直純寺、権藤種盛の墓、旧 相生橋の解体 (じきじゅんじ、宮崎城が落城した時の城主 (正確には宮崎城代) 権藤種盛の僑墓 (きょうぼ、本当の墓以外に作られた墓、権藤種盛の遺体はどこにあるのかは分かっていません。)、権藤種盛の2兄弟の僑墓、直純寺の六地蔵塔、郷土の名木 スギ群落 宮崎市、相生橋 (あいおいはし)、大淀川)  (宮崎県 宮崎市 大字瓜生野 155)







<標高、位置>  宮崎西環状線から下の車道に降りる所は
標高 約20 m
 北緯31度57分34秒  東経131度24分15秒

<標高、位置>  九州電力 柏田変電所は
標高 約10 m
 北緯31度57分30秒  東経131度23分59秒

<標高、位置>  直純寺 (じきじゅんじ)は
標高 約20 m
 北緯31度57分21秒  東経131度23分54秒

<標高、位置>  大淀川の旧 相生橋 (あいおいはし)は
標高 約20 m
 北緯31度57分15秒  東経131度23分48秒

<標高、位置>  大淀川の相生橋 (あいおいはし)は
標高 約20 m
 北緯31度57分23秒  東経131度23分39秒

<標高、位置>  走山池は
標高 約20 m
 北緯31度57分18秒  東経131度24分31秒

<標高、位置>  磐戸神社 (いわとじんじゃ)は
標高 約30 m
 北緯31度57分34秒  東経131度24分23秒


 「直純寺 (じきじゅんじ)」は宮崎県 宮崎市 大字瓜生野 155 にあります。
浄土真宗本願寺派の寺です。 宮崎城跡の近くにあります。 延岡藩主の有馬直純の名前から直純寺と名付(づ)けられました。 直純寺、宮崎城跡あたり一帯 (いったい)は豊臣秀吉の時代から江戸時代は延岡城主の飛び地の領地 (りょうち)でした。 江戸時代は、延岡藩は高橋など5つの殿様が交代しました。 高橋(外様)、有馬(外様)、三浦(譜代)、牧野(譜代)、内藤(譜代)。 権藤種盛の子供 (永伝)は宮崎城の落城後に出家し、今の直純寺のところに寺を建てて住職となりました。 延岡藩主 有馬直純の考えで永伝は光勝寺 (浄土真宗)の開祖 (1598年、慶長3年) 正順の養子になりました。
 関ヶ原の戦いの直後に宮崎城が落城させられました。 落城の時の宮崎城主 (正確には延岡の高橋 氏の宮崎城代)権藤種盛の働きを褒 (ほ)め、有馬直純が後に権藤種盛の孫に建てさせた寺です。 権藤種盛の孫で僧となった門解 (もんげ)(初代住職)が、延岡藩主 有馬直純の出資で建てました。 1710年(宝永7年)に建てられた権藤種盛と2兄弟の僑墓 (きょうぼ、本当の墓以外に作られた墓、権藤種盛の遺体がどこにあるのかは分かっていません。)が直純寺にあります。
 宮崎城跡は池内城跡あるいは龍峰城跡、目曳城跡(めびきじょうあと)とも言われます。 宮崎県宮崎市 池内町にあります。
 標高 約90 m の山城です。 近くに満願寺跡があります。 丘陵の尾根に曲輪(くるわ、平らなところ)がいくつかある大規模な城郭で、南北700m、東西500mにおよびます。 南には、大淀川が西から東に曲がって流れ、天然の濠(ほり)になっていました。
 初めに、南北朝時代の図師六郎入道慈円が宮崎城を造った。 次いで伊東の日向48城の一つとして、都於郡城の後に佐土原城などと同じく整備され、伊東の豊後(大分県)落ちの後、島津の城になりました。 豊臣秀吉の九州征服の後は延岡の高橋の城となり、関ヶ原の戦いの直後に、清武城主の伊東の家臣 稲津重昌(稲津掃部助重政)により攻められ、高橋藩の家老で宮崎城主の権藤種盛など約100名で防戦しましたが、数倍の兵の稲津に破れ、1600年10月1日に城主以下討ち死にし、落城しました。 *[「稲津掃部助重政の墓」は清武町にあります。 稲津掃部助重政は若年より初代飫肥藩主 伊東祐兵(いとうすけたけ)の小姓となり、元来 勇気知謀に長(た)けていたため朝鮮出兵時は19歳ながら祐兵に重用され、さらに25歳にして地頭職を給(たま)わり清武城主となった人物である。