百済王妃 (之伎野(しぎの))の墓、大年神社 (あじさいの花、百済王 禎嘉王(ていかおう)妃 (之伎野(しぎの))も祀(まつ)っている。) (くだら王妃 (之伎野(しぎの))の墓、之伎野(しぎの)妃御墓、之伎野(しぎの)妃の墓と伝えられる五輪の塔、禎嘉王(ていかおう)妃 (之伎野(しぎの))も祀 (まつ)っている大年神社、木城町の比木神社 (ひきじんじゃ)と関係がある大年神社、比木神社の大年下り、「比木大神」の石碑 (せきひ)のまわりの多くの石、ハマユウ、カンナ、ツワブキ、蟹 (かに))  (宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字持田 字鴫野(しぎの))







<標高、位置>  「百済王妃 (くだらおおひ、之伎野(しぎの))の墓」は
標高 数 m
 北緯32度08分18秒  東経131度32分12秒

<標高、位置>  「大年神社」は
標高 約10 m
 北緯32度08分25秒  東経131度32分17秒

<標高、位置>  「百済王妃 (之伎野(しぎの))の墓」に行く道と国道10号の交差点は
標高 数 m
 北緯32度08分25秒  東経131度31分39秒


 「百済王妃 (くだらおおひ)之伎野(しぎの)の墓」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字持田 字鴫野 (しぎの)にあります。
地名の鴫野 (しぎの)は百済王妃の之伎野(しぎの)に由来 (ゆらい)すると伝えられています。 之伎野(しぎの)妃の墓は「宮ヶ谷の五輪の塔」とも呼 (よ)ばれます。
「之伎野(しぎの)妃の墓の由来 (ゆらい)」の説明板から、
 およそ1340年前 (西暦660年頃)朝鮮で戦いがあり、百済 (くだら)の国は新羅 (しらぎ)の国に侵攻され、百済国の禎嘉王(ていかおう)の一行は日本の大和王朝に救いを求めて、船2隻に分乗して日本へと脱出した。 ところが途中 (とちゅう)で嵐に襲われて流され、禎嘉王(ていかおう)が乗った船は日向の金ヶ浜に、息子の福智王や母妃の船は高鍋の蚊口浦の海岸に漂着した。
 福智王は母妃をその海岸に残したまま新羅 (しらぎ)の追討軍の目をそらす為に、木城の比木へと向かった。 禎嘉王(ていかおう)は(美郷町の)南郷に、福智王は木城に、之伎野(しぎの)妃は高鍋に居を構 (かま)えたが、一族の安らかな日々は長くは続かなかった。
 南郷村 神門 (みかど)の禎嘉王(ていかおう)のもとに新羅の追討軍が押し寄せてきた。 追討軍は撃退したものの禎嘉王(ていかおう)は討 (う)ち死にし、福智王や弟の華智王も手傷を負 (お)い共に命果 (は)てた。 そこで之伎野(しぎの)妃はもはやこれまでと命を絶ち女官らも付き人たちも殉死 (じゅんし)して果 (は)てた。
 この悲惨 (ひさん)な出来事に大きな衝撃 (しょうげき)を受けた高鍋の農民たちは、この王族の悲劇を嘆 (なげ)き悲しみ、慰霊に心を砕 (くだ)き、この王族を神として長年にわたって崇拝してきたのである。
 この之伎野(しぎの)妃の墓と伝えられる五輪の塔の墓は周 (まわ)りに十数基ほどの墓に守られるように建っており、この周 (まわ)りの墓は殉死 (じゅんし)した女官らのものと思われる。
 「鴫野 (しぎの)」という地区名はこの之伎野(しぎの)妃の呼 (よ)び名から生 (う)まれたものと言われている。

 「大年神社」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字持田 3762-1 にあります。
木城町の比木神社 (ひきじんじゃ)と高鍋町の大年神社は深い関係があります。
「大年神社 由緒 (ゆいしょ)」の説明板から、
祭神 稲田姫命
合祀 (ごうし) 大年神 美年神 若年神 禎嘉王(ていかおう)妃 (之伎野(しぎの))
摂社 (せっしゃ) 稲荷神社 愛宕神社 荒神社 朝倉神社
例祭 1月6日 (御鈴口開) 7月31日 11月4日
由緒 (ゆいしょ) 創建は第46代 孝謙天皇 (奈良時代後期の女帝で在位は749年〜758年。)御宇以前 比木神社を同時に創立、比木神社縁起は仁寿2年とあり、歴代 秋月藩主の崇敬あつくしばしば代参 (他人に代わって神仏へ参詣 (さんけい)すること。)あつく且 (か)つ社領地3反歩、社有田畑、祭典料等もあたえ、元禄10年 宮永次郎右衛門が神主に任命されている。
 本社祭神 稲田姫命は比木神社 御祭神の御妹神であり、又合祀 (ごうし)の禎嘉王(ていかおう)妃は東臼杵郡 (美郷町 南郷の)神門 (みかど)神社 祭神 禎嘉王(ていかおう)の王妃であり、比木神社 祭神 福知王 (百済王)の母君でもある。 (比木神社縁起)。
 社有地 12753 平方メートル。 昔は現在地より高い所に鎮座し日向灘を通る船を見守られていたと古老の言い伝えがある。 旧社殿は東向きであったが、昭和20年の台風で倒壊したので、昭和62年 氏子 (うじこ)は南向きに新社殿を再建し、東からであった参道を南からに開設した。
 毎年11月4日の比木神社の大年下りは比木神社の祭神が母神に会いに来られる祭事と言い伝えられている。

 「大年下り」は比木神社の福知王 (比木さん)がいろいろな所を巡 (めぐ)って、母の之伎野(しぎの)妃を祀 (まつ)る大年神社を年1回訪問 (ほうもん)する行事です。 母神と子神の対面の祭りです。

 「大年神社の石塚」 比木神社の大年下りのときに、祭りの行列は鴫野 (しぎの)浜に行き、2つの浜石を拾 (ひろ)って左肩にかついで大年神社の石塚に投げ置く習わしがあります。 この石塚には「比木大神」と書いてある石碑 (せきひ)、小さめの鳥居 (とりい)、4角 (すみ)の竹と縄 (なわ)もあります。 これはかって福知王子が母のところに行ったときに持って行った餅 (もち)を石に置き換えたものです。 比木神社のご神体「御袋神」も祭りの一行には入っています。

