司や領主たちに崇敬され、伊東家の氏神になったり、島津家の氏神になったりして厚く庇護 (ひご)されてきたのである。 的野正八幡宮の紋 (もん)が(島津の紋)の 丸に十の字 になったり、伊東の九曜の紋になったりしたのをみれば如何 (いか)に大事にされてきたかがわかる。 現在、的野正八幡宮の紋 (もん)は伊東家の九曜の紋である。
 この的野正八幡宮は、明治4年の廃藩置県・廃仏毀釈 (はいぶつきしゃく)によって大打撃をうけ、長くこの的野正八幡宮を守ってきた弥勒寺 (みろくじ)も財産を没収され跡形 (あとかた)もなく破壊されている。
 明治4年5月、神社の社格を定 (さだ)める太政官布告が出され、的野正八幡宮は郷社に列せられる。 翌年、明治5年7月円野神社と改号した。
 黎明 (れいめい)21世紀を迎 (むか)え、本殿の修復・幣拝殿御改築の奉祝を機として、平成14年4月30日これまでの円野神社を的野正八幡宮と改号し5月7日に登記したのである。
 的野正八幡宮にある「山之口弥五郎どん祭り」の説明板から、
宮崎県指定 (文化庁選択)、日向の弥五郎人形行事
11月3日 (文化の日) 浜殿下り
 山之口弥五郎どん祭りでは、的野正八幡宮の御神幸行列の先頭に放生会の主人公「弥五郎どん」の大きな人形がその勇姿を見せてくれます。 地元ではこの行列を「浜殿下り」と呼 (よ)んで、古い昔から伝わる最も盛んなお祭りです。
 「弥五郎どんゆかりのものに触れると病気をせず1年中元気で幸せである」という言い伝えから、人々に親しまれ、祭りの主役で地域のシンボルとして、最大の人気があります。
 弥五郎どんは隼人族 (はやとぞく)の首長
 昔、九州が西海道といわれた時代、南九州は日向と呼ばれていました。 昔からここに住んでいた人々が隼人族です。
 奈良時代のはじめ (約1300年前)頃 (ごろ)、大和朝廷 (ちょうてい)は、「養老律令 (ようろうりつりょう、養老2年 (718年)) (奈良時代は710年〜784年です。)」という法律をつくって支配の強化をはかり、全国の地方の政治をより細かく行っていこうと考えて、日向の国に薩摩 (さつま)と大隅 (おおすみ)の国を分置したのです。 それまで首長を中心に強固な共同体を組織していた隼人 (はやと)にとっては、1人1人が完全に帳簿 (ちょうぼ)に登記され、中央から派遣 (はけん)された官僚 (かんりょう)に支配されることは大変な屈辱 (くつじょく)であり、一族としての今までの様な土地の所有権、又は生活ができなくなると思い、反抗したのです。
 養老4年 (720年) (奈良時代は710年〜784年です。)、大隅・日向の隼人らは中央から派遣された初代 大隅国守を殺害して反乱を起こしました。 隼人軍は苦戦の連続で、圧倒的な兵力をもつ政府軍の前に力尽 (ちからつ)き、隼人たちの城は次々に落ちてたいへんいたましいものとなりました。 隼人族の首領、弥五郎をはじめ犠牲 (ぎせい)となった1400余名の隼人族の怨霊 (おんりょう)をおそれた大和朝廷は、全国で放生会 (ほうじょうえ)を行わせました。 放生会で隼人族の首領「弥五郎どん」の大きな人形をつくり、その霊 (れい)を慰 (なぐさ)めるようになったのです。 神仏習合 (しんぶつしゅうごう)の八幡信仰にあって、御神幸祭と放生会が一体となって、その名残 (なご)りが現在の南九州の八幡神社で行われている、「弥五郎どん祭り」なのです。



写真BH: 手水舎 (ちょうずや)です。 石灯籠 (いしどうろう)もあります。 左手前の石塔 (石碑 (せきひ))に不思議な文字 (神代文字)があります。 これは明治時代に建立 (こんりゅう)されました。 北を見たものです。



写真BI: 「奉納 平成14年4月27日」と書いてある手水鉢 (ちょうずばち)です。 柄杓 (ひしゃく)も見えます。



写真BJ: 手ぬぐいもあります。



写真BK: 登って来た石段を見下 (お)ろしたものです。



写真BL: 石塔 (石碑(せきひ))が2つと左に石碑があります。 南を見たものです。
右手前の石塔 (石碑(せきひ))には不思議な文字が刻 (きざ)まれています。