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦にあたり、参戦したものの大阪で病に倒れた主君  祐兵の功績にと、稲津掃部助は延岡藩高橋氏の宮崎城(現 宮崎市池内)を攻め落とし、城主 権藤種盛を討ち取った。 しかしこのとき石田方(豊臣方)と思われていた高橋氏は徳川方に寝返っており、結果的に同士討ちとなってしまった。 さらに伊東祐兵もそのまま病死し、跡を継いだ祐慶(すけのり)が幼少であったことから、これまで稲津掃部助の重用を疎(うと)ましく思っていた藩の重臣らがこの責任を稲津掃部助 一人に負わせるなどしたため伊東祐慶は切腹を言い渡すこととなった。
 これに納得できない稲津掃部助は清武城に立てこもるが伊東祐慶の派兵を受けてついに自刃(じじん)し、29年の生涯を閉じた (稲津の乱)。 
 またこの時、稲津掃部助の妻 雪江もわずか15歳ながら退去の勧めを退(しりぞ)けて稲津掃部助と運命を共にしている。]*
 1615年江戸幕府の一国一城令で、宮崎城は当時 延岡藩の城でしたが、廃城になりました。
 2000年10月に落城400年祭が行われました。
 江戸時代の中期の1750年 (寛延3年)に宮崎市にあった延岡藩の飛び地の長嶺村・浮田村・大塚村・富吉村・瓜生野村・大瀬町 (途中で浮田村は脱落。)に百姓一揆 (ひゃくしょういっき)がありました  (宮崎5ヶ村騒動)。 課税の強化に反発したそれらの百姓たちは宮崎市 柳瀬に逃散 (とうさん)することを計画していました。 薩摩藩 (さつまはん)の柳瀬は朝倉観音のある金崎の隣り (となり、南東)にあります。 長嶺は妙円寺跡石塔群のある浮田の南西 約1 km のところにあります。 そのときに代官所に頼 (たの)まれて直純寺も調停を引き受けました。 百姓たちの全面勝利になりました。 直純寺に延岡内藤藩は銀2枚を与えました。 また、王楽寺にも金100疋 (ひき) (100疋 = 1貫 = 3.75 kg)を延岡内藤藩は与えました。
 宮崎市 池内町にある古賀病院の敷地内に権藤平佐衛門種盛の弟、八右衛門の墓碑があります。 直純寺の住職が来て供養 (くよう)が行われています。


 「九州電力 柏田変電所」は宮崎県 宮崎市 大字瓜生野 にあります。

 「磐戸神社 (いわとじんじゃ)」は宮崎県 宮崎市 大字上北方 751 にあります。
磐戸神社の社殿の後ろに洞窟 (どうくつ)があり、この洞窟に天照大神 (アマテラスオオミカミ)がお隠れになったと伝えられています。 祭神はアマテラスオオミカミです。 磐戸神社は古くは天照皇太神宮と呼 (よ)ばれていました。 別当寺として真言宗 岩戸寺がありました。 上北方地区では古くから鶏 (とり)をアマテラスオオミカミの使い鳥として信仰しているそうです。 昔は地元の人は鶏 (とり)を食べなかったそうです。 境内 (けいだい)に横穴式古墳 (こふん)の瓜生野古墳 (うりゅうのこふん)があります。 磐戸神社は天の岩戸伝説地で、天照大神 (アマテラスオオミカミ)を祀 (まつ)っています。 拝殿は洞窟の入り口にあります。 本殿は洞窟になっています。 道路の宮崎西環状線からすぐ北に磐戸神社は見えます。 磐戸神社は皇軍発祥之地の大きな石碑 (せきひ)がある皇宮神社の北北西 約2 km の所にあります。 高千穂町以外にも天岩戸伝説地があることは興味深いと思います。 創立は不祥ですが、成務天皇 (131年〜190年)のときと伝えられています。 社殿は本殿 (岩屋: 幅が約3 m 、奥行きが約27 m )、拝殿 (流造、12坪)。 旧 村社。 33番の神楽 (かぐら)が伝わっています。 ご神像は鎌倉時代に作られた高さ76 cm の天照皇太神です。 旧 延岡城主 有馬左衛門尉や後の延岡城主 牧野備後守などが祭祀料の地を寄進したり、社殿修復を行ったりしました。 幕府勘定奉行 今井九右衛門が御供田 2石 (こく)を寄進しました。 それで合計7石 (こく)の御供田がありました。