 「比木神社(ひきじんじゃ)」は宮崎県 児湯郡 木城町 椎木 1306-イ にあります。
 「比木神社社記」から、
 比木神社は今から1800年前「第13代成務天皇の御代 武内宿禰(たけしうちのすくね)に命じ国、県(あがた)、邑(むら)、里(さと)を定められた時、社領として100町歩を賜(たまわ)り五社大明神を崇(あが)め奉祀(まつ)ったのが始まりと伝えられ極めて古い創建の神社であります。
 以来、児湯地域の信仰の中心として住民の篤(あつ)い崇敬を集め、幾星霜(いくせいそう)、特に江戸時代には、高鍋藩 秋月歴代藩主深く崇(あが)められ度々(たびたび)参拝し、社殿改築、鳥居の建立、龍神絵など多く寄進奉納されています。
 御祭神は大己貴命(おおなむちのみこと、大国様)、お妃 三穂津姫命、事代主命(恵比寿様)、スサノヲノミコト、お妃 櫛稲田姫命、
福智王(ふくちおう、百済(くだら)王であったが、国亡び、安芸の厳島に逃れ、その後日向の国 高鍋町 蚊口 古港に上陸し、占いにより比木に住み徳行ありて合祀される。)
右記6柱の神々様がお祀りされており家内安全、諸業繁盛、開運招福、災難厄除、縁結び、安産、病気平癒、火除け、交通安全などに霊験あらたかで年間を通じ県内外より多くの参拝があります。
お祭りは一年に9回斎行されます。
夏祭 7月30日、お里まわり御神幸祭 10月28日〜29日、大年下り御神幸祭 11月4日、裸祭 11月14日、七五三詣 11月15日、神事(夜神楽祭) 12月5日、元旦祭 1月1日、神門御神幸祭 (旧暦)12月18日〜20日に近い金、土、日、御鈴の口開け祭(初神楽祭)(旧暦)1月5日
四季払ふ 神風そよぐ比木の森 (作者不詳)
宮崎県 児湯郡 木城町 比木 鎮座
(旧郷社)比木神社
 「師走祭り」は木城町の<比木神社 (ひきじんじゃ)>から片道約 90 km の行程で美郷町の南郷区にある<神門神社>まで行列行進します。 復路もあります。 第1王子の福智王の御神体が以前は全行程徒歩・荷馬車で9泊10日かかりましたが、昭和23年から自動車も用いて2泊3日(旧暦12月18日から同20日に当たる日程)になりました。
「神門神社 (みかどじんじゃ)」は宮崎県 東臼杵郡 美郷町 南郷区 大字神門 字小路前田 96-2 にあります。 神門神社と地名(大字名)の神門 (みかど)は百済王の伝説の帝 (みかど)を連想させます。
 神門神社は旧郷社で奈良時代 718年(養老2年)の創建です。 神門神社の祭神は大山祇神、百済(くだら)の禎嘉王(ていかおう)、伯智王(百済王の第3王子)、倉稲魂命、品陀和気命(応神天皇)などです。 神門神社の本殿は国指定重要文化財に平成12年12月4日指定されました。 神門神社には百済王 禎嘉王(ていかおう)の亡命伝説があり、それに関連する師走祭りは国の無形民族文化財になっています。 禎嘉王と第3王子の伯智王は神門神社、第1王子の福智王は比木神社 (木城町)、禎嘉王の妻で福智王の母 之伎野(しぎの)は大年神社 (高鍋町の鴫野(しぎの))に祀(まつ)られています。 第2王子の華智王は伊佐賀 (いさか)神社 (神門神社から約7 km 東、東郷町 下三ヶ中水流)に祀られています。
 古代に朝鮮半島の南西部にあった「百済(くだら、346年〜660年)」と日本は関係がありました。 日本書紀には領土を奪われた百済に任那(みまな)の1部を譲(ゆず)り渡したり、援軍を送ったことが書かれています。 百済から倭(わ)朝廷に貢(みつ)いだり、王族を人質として差し出したことも載っているそうです。 西暦660年、百済が滅亡したとき、百済王と王族、貴族など数1000人の百済人が倭国 (わこく、日本のことです。)に亡命し、多くの人が朝廷に仕(つか)えました。
神門神社の創建は西暦718年で、百済の滅亡は660年です。 神門神社の創建は百済の滅亡後58 年たったときです。 朝鮮半島の白村江河口での白村江の戦い (倭国・百済遺民の連合 軍と、唐・新羅連合軍との戦争です。 倭国・百済遺民が大敗しました。 百済王の一族、豊璋王の弟・善光(禅広とも書きます。)は、倭国に亡命し、朝廷から百済王という姓氏が与えられて、朝廷に仕えました。 豊璋王は高句麗に亡命していましたが、捕らえられて幽閉されました。)は663年です。 神門神社の創建は白村江の戦いの55年後です。 朝廷内の内乱である「壬申の乱 (じんしんのらん)」は672年です。 神門神社の創建は壬申の乱から46年後です。


写真A: 国道10号です。 南を見たものです。 奥に「HOTEL AZ」が見えます。 右に「DENSO」と書いてある看板 (かんばん)があります。 左に「マクドナルド 2 .2 km」 と書いてある看板が見えます。



写真B: 国道10号です。



写真C: 西を見たものです。



写真D: 北西を見たものです。



写真E: 北を見たものです。 この交通信号機がある十字路を右 (東)に曲がって百済王妃 (くだらおおひ)の墓や大年神社に行きます。 右手前に中古車屋さんがあります。



写真F: 中古車屋さんがある十字路を右 (東)に曲がって進みます。



写真G: 東を見たものです。 奥に百済王妃 (くだらおおひ)の墓や大年神社があります。 右手前は中古車屋です。



写真H: 途中 (とちゅう)に「高鍋町消防団 第11部機庫」があります。



写真I: 三叉路 (さんさろ)が見えます。 この右の道を進みます。



写真J: 東南東を見たものです。 先に進みます。



写真K: 十字路が見えます。 この十字路を左に曲がって進みます。 東南東を見たものです。 右に農業用ビニールハウスがあります。



写真L: 中央に建物 (車庫)が見えます。 その少し右 (東)に「之伎野(しぎの)妃御墓」があります。 これは百済王妃 (くだらおおひ)の墓です。



写真M: 北を見たものです。 水田が広がっています。



写真N: 北西を見たものです。 左奥から来ました。



写真O: 来た道を振 (ふ)り返ったものです。 西北西を見たものです。



写真P: 西北西の遠くの山の上に「高鍋大師」の大きな石造物 (石仏)がいくつか見えています。



写真Q: 西を見たものです。



写真R: 農業用ビニールハウスです。



写真S: 南東を見たものです。



写真T: 東南東を見たものです。 この十字路を左 (北)に進みます。



写真U: 先 (北)に進むとT字路があります。 そのT字路を右 (南東)に曲がって進みます。



写真V: 南東を見たものです。 先ほど見えた建物 (車庫)に近づきました。 その建物の少し先に「之伎野(しぎの)妃御墓」があります。 さらに先に進むと日豊本線の踏切 (ふみきり)があります。 その手前に「大年神社」の鳥居 (とりい)があります。 大年神社は之伎野(しぎの)王妃も祀 (まつ)っています。