写真BM: 左に石灯籠 (いしどうろう)があります。



写真BN: 新しい石灯籠 (いしどうろう)です。



写真BO: 左は手水舎 (ちょうずや)です。



写真BP: 石段を上 (あが)りきって右手と左手に1対 (つい)の「不思議な文字がある石塔 (石碑(せきひ))があります。 記号のようにも見えます。
境内 (けいだい)に漢字が日本に入ってくる前の文字 (神代文字 (じんだいもじ、かみよもじ))阿比留文字で彫 (ほ)られた石塔 (石碑 (せきひ))があります。 この石塔は明治時代に建立 (こんりゅう)されました。 神代文字で「メウチニシヲイチネム・タテマツル・シアスキチニチ (明治21年奉 (たてまつ)る 師走 (しわす)吉日)」と書いてあるそうです。
 「神代文字 (じんだいもじ、かみよもじ)」は我が国固有の、神代から伝えられたという文字。 実は、亀トの灼兆 (しゃくちょう)や朝鮮のハングルに擬した偽作。 日文 (ひふみ)・天名地鎮 (あないち)・阿比留文字などの種類があります。 江戸時代、その存否について平田篤胤 (ひらたあつたね、江戸時代後期の国学者。)の「神字日文伝 (かむなひふみのつたえ)」(存在説)や伴信友の「仮字本末 (かなのもとすえ)」(否定説)などの論争がありました。



写真BQ: 古い手水鉢 (ちょうずばち)もあります。 右上は石段です。



写真BR: 境内 (けいだい)です。 石碑(せきひ)がいくつかあります。 南東を見たものです。



写真BS: 東を見たものです。 左に拝殿と奥に本殿があります。 右に大きな立木が折れているのが見えます。



写真BT: 的野正八幡宮 (まとのしょうはちまんぐう)の社殿です。
「的野正八幡宮 (まとのしょうはちまんぐう)」は宮崎県 都城市 山之口町 大字富吉 字的野 1412番地 にあります。
 11月3日に「弥五郎どん祭り」があります。 的野正八幡宮から約600 m 西にある池之尾神社まで浜殿下り (はまくだり)と呼 (よ)ばれる御神幸行列があり、台車に乗った高さ約4 m の弥五郎どんの大きな人形もでます。 境内 (けいだい)に漢字が日本に入ってくる前の文字 (神代文字 (じんだいもじ、かみよもじ))阿比留文字で彫 (ほ)られた石塔 (石碑 (せきひ))があります。 この2つの石塔は明治時代に建立 (こんりゅう)されました。 神代文字で「メウチニシヲイチネム・タテマツル・シアスキチニチ (明治21年奉 (たてまつ)る 師走 (しわす)吉日)」と書いてあるそうです。 名称は的野正八幡宮、円野神社 (まるのじんじゃ)、的野正八幡宮と変わりました。 旧 郷社です。 的野正八幡宮は現在の鹿児島神宮 (鹿児島県 霧島市 隼人町内 2496-1 にあります。)の末社です。



写真BU: 境内 (けいだい)です。 左端は不思議な文字が彫 (ほ)られた石塔 (石碑(せきひ))です。 北を見たものです。



写真BV: 奥の方の石塔 (石碑(せきひ))に不思議な文字があります。 左に石段の手すりが見えます。 北を見たものです。



写真BW: 境内 (けいだい)にある木です。



写真BX: 「的野正八幡宮 御鎮座壱 (いち)千参 (さん)百年 (1300年)記念」と彫 (ほ)られた石碑 (せきひ)です。



写真BY: 石碑 (せきひ)です。 南を見たものです。



写真BZ: 「円野神社」と書いてあります。 的野正八幡宮は円野神社と呼ばれたこともありました。



写真CA: 記念碑です。



写真CB: 社殿の南に折れた大きな立木があります。



写真CC: 的野正八幡宮の本殿が見えます。 屋根には千木 (ちぎ)や鰹木 (かつおぎ)はありません。 これほど大きな本殿では珍しいことと思います。



写真CD: 本殿の下部です。 本殿の横木に象の彫り物 (ほりもの)などがあります。 左は拝殿です。 北東を見たものです。



写真CE: 本殿の後ろにも大きな木があります。



写真CF: 左は拝殿です。



写真CG: 北を見たものです。 拝殿の上部です。



写真CH: 拝殿の側面です。 ここにも石段があります。



写真CI: 拝殿の側面です。 左に石灯籠 (いしどうろう)も見えます。



写真CJ: 拝殿のそばにも弥五郎どん祭りの幟 (のぼり)があります。



写真CK: 的野正八幡宮の境内 (けいだい)です。 手水舎 (ちょうずや)も見えます。 北西を見たものです。



写真CL: 西を見たものです。



写真CM: 「円野神社」と彫 (ほ)られた石碑 (せきひ)です。



写真CN: 新しい左の石灯籠 (いしどうろう)の奥の石塔 (石碑 (せきひ))に不思議な文字が彫 (ほ)られています。 少し離 (はな)れた右の石塔 (石碑 (せきひ))にも同じ文字の同じ文が彫られています。 2つ目のは手水舎 (ちょうずや)の左に見えているものです。
 「神代文字 (じんだいもじ、かみよもじ)」は我が国固有の、神代から伝えられたという文字。 実は、亀トの灼兆 (しゃくちょう)や朝鮮のハングルに擬した偽作。 日文 (ひふみ)・天名地鎮 (あないち)・阿比留文字などの種類があります。 江戸時代、その存否について平田篤胤 (ひらたあつたね、江戸時代後期の国学者。)の「神字日文伝 (かむなひふみのつたえ)」(存在説)や伴信友の「仮字本末 (かなのもとすえ)」(否定説)などの論争がありました。
奥には石段があります。