写真A: 北を見たものです。 宮崎西環状線の高架 (こうか)が見えます。 宮崎西環状線から、見えている交差点に降りてくることができます。



写真B: 西に九州電力 柏田変電所が見えます。 高い送電線鉄塔、トランス、建物などが見えます。



写真C: 南西を見たものです。 右に九州電力 柏田変電所が見えます。 その奥の山の左端 (南端)に、関ヶ原の戦いの直後に落城した宮崎城の城主 <権藤種盛の墓>がある「直純寺 (じきじゅんじ)」があります。 手前の道を奥に進んで直純寺に行きます。
1710年(宝永7年)に建てられた権藤種盛と2兄弟の僑墓 (きょうぼ、本当の墓以外に作られた墓、権藤種盛の遺体がどこにあるのかは分かっていません。)が直純寺にあります。
直純寺、宮崎城跡あたり一帯 (いったい)は豊臣秀吉の時代から江戸時代は延岡城主の飛び地の領地 (りょうち)でした。
江戸時代は、延岡藩は高橋など5つの殿様が交代しました。 高橋(外様)、有馬(外様)、三浦(譜代)、牧野(譜代)、内藤(譜代)。




写真D: 南西を見たものです。 道路の奥に大淀川沿 (ぞ)いの県道26号線が見えます。 その右手前に直純寺 (じきじゅんじ)の駐車場があります。 このあたりは宮崎市 大字瓜生野 字柏田 です。



写真E: 来た道を振 (ふ)り返ったものです。 北東を見たものです。 左にしめ縄が見えます。



写真F: 道の突 (つ)き当りは大淀川沿いの県道26号線です。 右に直純寺の駐車場が見えてきました。 南西を見たものです。



写真G: 右手前は直純寺 (じきじゅんじ)の駐車場です。 南西を見たものです。



写真H: 西を見たものです。 右上の森が直純寺 (じきじゅんじ)です。 直純寺の駐車場、掲示板、看板 (かんばん)などがあります。



写真I: 直純寺の参道です。 高い杉の林も直純寺の境内 (けいだい)です。 左手前は駐車場です。 北西を見たものです。
1710年(宝永7年)に建てられた権藤種盛と2兄弟の僑墓 (きょうぼ、本当の墓以外に作られた墓、権藤種盛の遺体がどこにあるのかは分かっていません。)が直純寺にあります。