写真W: 東を見たものです。 右端は車庫です。 水田や民家、山などがあります。



写真X: 北東を見たものです。



写真Y: 北西を見たものです。 竹林もあります。



写真Z: 西を見たものです。 水田があります。



写真AA: 南西を見たものです。 水田と農業用ビニールハウスが見えます。 竹林もあります。



写真AB: 南を見たものです。 民家、農業用ビニールハウス、田んぼがあります。



写真AC: 南東を見たものです。 車庫があります。 その奥の山の麓 (ふもと)に「百済王妃 (くだらおおひ)の墓」があります。



写真AD: 車道の左の黄緑色の木が見える所が「之伎野(しぎの)妃御墓 (百済王妃の墓)」です。 南東を見たものです。



写真AE: 百済王妃の墓の敷地内にはいくつかの墓があります。 中央左に墓石が小さく見えます。 奥は杉林、左は竹林になっています。 東を見たものです。



写真AF: 右に墓石が小さく見えます。 山の手前は田んぼになっています。



写真AG: 左端は車庫です。 山には杉の木、竹などがあります。 北を見たものです。



写真AH: 車庫と水田、山が見えます。



写真AI: 来た道を振 (ふ)り返ったものです。 中央奥に団地が見えます。



写真AJ: 南西を見たものです。



写真AK: 南を見たものです。 民家、水田、木があります。



写真AL: 南東を見たものです。 左には百済王妃の墓があります。



写真AM: 左は之伎野(しぎの)妃御墓の説明板です。 ここは三叉路 (さんさろ)になっています。 奥に進むと日豊本線の踏切 (ふみきり)があります。 その手前に大年神社の鳥居 (とりい)があります。 ここは日向灘の波の音が聞こえます。 海岸から近い所です。



写真AN: 之伎野(しぎの)妃御墓の敷地です。 手前に石垣 (いしがき)があります。 説明板もあります。 左は田んぼになっています。



写真AO: 右は百済王妃 (くだらおおひ)の墓の敷地です。



写真AP: 説明板があります。



写真AQ: 「之伎野(しぎの)妃の墓の由来 (ゆらい)」の説明板があります。
 およそ1340年前 (西暦660年頃)朝鮮で戦いがあり、百済 (くだら)の国は新羅 (しらぎ)の国に侵攻され、百済国の禎嘉王(ていかおう)の一行は日本の大和王朝に救いを求めて、船2隻に分乗して日本へと脱出した。 ところが途中 (とちゅう)で嵐に襲われて流され、禎嘉王(ていかおう)が乗った船は日向の金ヶ浜に、息子の福智王や母妃の船は高鍋の蚊口浦の海岸に漂着した。
 福智王は母妃をその海岸に残したまま新羅 (しらぎ)の追討軍の目をそらす為に、木城の比木へと向かった。 禎嘉王(ていかおう)は(美郷町の)南郷に、福智王は木城に、之伎野(しぎの)妃は高鍋に居を構 (かま)えたが、一族の安らかな日々は長くは続かなかった。
 南郷村 神門 (みかど)の禎嘉王(ていかおう)のもとに新羅の追討軍が押し寄せてきた。 追討軍は撃退したものの禎嘉王(ていかおう)は討 (う)ち死にし、福智王や弟の華智王も手傷を負 (お)い共に命果 (は)てた。 そこで之伎野(しぎの)妃はもはやこれまでと命を絶ち女官らも付き人たちも殉死 (じゅんし)して果 (は)てた。
 この悲惨 (ひさん)な出来事に大きな衝撃 (しょうげき)を受けた高鍋の農民たちは、この王族の悲劇を嘆 (なげ)き悲しみ、慰霊に心を砕 (くだ)き、この王族を神として長年にわたって崇拝してきたのである。
 この之伎野(しぎの)妃の墓と伝えられる五輪の塔の墓は周 (まわ)りに十数基ほどの墓に守られるように建っており、この周 (まわ)りの墓は殉死 (じゅんし)した女官らのものと思われる。
 「鴫野 (しぎの)」という地区名はこの之伎野(しぎの)妃の呼 (よ)び名から生 (う)まれたものと言われている。
 <之伎野(しぎの)妃を守りて植えし桜花 行く末咲きて王妃なぐさむ>
平成21年7月吉日
持田地域まちづくり協議会
と書かれています。



写真AR: 「之伎野(しぎの)妃の墓の由来 (ゆらい)」の説明板。
 およそ1340年前 (西暦660年頃)朝鮮で戦いがあり、百済 (くだら)の国は新羅 (しらぎ)の国に侵攻され、百済国の禎嘉王(ていかおう)の一行は日本の大和王朝に救いを求めて、船2隻に分乗して日本へと脱出した。 ところが途中 (とちゅう)で嵐に襲われて流され、禎嘉王(ていかおう)が乗った船は日向の金ヶ浜に、息子の福智王や母妃の船は高鍋の蚊口浦の海岸に漂着した。
 福智王は母妃をその海岸に残したまま新羅 (しらぎ)の追討軍の目をそらす為に、木城の比木へと向かった。 禎嘉王(ていかおう)は(美郷町の)南郷に、福智王は木城に、之伎野(しぎの)妃は高鍋に居を構 (かま)えたが、一族の安らかな日々は長くは続かなかった。
 南郷村 神門 (みかど)の禎嘉王(ていかおう)のもとに新羅の追討軍が押し寄せてきた。 追討軍は撃退したものの禎嘉王(ていかおう)は討 (う)ち死にし、福智王や弟の華智王も手傷を負 (お)い共に命果 (は)てた。 そこで之伎野(しぎの)妃はもはやこれまでと命を絶ち女官らも付き人たちも殉死 (じゅんし)して果 (は)てた。
 この悲惨 (ひさん)な出来事に大きな衝撃 (しょうげき)を受けた高鍋の農民たちは、この王族の悲劇を嘆 (なげ)き悲しみ、慰霊に心を砕 (くだ)き、この王族を神として長年にわたって崇拝してきたのである。
 この之伎野(しぎの)妃の墓と伝えられる五輪の塔の墓は周 (まわ)りに十数基ほどの墓に守られるように建っており、この周 (まわ)りの墓は殉死 (じゅんし)した女官らのものと思われる。
 「鴫野 (しぎの)」という地区名はこの之伎野(しぎの)妃の呼 (よ)び名から生 (う)まれたものと言われている。
 <之伎野(しぎの)妃を守りて植えし桜花 行く末咲きて王妃なぐさむ>
平成21年7月吉日
持田地域まちづくり協議会
と書かれています。