写真CO: 的野正八幡宮の境内 (けいだい)です。 北西を見たものです。



写真CP: 左は手水舎 (ちょうずや)です。



写真CQ: 「竣工 (しゅんこう)記念碑 (ひ) 竣工平成14年10月吉日」と彫 (ほ)られた石碑 (せきひ)です。 西を見たものです。



写真CR: 「御鎮座1300年記念事業 本殿修復 拝殿改築 他」の碑文 (ひぶん)があります。



写真CS: 建物とトイレがあります。



写真CT: 境内 (けいだい)にある建物です。



写真CU: 二の鳥居 (とりい)の左手の道を登るとここに来ると思います。 北を見たものです。



写真CV: 境内 (けいだい)にある小屋です。 北を見たものです。



写真CW: 坂道を登るとここに出ると思います。



写真CX: 左の本殿と拝殿です。 南東を見たものです。 的野正八幡宮 (まとのしょうはちまんぐう)。



写真CY: 骨組み (ほねぐみ)の上に「弥五郎どんの顔」があります。



写真CZ: 骨組みの下部です。



写真DA: 境内 (けいだい)にある木です。



写真DB: 木の中部です。



写真DC: 木の枝ぶりです。 的野正八幡宮。 北を見たものです。



写真DD: 木の上部です。



写真DE: 左は上に弥五郎どんの顔がある骨組み (ほねぐみ)です。



写真DF: 西を見たものです。 境内 (けいだい)です。



写真DG: 左は拝殿です。



写真DH: 左は本殿、右は拝殿です。



写真DI: 的野正八幡宮の本殿です。 横木に象の彫り物 (ほりもの)があります。 中に古い昔からの本殿が見えます。 南を見たものです。



写真DJ: 本殿の裏 (東)にも木があります。



写真DK: 的野正八幡宮の本殿の下部です。



写真DL: 本殿の下部に苔 (こけ)もあります。



写真DM: 南を見たものです。 右は本殿です。



写真DN: 本殿の屋根の角 (かど)の部分です。



写真DO:  本殿の様子 (ようす)がよく分かります。



写真DP:  拝殿の太鼓 (たいこ)などです。 南東を見たものです。



写真DQ: 的野正八幡宮の鈴の紐 (ひも)、お賽銭箱 (さいせんばこ)などが見えます。 弥五郎どん祭りの幟 (のぼり)もあります。 南を見たものです。



写真DR: 「的野正八幡宮」と書いてある額 (がく)、鈴、しめ縄 (なわ)、電灯、蛍光灯なども見えます。



写真DS: 拝殿の上部です。 天井 (てんじょう)に字を書いた紙をいくつか貼 (は)り付けてあります。



写真DT: 記帳台とノートがあります。 左上はお賽銭箱 (さいせんばこ)です。



写真DU: 「的野正八幡宮」と書いてある額 (がく)、大きな鈴、天井 (てんじょう)に貼 (は)り付けた文字を書いてある紙などです。



写真DV: 「的野正八幡宮」と書いてある額 (がく)です。



写真DW: 額 (がく)、大きな鈴、蛍光灯なども見えます。



写真DX: 鈴の紐 (ひも)、お賽銭箱などです。 まわりの廊下 (ろうか)と手すりも見えます。



写真DY: 鈴の紐 (ひも)の下部です。 右下は記帳台です。 石段もあります。 的野正八幡宮。



写真DZ: 拝殿です。



写真EA: 拝殿の下部です。



写真EB: 的野正八幡宮の拝殿の中です。



写真EC: 拝殿です。



写真ED: 拝殿。



写真EE: お賽銭箱 (さいせんばこ)です。



写真EF: 石段を下 (くだ)って二の鳥居 (とりい)のところに戻 (もど)って来ました。 西を見たものです。



写真EG: 参道の奥に一の鳥居 (とりい)、桜並木 (なみき)も見えます。 手前は二の鳥居です。
この参道を「弥五郎どん祭り」の行列は先 (西)に進みます。



写真EH: 「ケイトウの花」が咲いていました。



写真EI: 長期間咲いている「朝顔 (あさがお)」の花です。



写真EJ: 「オシロイバナの花」です。



写真EK: 「ケイトウの花」です。



写真EL: 牛舎があります。



写真EM: 子牛が2頭見えます。



写真EN: 「テッポウユリの実」がありました。



写真EO: 「黄色のコスモスの花」が咲いていました。



写真EP: 北西を見たものです。 「弥五郎どんの館 (やかた)」の建物と駐車場が見えます。



写真EQ: 右は「弥五郎どんの館」の入り口、左の桜並木 (なみき)のそばに的野六面地蔵石幢 (まとのろくめんじぞうせきしょう、的野六地蔵塔)も見えます。 奥は的野正八幡宮の一の鳥居 (とりい)です。 西を見たものです。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)