写真J: 北西を見たものです。



写真K: 来た道を振 (ふ)り返ったものです。 北東を見たものです。



写真L: 東を見たものです。



写真M: 直純寺の掲示板 (けいじばん)です。 「浄土真宗本願寺派 直純寺」と書いてあります。



写真N: 「認可保育園 直純寺保育園 (じきじゅんじほいくえん)」と書いてある看板 (かんばん)が駐車場にあります。



写真O: 直純寺の杉林です。 北西を見たものです。



写真P: 「直純寺 参詣  園児送迎 駐車場」と書いてあります。



写真Q: 「(国富町の)本庄へ2里14町39間2尺 明治39年8月」と彫 (ほ)ってある古い道標があります。



写真R: 「(国富町の)本庄へ2里14町39間2尺 明治39年8月」と彫 (ほ)ってある道標です。



写真S: 「(国富町の)本庄へ2里14町39間2尺 明治39年8月」と彫 (ほ)ってある道標 (どうひょう)。



写真T: 「(国富町の)本庄へ2里14町39間2尺 明治39年8月」と彫 (ほ)ってある道標です。



写真U: 「(国富町の)本庄へ2里14町39間2尺 明治39年8月」と彫 (ほ)ってある道標。



写真V: 「土筆 (つくし)」が生 (は)えていました。



写真W: 直純寺 (じきじゅんじ)の参道です。 奥に階段があります。 北西を見たものです。



写真X: 直純寺にある高い木などです。



写真Y: 直純寺の石段です。 手すりがあります。
直純寺、宮崎城跡あたり一帯 (いったい)は豊臣秀吉の時代から江戸時代は延岡城主の飛び地の領地 (りょうち)でした。
江戸時代は、延岡藩は高橋など5つの殿様が交代しました。 高橋(外様)、有馬(外様)、三浦(譜代)、牧野(譜代)、内藤(譜代)。




写真Z: 右手 (北)を見たものです。



写真AA: 左手 (南)を見たものです。



写真AB: 階段の左右に大きな杉の木などがあります。



写真AC: 登ってきた階段を見下 (お)ろしたものです。 南東を見たものです。



写真AD: 2つ目の階段です。 右に鐘つき堂 (かねつきどう)が見えます。 南を見たものです。



写真AE: 直純寺 (じきじゅんじ)の鐘楼 (しょうろう)です。 大きな鐘 (かね)が見えます。 左に石碑 (せきひ)があります。



写真AF: 「郷土の名木 スギ群落 宮崎市」と書いてある標柱があります。 右に石碑 (せきひ)があります。



写真AG: 大きな杉の木の中部です。



写真AH: 直純寺の大きな杉の木です。 杉林があります。 東を見たものです。



写真AI: 「明治21年」と彫 (ほ)ってある石碑 (せきひ)です。 花を供 (そな)えてあります。



写真AJ: 石畳 (いしだたみ)の歩道があります。 右奥に関ヶ原の戦いの直後に落城したときの宮崎城の城主 権藤種盛の墓があります。 木の陰 (かげ)になっていて今は見えません。 左に曲がっている歩道の先には下 (くだ)り階段があります。 それを降 (お)りると大淀川沿 (ぞ)いの県道26号線が通っています。 南を見たものです。



写真AK: 直純寺の境内 (けいだい)です。



写真AL: 左寄りに小さめのお堂があります。 右端は鐘楼 (しょうろう)です。 石碑 (せきひ)も見えます。 南西を見たものです。



写真AM: 西を見たものです。 直純寺の鐘楼 (しょうろう)です。 右奥に本堂もあります。



写真AN: 中央が直純寺の本堂です。 左端は鐘つき堂 (かねつきどう)です。 右にも建物があります。 西を見たものです。
直純寺、宮崎城跡あたり一帯 (いったい)は豊臣秀吉の時代から江戸時代は延岡城主の飛び地の領地 (りょうち)でした。
江戸時代は、延岡藩は高橋など5つの殿様が交代しました。 高橋(外様)、有馬(外様)、三浦(譜代)、牧野(譜代)、内藤(譜代)。