写真AS: 「之伎野(しぎの)妃の墓の由来 (ゆらい)」の説明板です。
 およそ1340年前 (西暦660年頃)朝鮮で戦いがあり、百済 (くだら)の国は新羅 (しらぎ)の国に侵攻され、百済国の禎嘉王(ていかおう)の一行は日本の大和王朝に救いを求めて、船2隻に分乗して日本へと脱出した。 ところが途中 (とちゅう)で嵐に襲われて流され、禎嘉王(ていかおう)が乗った船は日向の金ヶ浜に、息子の福智王や母妃の船は高鍋の蚊口浦の海岸に漂着した。
 福智王は母妃をその海岸に残したまま新羅 (しらぎ)の追討軍の目をそらす為に、木城の比木へと向かった。 禎嘉王(ていかおう)は(美郷町の)南郷に、福智王は木城に、之伎野(しぎの)妃は高鍋に居を構 (かま)えたが、一族の安らかな日々は長くは続かなかった。
 南郷村 神門 (みかど)の禎嘉王(ていかおう)のもとに新羅の追討軍が押し寄せてきた。 追討軍は撃退したものの禎嘉王(ていかおう)は討 (う)ち死にし、福智王や弟の華智王も手傷を負 (お)い共に命果 (は)てた。 そこで之伎野(しぎの)妃はもはやこれまでと命を絶ち女官らも付き人たちも殉死 (じゅんし)して果 (は)てた。
 この悲惨 (ひさん)な出来事に大きな衝撃 (しょうげき)を受けた高鍋の農民たちは、この王族の悲劇を嘆 (なげ)き悲しみ、慰霊に心を砕 (くだ)き、この王族を神として長年にわたって崇拝してきたのである。
 この之伎野(しぎの)妃の墓と伝えられる五輪の塔の墓は周 (まわ)りに十数基ほどの墓に守られるように建っており、この周 (まわ)りの墓は殉死 (じゅんし)した女官らのものと思われる。
 「鴫野 (しぎの)」という地区名はこの之伎野(しぎの)妃の呼 (よ)び名から生 (う)まれたものと言われている。
 <之伎野(しぎの)妃を守りて植えし桜花 行く末咲きて王妃なぐさむ>
平成21年7月吉日
持田地域まちづくり協議会
と書かれています。



写真AT: 「之伎野(しぎの)妃の墓の由来 (ゆらい)」の説明板。
 およそ1340年前 (西暦660年頃)朝鮮で戦いがあり、百済 (くだら)の国は新羅 (しらぎ)の国に侵攻され、百済国の禎嘉王(ていかおう)の一行は日本の大和王朝に救いを求めて、船2隻に分乗して日本へと脱出した。 ところが途中 (とちゅう)で嵐に襲われて流され、禎嘉王(ていかおう)が乗った船は日向の金ヶ浜に、息子の福智王や母妃の船は高鍋の蚊口浦の海岸に漂着した。
 福智王は母妃をその海岸に残したまま新羅 (しらぎ)の追討軍の目をそらす為に、木城の比木へと向かった。 禎嘉王(ていかおう)は(美郷町の)南郷に、福智王は木城に、之伎野(しぎの)妃は高鍋に居を構 (かま)えたが、一族の安らかな日々は長くは続かなかった。
 南郷村 神門 (みかど)の禎嘉王(ていかおう)のもとに新羅の追討軍が押し寄せてきた。 追討軍は撃退したものの禎嘉王(ていかおう)は討 (う)ち死にし、福智王や弟の華智王も手傷を負 (お)い共に命果 (は)てた。 そこで之伎野(しぎの)妃はもはやこれまでと命を絶ち女官らも付き人たちも殉死 (じゅんし)して果 (は)てた。
 この悲惨 (ひさん)な出来事に大きな衝撃 (しょうげき)を受けた高鍋の農民たちは、この王族の悲劇を嘆 (なげ)き悲しみ、慰霊に心を砕 (くだ)き、この王族を神として長年にわたって崇拝してきたのである。
 この之伎野(しぎの)妃の墓と伝えられる五輪の塔の墓は周 (まわ)りに十数基ほどの墓に守られるように建っており、この周 (まわ)りの墓は殉死 (じゅんし)した女官らのものと思われる。
 「鴫野 (しぎの)」という地区名はこの之伎野(しぎの)妃の呼 (よ)び名から生 (う)まれたものと言われている。
 <之伎野(しぎの)妃を守りて植えし桜花 行く末咲きて王妃なぐさむ>
平成21年7月吉日
持田地域まちづくり協議会
と書かれています。



写真AU: 左から説明板、しめ縄と御幣 (ごへい)がある門、道路脇 (わき)の農業関係の石碑 (せきひ)が見えます。



写真AV: 之伎野(しぎの)妃の墓の敷地です。 裏は山になっています。



写真AW: 敷地の左 (西)は水田になっています。



写真AX: 裏山に杉の木、孟宗竹 (もうそうだけ)も見えます。



写真AY: 「開田紀念碑 (ひ)」と書いてある石碑 (せきひ)があります。 明治41年旧1月に建立 (こんりゅう、建てることです。)されました。



写真AZ: 「開田紀念碑 (ひ)、明治41年旧1月」と書いてあります。



写真BA: 「開田紀念碑 (ひ)」と書いてある石碑 (せきひ)です。 道路脇 (わき)にあります。



写真BB: 屋根付きの門があります。 しめ縄、御幣 (ごへい)があります。 門の奥に百済王妃 (くだらおおひ)の「之伎野(しぎの)妃の墓」が見えています。



写真BC: 門の下部です。 右にツワブキの葉が見えます。



写真BD: 敷地内にはいろいろな墓もあります。 左にも別の墓が見えます。 左手前の木は桜の木のようです。



写真BE: 手前に門の柱が見えます。



写真BF: 「之伎野(しぎの)妃の墓」も見えています。 中央左の大きい墓が之伎野(しぎの)妃の墓です。



写真BG: 之伎野(しぎの)妃の墓の敷地です。 右に之伎野(しぎの)妃の墓が見えます。



写真BH: 桜の木がいくつかあります。



写真BI: 北西を見たものです。



写真BJ: 南西を見たものです。 手前は三叉路 (さんさろ)になっています。 左端に民家が見えます。



写真BK: 「之伎野(しぎの)妃の墓」と書いてあります。 石作りの五輪の塔です。 花などの供 (そな)え物も見えます。 両側に小さめの墓があります。 右奥に円筒形の墓が並 (なら)んでいます。