写真AO: 北西を見たものです。 左は直純寺の本堂です。



写真AP: 北を見たものです。 奥に階段があります。 そちらから来ました。 右に「郷土の名木 スギ群落 宮崎市」があります。



写真AQ: 下 (くだ)り階段があります。 それを降 (お)りると大淀川沿 (ぞ)いの県道26号線が通っています。 手すりがあります。 南を見たものです。



写真AR: 階段の上部です。



写真AS: 杉の木の根が地表に出ています。



写真AT: 直純寺に六地蔵塔 (六地蔵幢 (ろくじぞうしょう))があります。 宮崎市 大字瓜生野には王楽寺のそばにも六地蔵塔があります。



写真AU: 六地蔵塔の下部です。



写真AV: 6つのお地蔵の像が彫 (ほ)られています。 この像は保存状態が良い方だと思います。 その下に蓮 (はす)を彫ってあります。 直純寺。



写真AW: こちら側にもお地蔵を彫 (ほ)ってあります。 直純寺の六地蔵塔です。



写真AX: 六地蔵塔の上部です。



写真AY: 6つのお地蔵様を彫ってあります。



写真AZ: 保存状態の良いお地蔵の像です。 直純寺。



写真BA: 六地蔵塔に梵語 (ぼんご、古代インドのサンスクリット語)の文字と漢字を彫ってあります。



写真BB: 「市瀬正右衛門」という名前を六地蔵塔に彫ってあります。



写真BC: 六地蔵塔の中部です。



写真BD: 六地蔵塔の上部です。 直純寺。



写真BE: 南西を見たものです。 奥に小さめのお堂が見えます。



写真BF: これが直純寺にある関ヶ原の戦いの直後に落城した時の宮崎城主 権藤種盛と兄弟 (2人)の墓です。 直純寺の南東部にあります。
1710年(宝永7年)に建てられた権藤種盛と2兄弟の僑墓 (きょうぼ、本当の墓以外に作られた墓、権藤種盛の遺体がどこにあるのかは分かっていません。)が直純寺にあります。



写真BG: 宮崎城主 権藤種盛と兄弟2人の墓です。 後 (あと)でもう一度詳 (くわ)しく見ます。



写真BH: 北西を見たものです。 小さめのお堂が見えます。



写真BI: 左に南端の金網の柵 (さく)があります。



写真BJ: 南端の柵 (さく)です。



写真BK: 直純寺の南そばにある大淀川の旧 相生橋 (あいおいはし)の解体工事が行われていました。 右 (西)に新しい相生橋が見えます。 南南西を見たものです。



写真BL: 南を見たものです。 旧 相生橋の解体工事です。 高いクレーンもあります。



写真BM: 旧 相生橋はアーチ式の橋でした。 旧 相生橋 (あいおいはし)はもう路面がなくなり鉄骨だけになっています。



写真BN: 大淀川にある旧 相生橋の解体工事中です。



写真BO: 対岸 (南岸)にも高いクレーンが見えます。 旧 相生橋はアーチ式の橋でした。 もう鉄骨だけになっています。



写真BP: 旧 相生橋の路面がもうなくなり鉄骨の間から大淀川の水面が見えます。 直純寺から見下 (お)ろしたものです。



写真BQ: 解体工事中の旧 相生橋の鉄骨の間から水面が見えます。



写真BR: 旧 相生橋のすぐ上流側 (西)に高いクレーンを設置してあります。



写真BS: 大きな長い鉄材を川岸に並 (なら)べて置いてありました。 右に竹林も見えます。 手前は県道26号線です。



写真BT: 左端は旧 相生橋で右上は新しい宮崎西環状線です。 中央は高いクレーンです。



写真BU: クレーンの上部です。 その左に対岸の高い送電線鉄塔も見えます。 南を見たものです。



写真BV: 直純寺にクマザサが生 (は)えていました。



写真BW: 直純寺の小さめのお堂です。 右は本堂です。



写真BX: 小さめのお堂の近くです。



写真BY: 手水鉢 (ちょうずばち)のそばにソテツの木があります。



写真BZ: ソテツの木があります。



写真CA: 直純寺の境内 (けいだい)です。



写真CB: 北西を見たものです。 直純寺の本堂です。
江戸時代の中期の1750年 (寛延3年)に宮崎市にあった延岡藩の飛び地の長嶺村・浮田村・大塚村・富吉村・瓜生野村・大瀬町 (途中で浮田村は脱落。)に百姓一揆 (ひゃくしょういっき)がありました  (宮崎5ヶ村騒動)。 課税の強化に反発したそれらの百姓たちは宮崎市 柳瀬に逃散 (とうさん)することを計画していました。 薩摩藩 (さつまはん)の柳瀬は朝倉観音のある金崎の隣り (となり、南東)にあります。 長嶺は妙円寺跡石塔群のある浮田の南西 約1 km のところにあります。 そのときに代官所に頼 (たの)まれて直純寺も調停を引き受けました。 百姓たちの全面勝利になりました。 直純寺に延岡内藤藩は銀2枚を与えました。 また、王楽寺にも金100疋 (ひき) (100疋 = 1貫 = 3.75 kg)を延岡内藤藩は与えました。