写真BL: 之伎野(しぎの)妃の墓の左にも小型の墓が多く並 (なら)んでいます。



写真BM: 左に大きめの墓が見えます。 中央に角柱型の墓があります。



写真BN: 大きめの墓もあります。 奥は竹林になっています。



写真BO: 右にいくつかの石があります。 奥は竹林です。



写真BP: 之伎野(しぎの)妃の墓の敷地と竹林です。



写真BQ: 之伎野(しぎの)妃の墓の敷地です。



写真BR: 先ほどの説明板が見えます。 左は杉の木です。



写真BS: 門、説明板、杉の木などが見えます。 之伎野(しぎの)妃の墓の敷地です。



写真BT: 左は之伎野(しぎの)妃の墓です。 右奥に並 (なら)んでいる円筒形の墓はお寺の和尚 (おしょう)さんの墓と思われます。



写真BU: 「之伎野(しぎの)妃の墓」です。 ロウソク立て、線香立て、お酒の徳利 (とっくり)、杯 (さかづき)、花筒 (はなづつ)などもあります。 石も多くあります。 南東を見たものです。



写真BV: 之伎野(しぎの)妃の墓の右に2つの小さめの墓があります。



写真BW: 之伎野(しぎの)妃の墓の左に小さめの墓が並 (なら)んでいます。 墓の手前に石を並べてあります。



写真BX: 之伎野(しぎの)妃の墓の左の小さめの墓です。 多くの墓が並 (なら)んでいます。 墓の手前に石を並べてあります。



写真BY: 之伎野(しぎの)妃の墓の左手の墓です。



写真BZ: ここで墓の並 (なら)びが90度曲がっています。 左に大きめの墓があります。



写真CA: 3つの大きめの墓があります。 それの左にも石があります。



写真CB: 大きめの墓の左に石がいくつかあります。



写真CC: 角柱型の墓です。 「濱砂 (はますな)操大人 之墓」と彫 (ほ)ってあります。



写真CD: 之伎野(しぎの)妃の墓の側面はこのようになっています。



写真CE: 之伎野(しぎの)妃の墓の下部を横から見たものです。 「之伎野(しぎの)妃の墓」と書いてある看板 (かんばん)はコンクリートブロックの穴に立ててあります。



写真CF: 「之伎野(しぎの)妃の墓」の右側面の様子 (ようす)が分かります。 保存状態はかなり良いようです。



写真CG: 之伎野(しぎの)妃の墓の右側面の下部です。 供え物 (そなえもの)の様子 (ようす)がよく分かります。



写真CH: 之伎野(しぎの)妃の墓の裏面の様子 (ようす)が分かります。



写真CI: 4つの円筒形の墓石があります。 円筒形の墓は一般的にお寺の和尚 (おしょう)さんの墓です。 昔、近くにお寺があったものと思われます。



写真CJ: 4つの円筒形の墓のそばにも石があります。



写真CK: 左に之伎野(しぎの)妃の墓が見えます。 手前は円筒形の墓です。 これはお寺の住職さんの墓と思われます。 近くに昔お寺があったのでしょう。



写真CL: 円筒形の墓です。 之伎野(しぎの)妃の墓の敷地内にあります。 和尚 (おしょう)さんの墓と思われます。



写真CM: 円筒形の墓石です。



写真CN: 別の円筒形の墓です。 四角の石の台の上に乗っています。



写真CO: 奥の之伎野(しぎの)妃の墓と手前の円筒形の墓です。 円筒形の墓のまわりにも石がいくつかあります。



写真CP: 桜の木が敷地内にあります。 門が見えています。



写真CQ: 之伎野(しぎの)妃の墓の上部です。



写真CR: 之伎野(しぎの)妃の墓の下部です。



写真CS: 之伎野(しぎの)妃の墓の下部付近です。



写真CT: 之伎野(しぎの)妃の墓のそばです。



写真CU: 之伎野(しぎの)妃の墓のそばの様子 (ようす)が分かります。



写真CV: 門と説明板が見えます。 手前は杉の木です。 右端は桜の木です。



写真CW: 東を見たものです。 日豊本線の踏切 (ふみきり)が見えます。 その手前にアジサイの花が咲いています。 大年神社の鳥居 (とりい)が見えます。 左へ大年神社の参道が続いています。 ここは之伎野(しぎの)妃の墓のすぐ近くです。 ここは十字路になっています。



写真CX: 日豊本線の踏切 (ふみきり)のそばの十字路です。



写真CY: 右に大年神社の一の鳥居 (とりい)が見えます。 その下方にアジサイの花が見えています。 左は貯水槽 (ちょすいそう)です。



写真CZ: 近くの様子 (ようす)です。 貯水槽 (ちょすいそう)があります。



写真DA: 来た道を振 (ふ)り返ったものです。 中央に車庫が見えます。 その右手前に之伎野(しぎの)妃の墓があります。



写真DB: 大年神社の鳥居 (とりい)のそばの踏切 (ふみきり)です。  東を見たものです。



写真DC: 大年神社の一の鳥居 (とりい)です。 しめ縄をしてあります。 左に紫陽花 (あじさい)の花が見えます。 右の「大年神社」と書いてある石碑 (せきひ)、日豊本線のレールも見えています。



写真DD: あじさいの花が満開でした。



写真DE: 満開のあじさいの花と貯水槽 (ちょすいそう)です。



写真DF: 奥にある之伎野(しぎの)妃の墓から歩いて来ました。



写真DG: 十字路の近くです。



写真DH: 南への道が見えます。



写真DI: 左は踏切 (ふみきり)です。



写真DJ: 大年神社の鳥居 (とりい)のそばの日豊本線踏切 (ふみきり)です。 東を見たものです。 このあたりは日向灘の波の音が聞こえていました。 奥に進むと近くに海岸があると思われます。



写真DK: 「大年神社」と彫 (ほ)ってある石碑 (せきひ)が鳥居 (とりい)の近くにあります。



写真DL: 北を見たものです。 大年神社の参道です。 右に日豊本線のレール、左にはアジサイの花が咲いています。 右にカンナを植えてあります。



写真DM: 大年神社の鳥居 (とりい)のそばの紫陽花 (アジサイ)園です。



写真DN: 「ガクアジサイの花」もあります。



写真DO:  いろいろなアジサイの花が咲いています。



写真DP:  崖 (がけ)の土に蟹 (かに)の穴が多く見えます。 カニをいくつか見ました。 手前はアジサイです。



写真DQ: 左は山、日豊本線のレールです。 参道が北へと続いています。



写真DR: 参道の右 (東)にハマユウを植えてあります。 左に溝 (みぞ)があります。 右奥に田んぼが見えます。



写真DS: 北を見たものです。 左にトイレがあります。 奥の鎮守の森 (ちんじゅのもり)に大年神社があります。



写真DT: 日豊本線に沿 (そ)って参道があります。 北を見たものです。



写真DU: 大年神社のトイレです。 竹林も見えます。 北西を見たものです。



写真DV: 奥に小さく大年神社のニの鳥居 (とりい)が見えます。 説明板があります。 



写真DW: 大年神社の鎮守の森 (ちんじゅのもり)の木です。 北西を見たものです。



写真DX: 西を見たものです。 トイレです。



写真DY: 南西を見たものです。 竹もあります。



写真DZ: 来た参道を振 (ふ) り返ったものです。 日豊本線のすぐ西を参道は通っています。 南を見たものです。



写真EA: 南東を見たものです。 水田があります。 このあたりは波の音がよく聞こえていました。 海岸の近くです。



写真EB: 東を見たものです。 奥から林、水田、日豊本線のレール、ハマユウが見えます。



写真EC: 水田と森が広がっています。



写真ED: 大年神社の説明板が見えます。 北を見たものです。



写真EE: 「大年神社 由緒 (ゆいしょ)」の説明板があります。 東を見たものです。



写真EF: 「大年神社 由緒 (ゆいしょ)」の説明板があります。
祭神 稲田姫命
合祀 (ごうし) 大年神 美年神 若年神 禎嘉王(ていかおう)妃 (之伎野(しぎの))
摂社 (せっしゃ) 稲荷神社 愛宕神社 荒神社 朝倉神社
例祭 1月6日 (御鈴口開) 7月31日 11月4日
由緒 (ゆいしょ) 創建は第46代 孝謙天皇 (奈良時代後期の女帝で在位は749年〜758年。)御宇以前 比木神社を同時に創立、比木神社縁起は仁寿2年とあり、歴代 秋月藩主の崇敬あつくしばしば代参 (他人に代わって神仏へ参詣 (さんけい)すること。)あつく且 (か)つ社領地3反歩、社有田畑、祭典料等もあたえ、元禄10年 宮永次郎右衛門が神主に任命されている。
 本社祭神 稲田姫命は比木神社 御祭神の御妹神であり、又合祀 (ごうし)の禎嘉王(ていかおう)妃は東臼杵郡 (美郷町 南郷の)神門 (みかど)神社 祭神 禎嘉王(ていかおう)の王妃であり、比木神社 祭神 福知王 (百済王)の母君でもある。 (比木神社縁起)。
 社有地 12753 平方メートル。 昔は現在地より高い所に鎮座し日向灘を通る船を見守られていたと古老の言い伝えがある。 旧社殿は東向きであったが、昭和20年の台風で倒壊したので、昭和62年 氏子 (うじこ)は南向きに新社殿を再建し、東からであった参道を南からに開設した。
 毎年11月4日の比木神社の大年下りは比木神社の祭神が母神に会いに来られる祭事と言い伝えられている。
と書かれています。



写真EG: 「大年神社 由緒 (ゆいしょ)」の説明板です。
祭神 稲田姫命
合祀 (ごうし) 大年神 美年神 若年神 禎嘉王(ていかおう)妃 (之伎野(しぎの))
摂社 (せっしゃ) 稲荷神社 愛宕神社 荒神社 朝倉神社
例祭 1月6日 (御鈴口開) 7月31日 11月4日
由緒 (ゆいしょ) 創建は第46代 孝謙天皇 (奈良時代後期の女帝で在位は749年〜758年。)御宇以前 比木神社を同時に創立、比木神社縁起は仁寿2年とあり、歴代 秋月藩主の崇敬あつくしばしば代参 (他人に代わって神仏へ参詣 (さんけい)すること。)あつく且 (か)つ社領地3反歩、社有田畑、祭典料等もあたえ、元禄10年 宮永次郎右衛門が神主に任命されている。
 本社祭神 稲田姫命は比木神社 御祭神の御妹神であり、又合祀 (ごうし)の禎嘉王(ていかおう)妃は東臼杵郡 (美郷町 南郷の)神門 (みかど)神社 祭神 禎嘉王(ていかおう)の王妃であり、比木神社 祭神 福知王 (百済王)の母君でもある。 (比木神社縁起)。
 社有地 12753 平方メートル。 昔は現在地より高い所に鎮座し日向灘を通る船を見守られていたと古老の言い伝えがある。 旧社殿は東向きであったが、昭和20年の台風で倒壊したので、昭和62年 氏子 (うじこ)は南向きに新社殿を再建し、東からであった参道を南からに開設した。
 毎年11月4日の比木神社の大年下りは比木神社の祭神が母神に会いに来られる祭事と言い伝えられている。
と書かれています。



写真EH: 「大年神社 由緒 (ゆいしょ)」の説明板があります。
祭神 稲田姫命
合祀 (ごうし) 大年神 美年神 若年神 禎嘉王(ていかおう)妃 (之伎野(しぎの))
摂社 (せっしゃ) 稲荷神社 愛宕神社 荒神社 朝倉神社
例祭 1月6日 (御鈴口開) 7月31日 11月4日
由緒 (ゆいしょ) 創建は第46代 孝謙天皇 (奈良時代後期の女帝で在位は749年〜758年。)御宇以前 比木神社を同時に創立、比木神社縁起は仁寿2年とあり、歴代 秋月藩主の崇敬あつくしばしば代参 (他人に代わって神仏へ参詣 (さんけい)すること。)あつく且 (か)つ社領地3反歩、社有田畑、祭典料等もあたえ、元禄10年 宮永次郎右衛門が神主に任命されている。
 本社祭神 稲田姫命は比木神社 御祭神の御妹神であり、又合祀 (ごうし)の禎嘉王(ていかおう)妃は東臼杵郡 (美郷町 南郷の)神門 (みかど)神社 祭神 禎嘉王(ていかおう)の王妃であり、比木神社 祭神 福知王 (百済王)の母君でもある。 (比木神社縁起)。
 社有地 12753 平方メートル。 昔は現在地より高い所に鎮座し日向灘を通る船を見守られていたと古老の言い伝えがある。 旧社殿は東向きであったが、昭和20年の台風で倒壊したので、昭和62年 氏子 (うじこ)は南向きに新社殿を再建し、東からであった参道を南からに開設した。
 毎年11月4日の比木神社の大年下りは比木神社の祭神が母神に会いに来られる祭事と言い伝えられている。
と書かれています。