写真CC: 境内 (けいだい)です。



写真CD: 西を見たものです。



写真CE: 右は本堂で左端は小さめのお堂です。



写真CF: 境内 (けいだい)の木です。



写真CG: 「ヤツデの実」が付 (つ)いていました。



写真CH: 石碑 (せきひ)があります。 南を見たものです。



写真CI: 鐘楼 (しょうろう)の上部です。



写真CJ: 直純寺の鐘楼 (しょうろう)の中部です。 西を見たものです。



写真CK: 鐘つき堂 (かねつきどう)の下部です。



写真CL: 古い鬼瓦 (おにがわら)と思われるものがあります。



写真CM: 直純寺の鐘 (かね)と撞木 (しゅもく)です。



写真CN: 鐘に「直純寺」と書いてあります。



写真CO: 左は撞木 (しゅもく)です。



写真CP: 直純寺の鐘 (かね)と撞木 (しゅもく)です。



写真CQ: 鐘楼 (しょうろう)に登る石段です。



写真CR: 鐘つき堂 (かねつきどう)です。



写真CS: 南を見たものです。



写真CT: 直純寺の本堂です。 「イワツツジの花」と思われるものが咲いていました。 西を見たものです。



写真CU: 直純寺の本堂です。 階段も見えます。 北西を見たものです。



写真CV: 直純寺の本堂。 横木に立派 (りっぱ)な彫刻 (ちょうこく)があります。



写真CW: 直純寺の本堂です。



写真CX: 「イワツツジの花」と思われます。



写真CY: 直純寺の立派 (りっぱ)な彫刻 (ちょうこく)です。 横木の端 (はし)に象の彫刻があります。



写真CZ: 象とその右に獣 (けもの)の像があります。



写真DA: 見事な彫刻 (ちょうこく)です。 直純寺の本堂です。



写真DB: 本堂の彫刻です。



写真DC: こちら側にも象とその左に獣 (けもの)の像があります。



写真DD: 鐘つき堂 (かねつきどう)です。



写真DE: このような植物があります。



写真DF: 「ツワブキ」が生 (は)えていました。



写真DG: 「アセビの花」が咲いていました。 直純寺。



写真DH: 本堂の南側の側面です。



写真DI: 本堂の屋根の角 (かど)です。



写真DJ: 中央奥にトイレがあります。 西を見たものです。



写真DK: 「ミズブキとそのフキノトウ」が生 (は)えていました。



写真DL: 西を見たものです。 境内 (けいだい)の南西部です。 竹も見えます。



写真DM: 竹林もあります。



写真DN: 境内 (けいだい)です。



写真DO: 直純寺の境内 (けいだい)です。



写真DP: 直純寺です。



写真DQ: 立木があります。



写真DR: いろいろな植物も見えます。



写真DS: 直純寺。



写真DT: 東を見たものです。 本堂の南側です。



写真DU: 北を見たものです。 本堂の西側面です。



写真DV: お寺の建物も見えます。 北を見たものです。



写真DW: 木と建物です。



写真DX: 右は本堂の西側面です。



写真DY: 北を見たものです。



写真DZ: 古い仏像、メジロ籠 (かご)もあります。



写真EA: メジロ籠 (かご)です。



写真EB: 東を見たものです。 本堂の北側面です。



写真EC: 右は本堂です。



写真ED: 本堂に小型の鐘 (かね)を吊 (つ)るしてあります。



写真EE: 先ほどの、関ヶ原の戦いの直後に落城した時の宮崎城主 権藤種盛とその2兄弟の墓のところに戻 (もど)って来ました。 お寺の男性に案内していただきました。 御礼申し上げます。 ここは境内 (けいだい)の南東部です。
1710年(宝永7年)に建てられた権藤種盛と2兄弟の僑墓 (きょうぼ、本当の墓以外に作られた墓、権藤種盛の遺体がどこにあるのかは分かっていません。)が直純寺にあります。



写真EF: 権藤種盛とその2兄弟の墓です。
これは僑墓 (きょうぼ、本当の墓以外に作られた墓、権藤種盛の遺体はどこにあるのかは分かっていません。 首は稲津掃部助の軍が持っていきました。 首から下の遺体はどこに埋 (う)められたか調べたが、分からなかったそうです (直純寺の男性に話を伺 (うかが)いました。 御礼申し上げます。)。)



写真EG: 権藤種盛とその2兄弟の墓の下部です。 花を供 (そな)えてあります。



写真EH: 権藤種盛とその2兄弟の墓に「宮崎城代 (城代とは主君 (延岡城主の高橋)に代わって城を守護し、命令を伝える者のことです。) 俗名 権藤平左衛門尉 (平佐衛門) 種盛 慶長5年10月 花獄院殿 玄栄居士 (戒名)」と彫 (ほ)ってあります。 西を見たものです。



写真EI: 権藤種盛とその2兄弟の墓に「宮崎城代 (城代とは主君 (延岡城主の高橋)に代わって城を守護し、命令を伝える者のことです。) 俗名 権藤平左衛門尉 (平佐衛門) 種盛 慶長5年10月 花獄院殿 玄栄居士 (戒名)」と彫 (ほ)ってあります。
1710年(宝永7年)に建てられた権藤種盛と2兄弟の僑墓 (きょうぼ、本当の墓以外に作られた墓、権藤種盛の遺体がどこにあるのかは分かっていません。)が直純寺にあります。



写真EJ: 権藤種盛とその2兄弟の墓に「宮崎城代 (城代とは主君 (延岡城主の高橋)に代わって城を守護し、命令を伝える者のことです。) 俗名 権藤平左衛門尉 (平佐衛門) 種盛 慶長5年10月 花獄院殿 玄栄居士 (戒名)」と彫 (ほ)ってあります。
1710年(宝永7年)に建てられた権藤種盛と2兄弟の僑墓 (きょうぼ、本当の墓以外に作られた墓、権藤種盛の遺体がどこにあるのかは分かっていません。)が直純寺にあります。



写真EK: 権藤種盛とその2兄弟の墓に「宮崎城代 (城代とは主君 (延岡城主の高橋)に代わって城を守護し、命令を伝える者のことです。) 俗名 権藤平左衛門尉 (平佐衛門) 種盛 慶長5年10月 花獄院殿 玄栄居士 (戒名)」と彫 (ほ)ってあります。
1710年(宝永7年)に建てられた権藤種盛と2兄弟の僑墓 (きょうぼ、本当の墓以外に作られた墓、権藤種盛の遺体がどこにあるのかは分かっていません。)が直純寺にあります。



写真EL: 権藤種盛とその2兄弟の墓に「宮崎城代 (城代とは主君 (延岡城主の高橋)に代わって城を守護し、命令を伝える者のことです。) 俗名 権藤平左衛門尉 (平佐衛門) 種盛 慶長5年10月 花獄院殿 玄栄居士 (戒名)」と彫 (ほ)ってあります。



写真EM: 権藤種盛とその2兄弟の墓に「宮崎城代 (城代とは主君 (延岡城主の高橋)に代わって城を守護し、命令を伝える者のことです。) 俗名 権藤平左衛門尉 (平佐衛門) 種盛 慶長5年10月 花獄院殿 玄栄居士 (戒名)」と彫 (ほ)ってあります。



写真EN: 権藤種盛とその2兄弟の墓に「宮崎城代 (城代とは主君 (延岡城主の高橋)に代わって城を守護し、命令を伝える者のことです。) 俗名 権藤平左衛門尉 (平佐衛門) 種盛 慶長5年10月 花獄院殿 玄栄居士 (戒名)」と彫 (ほ)ってあります。