写真EI: 「大年神社 由緒 (ゆいしょ)」の説明板。
祭神 稲田姫命
合祀 (ごうし) 大年神 美年神 若年神 禎嘉王(ていかおう)妃 (之伎野(しぎの))
摂社 (せっしゃ) 稲荷神社 愛宕神社 荒神社 朝倉神社
例祭 1月6日 (御鈴口開) 7月31日 11月4日
由緒 (ゆいしょ) 創建は第46代 孝謙天皇 (奈良時代後期の女帝で在位は749年〜758年。)御宇以前 比木神社を同時に創立、比木神社縁起は仁寿2年とあり、歴代 秋月藩主の崇敬あつくしばしば代参 (他人に代わって神仏へ参詣 (さんけい)すること。)あつく且 (か)つ社領地3反歩、社有田畑、祭典料等もあたえ、元禄10年 宮永次郎右衛門が神主に任命されている。
 本社祭神 稲田姫命は比木神社 御祭神の御妹神であり、又合祀 (ごうし)の禎嘉王(ていかおう)妃は東臼杵郡 (美郷町 南郷の)神門 (みかど)神社 祭神 禎嘉王(ていかおう)の王妃であり、比木神社 祭神 福知王 (百済王)の母君でもある。 (比木神社縁起)。
 社有地 12753 平方メートル。 昔は現在地より高い所に鎮座し日向灘を通る船を見守られていたと古老の言い伝えがある。 旧社殿は東向きであったが、昭和20年の台風で倒壊したので、昭和62年 氏子 (うじこ)は南向きに新社殿を再建し、東からであった参道を南からに開設した。
 毎年11月4日の比木神社の大年下りは比木神社の祭神が母神に会いに来られる祭事と言い伝えられている。
と書かれています。



写真EJ: 「大年神社 由緒 (ゆいしょ)」の説明板があります。
祭神 稲田姫命
合祀 (ごうし) 大年神 美年神 若年神 禎嘉王(ていかおう)妃 (之伎野(しぎの))
摂社 (せっしゃ) 稲荷神社 愛宕神社 荒神社 朝倉神社
例祭 1月6日 (御鈴口開) 7月31日 11月4日
由緒 (ゆいしょ) 創建は第46代 孝謙天皇 (奈良時代後期の女帝で在位は749年〜758年。)御宇以前 比木神社を同時に創立、比木神社縁起は仁寿2年とあり、歴代 秋月藩主の崇敬あつくしばしば代参 (他人に代わって神仏へ参詣 (さんけい)すること。)あつく且 (か)つ社領地3反歩、社有田畑、祭典料等もあたえ、元禄10年 宮永次郎右衛門が神主に任命されている。
 本社祭神 稲田姫命は比木神社 御祭神の御妹神であり、又合祀 (ごうし)の禎嘉王(ていかおう)妃は東臼杵郡 (美郷町 南郷の)神門 (みかど)神社 祭神 禎嘉王(ていかおう)の王妃であり、比木神社 祭神 福知王 (百済王)の母君でもある。 (比木神社縁起)。
 社有地 12753 平方メートル。 昔は現在地より高い所に鎮座し日向灘を通る船を見守られていたと古老の言い伝えがある。 旧社殿は東向きであったが、昭和20年の台風で倒壊したので、昭和62年 氏子 (うじこ)は南向きに新社殿を再建し、東からであった参道を南からに開設した。
 毎年11月4日の比木神社の大年下りは比木神社の祭神が母神に会いに来られる祭事と言い伝えられている。
と書かれています。



写真EK: 「贈 大年神社参道舗装 (ほそう)、平成元年8月」と書いてある石碑 (せきひ)があります。



写真EL: 「贈 大年神社参道舗装 (ほそう)、平成元年8月」と書いてある石碑 (せきひ)。



写真EM: 左に「比木大神」を祀 (まつ)っている鳥居 (とりい)と石碑 (せきひ)、奥にニの鳥居 (とりい)が見えます。 大年神社です。



写真EN: 「比木大神」と書いてある石碑 (せきひ)のまわりに中型の石を多く積 (つ)んであります。 しめ縄のある古い木の鳥居 (とりい)もあります。 竹も角 (かど)に立ててあり、縄 (なわ)を張 (は)ってあります。 これは毎年11月4日の比木神社の大年下りのときに使われるものと思われます。 大年神社の境内 (けいだい)にあります。 比木神社と大年神社は深い関係があります。
「大年下り」は比木神社の福知王 (比木さん)がいろいろな所を巡 (めぐ)って、母の之伎野(しぎの)妃を祀 (まつ)る大年神社を年1回訪問 (ほうもん)する行事です。 母神と子神の対面の祭りです。
 「大年神社の石塚」 比木神社の大年下りのときに、祭りの行列は鴫野 (しぎの)浜に行き、2つの浜石を拾 (ひろ)って左肩にかついで大年神社の石塚に投げ置く習わしがあります。 この石塚には「比木大神」と書いてある石碑 (せきひ)、小さめの鳥居 (とりい)、4角 (すみ)の竹と縄 (なわ)もあります。 これはかって福知王子が母のところに行ったときに持って行った餅 (もち)を石に置き換えたものです。 比木神社のご神体「御袋神」も祭りの一行には入っています。



写真EO: 「比木大神」と書いてある石碑 (せきひ)です。 まわりに中型の石が多くあります。 供 (そな)え物の花筒 (はなづつ)もあります。 奥にハマユウが見えます。



写真EP: 西を見たものです。 ハマユウの花も見えます。



写真EQ: 東に日豊本線のレールがあります。



写真ER: 高鍋町にある大年神社のニの鳥居 (とりい)です。 奥に拝殿、左に手水舎 (ちょうずや)があります。 北を見たものです。



写真ES: 溝 (みぞ)があり、水が流れ蟹 (かに)もいました。 ハマユウも見えます。 奥に日豊本線のレールがあります。 北東を見たものです。



写真ET: 西を見たものです。 ツワブキ、ハマユウが溝 (みぞ)のそばにあります。 ここに蟹 (かに)もいました。



写真EU: 南西を見たものです。



写真EV: 来た参道を振 (ふ)り返ったものです。 左端にレールが見えます。 南を見たものです。



写真EW: 参道の木を見上 (あ)げたものです。



写真EX: 大年神社のニの鳥居 (とりい)です。 しめ縄もあります。



写真EY: ニの鳥居 (とりい)の奥 (北)に拝殿、ベンチとテーブル、左端に手水舎 (ちょうずや)があります。



写真EZ: 大年神社の手水舎 (ちょうずや)です。



写真FA: 手水舎 (ちょうずや)の下部です。



写真FB: 「奉納」と彫 (ほ)ってあります。 水道、柄杓 (ひしゃく)もあります。



写真FC: 手ぬぐいを掛 (か)けてあります。



写真FD: 大年神社の拝殿です。 左にアジサイの花が咲いています。 右にベンチ、テーブルがあります。 北を見たものです。



写真FE: 境内 (けいだい)の斜面にアジサイの花が咲いています。 ハマユウも見えます。 北西を見たものです。



写真FF: 西を見たものです。 右にアジサイ、左に手水舎 (ちょうずや)が見えます。



写真FG: 大年神社の手水舎 (ちょうずや)です。



写真FH: 南を見たものです。 参道、左にレール、ニの鳥居 (とりい)が見えます。



写真FI: 大年神社は日豊本線のすぐ西にあります。



写真FJ: 東を見たものです。 ツワブキもあります。



写真FK: ベンチ、テーブルもあります。 北東を見たものです。



写真FL: 大年神社の境内 (けいだい)です。



写真FM: ニの鳥居 (とりい)のそばにツワブキもあります。 南を見たものです。



写真FN: 大年神社の自然の木を使ったテーブルと椅子 (いす)です。 そばにハマユウ、ツワブキも見えます。 左上は拝殿です。



写真FO: 高鍋町 大字持田にある大年神社の拝殿です。 しめ縄、御幣 (ごへい)、鈴紐 (ひも)も見えます。 北を見たものです。



写真FP: 大年神社の拝殿の中です。 奥に本殿が見えます。



写真FQ: 拝殿の中。



写真FR: 拝殿の中です。



写真FS: 「大年神社」と上に書いてあります。 鈴と鈴紐 (ひも)が見えます。 右端はしめ縄です。



写真FT: 拝殿の前部です。



写真FU: 南を見たものです。 右の斜面にアジサイが咲いています。



写真FV: 大年神社の境内 (けいだい)です。 ニの鳥居 (とりい)、手水舎 (ちょうずや)、ベンチ、レール、左端に拝殿が見えます。 南東を見たものです。



写真FW: 東を見たものです。 拝殿の側面です。 格子 (こうし)があります。 左端は本殿です。



写真FX: 拝殿の下部です。 下半分は黒色に塗 (ぬ)ってあります。



写真FY: 大年神社の本殿です。 屋根に外切りの千木 (ちぎ)と3本の鰹木 (かつおぎ)があります。



写真FZ: 本殿の北の斜面にもアジサイが色とりどりに咲いていました。 奥に竹林もあります。 北を見たものです。



写真GA: 大年神社の斜面にあるアジサイの花です。 満開でした。



写真GB: 大年神社のアジサイです。



写真GC: 下は石垣 (いしがき)になっています。 大年神社のアジサイの花。 南西を見たものです。



写真GD: 左にニの鳥居 (とりい)が見えます。 南を見たものです。



写真GE: 南東を見たものです。 大年神社の拝殿です。



写真GF: 拝殿の下部です。 左端は本殿です。



写真GG: 東を見たものです。 本殿の側面です。 下部は石垣 (いしがき)になっています。



写真GH: 本殿の下部です。



写真GI:  本殿の北側です。 アジサイ、ハマユウ、竹林も見えます。 東を見たものです。



写真GJ: 大年神社の拝殿です。



写真GK: 左は本殿、その右は拝殿です。



写真GL: 境内 (けいだい)にハマユウも植えてあります。 南東を見たものです。



写真GM: 本殿の北側のアジサイです。 北西を見たものです。



写真GN: 西を見たものです。 社殿の西側と北側にアジサイの花が咲いていました。 下方にハマユウもあります。



写真GO: 大年神社の本殿と左の拝殿です。



写真GP: 本殿の下部です。



写真GQ: 本殿近くの地面です。



写真GR: 南を見たものです。 奥は拝殿です。 左にハマユウがあります。



写真GS: 左端にアジサイの花が見えます。 南を見たものです。



写真GT: 境内 (けいだい)のベンチ、テーブル、ニの鳥居 (とりい)が見えます。 南を見たものです。



写真GU: 北東を見たものです。 日豊本線のレールも見えます。



写真GV: 昭和62年頃 (ごろ)以前は、参道は東から続いていました。 見えている道がその古い参道と思われます。 
その後今の南からの参道ができました。 水田、森もあります。 大年神社から東を見たものです。



写真GW: 日豊本線の東に田んぼが広がっています。 南東を見たものです。



写真GX: 手前はハマユウです。 南を見たものです。



写真GY: 拝殿とアジサイの花です。 北西を見たものです。



写真GZ: 斜面にアジサイが満開でした。 右端は拝殿です。 西を見たものです。



写真HA: 手水舎 (ちょうずや)、アジサイの花が見えます。 南西を見たものです。 大年神社。



写真HB: 大年神社の境内 (けいだい)です。



写真HC: 大年神社の鈴が見えます。



写真HD: 鈴紐 (ひも)が見えます。



写真HE: 「奉納」と書いてあります。 鈴紐 (ひも)の下部です。



写真HF: 踏み石 (ふみいし)です。



写真HG: レールの奥に田んぼもあります。 手前はハマユウです。



写真HH: 参道です。 南を見たものです。



写真HI: 「比木大神」と書いてある石碑 (せきひ)と多くの中型の石です。
「大年下り」は比木神社の福知王 (比木さん)がいろいろな所を巡 (めぐ)って、母の之伎野(しぎの)妃を祀 (まつ)る大年神社を年1回訪問 (ほうもん)する行事です。 母神と子神の対面の祭りです。
 「大年神社の石塚」 比木神社の大年下りのときに、祭りの行列は鴫野 (しぎの)浜に行き、2つの浜石を拾 (ひろ)って左肩にかついで大年神社の石塚に投げ置く習わしがあります。 この石塚には「比木大神」と書いてある石碑 (せきひ)、小さめの鳥居 (とりい)、4角 (すみ)の竹と縄 (なわ)もあります。 これはかって福知王子が母のところに行ったときに持って行った餅 (もち)を石に置き換えたものです。 比木神社のご神体「御袋神」も祭りの一行には入っています。



写真HJ: 鳥居 (とりい)と石碑 (せきひ)、積 (つ)んである中型の石です。 西を見たものです。



写真HK: 野草の「ムラサキカタバミの花」が咲いていました。



写真HL: 参道を戻 (もど)ります。 左にハマユウを並 (なら)んで植えてあります。 南を見たものです。



写真HM: 野草の「カラスウリの花」がありました。



写真HN: 日豊本線の列車がちょうど来ました。 左は参道です。 北東を見たものです。



写真HO: 日豊本線の列車が通りました。 南を見たものです。 参道とレールの間にハマユウがあります。



写真HP: 「カンナの花」が咲いていました。 参道のそばです。



写真HQ: 左からレール、参道、溝 (みぞ)があります。 奥に一の鳥居 (とりい)が見えます。 南を見たものです。



写真HR: アジサイの花です。



写真HS: 紫陽花 (あじさい)畑、一の鳥居 (とりい)、参道、レールが見えます。



写真HT: 一の鳥居 (とりい)の近くのアジサイ畑です。



写真HU: 美しいあじさいの花です。



写真HV: 南を見たものです。 踏み切り (ふみきり)が見えます。



写真HW: 「大寺踏切 (おおでらふみきり)と書いてあります。



写真HX: 西を見たものです。 奥に「百済王妃 (くだらおおひ)之伎野(しぎの)の墓」があります。



写真HY: 「百済王妃 (くだらおおひ)之伎野(しぎの)の墓」の敷地の説明板が道の奥に小さく見えます。 西を見たものです。



写真HZ: きれいな「烏瓜 (からすうり)の花」がありました。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)