写真EO: 権藤種盛とその2兄弟の墓に「宮崎城代 (城代とは主君 (延岡城主の高橋)に代わって城を守護し、命令を伝える者のことです。) 俗名 権藤平左衛門尉 (平佐衛門) 種盛 慶長5年10月 花獄院殿 玄栄居士 (戒名)」と彫 (ほ)ってあります。



写真EP: 権藤種盛とその2兄弟の墓に「宮崎城代 (城代とは主君 (延岡城主の高橋)に代わって城を守護し、命令を伝える者のことです。) 俗名 権藤平左衛門尉 (平佐衛門) 種盛 慶長5年10月 花獄院殿 玄栄居士 (戒名)」と彫 (ほ)ってあります。



写真EQ: 権藤種盛とその2兄弟の墓に「宮崎城代 (城代とは主君 (延岡城主の高橋)に代わって城を守護し、命令を伝える者のことです。) 俗名 権藤平左衛門尉 (平佐衛門) 種盛 慶長5年10月 花獄院殿 玄栄居士 (戒名)」と彫 (ほ)ってあります。



写真ER: 権藤種盛とその2兄弟の墓に「宮崎城代 (城代とは主君 (延岡城主の高橋)に代わって城を守護し、命令を伝える者のことです。) 俗名 権藤平左衛門尉 (平佐衛門) 種盛 慶長5年10月 花獄院殿 玄栄居士 (戒名)」と彫 (ほ)ってあります。



写真ES: 権藤種盛とその2兄弟の墓の、こちらの面には種盛の2兄弟の戒名 (かいみょう)と俗名を彫 (ほ)ってあります。 南を見たものです。



写真ET: 種盛の2兄弟の戒名 (かいみょう)と俗名 「正晃院 宗単 権藤公衛門尉、道光院 宗宮 権藤忠右衛門尉」と彫 (ほ)ってあります。
1710年(宝永7年)に建てられた権藤種盛と2兄弟の僑墓 (きょうぼ、本当の墓以外に作られた墓、権藤種盛の遺体がどこにあるのかは分かっていません。)が直純寺にあります。



写真EU: 種盛の2兄弟の戒名 (かいみょう)と俗名 「正晃院 宗単 権藤公衛門尉、道光院 宗宮 権藤忠右衛門尉」と彫 (ほ)ってあります。



写真EV: 北西を見たものです。 左は本堂、右にはじめに登った階段があります。



写真EW: 南に降りる階段です。 大淀川沿 (ぞ)いの県道26号線に出ます。 これははじめに登った階段とは別です。



写真EX: 階段の脇 (わき)に大きな木があります。



写真EY: 大きな木の中部です。



写真EZ: 大きな木です。



写真FA: 大きな木の上部です。



写真FB: この階段を下 (くだ)ります。



写真FC: 下に降りてきました。



写真FD: 県道26号線の奥に大淀川が見えます。 右が上流で左が下流です。 南を見たものです。



写真FE: 「ヤブツバキの花」と思われるものが落ちていました。



写真FF: 階段の下部です。



写真FG: 降 (お)りてきた階段です。 「指定避難場所 (風水害) 宮崎市危機管理室」と書いてある看板 (かんばん)があります。



写真FH: 階段のまわりの様子 (ようす)です。



写真FI: 西を見たものです。 旧 相生橋 (あいおいはし)の解体工事中でした。 大きなクレーンも見えます。 県道26号線も見えます。



写真FJ: 手前は細めの道との三叉路 (さんさろ)になっています。 解体工事中の旧 相生橋 (あいおいはし)が見えます。



写真FK: 大淀川の水面も見えます。 南を見たものです。



写真FL: 南南東を見たものです。 大淀川の水面も見えます。 県道26号線と脇道 (わきみち)も見えます。



写真FM: 南東を見たものです。



写真FN: 北西を見たものです。 竹林もあります。



写真FO: 解体工事中の旧 相生橋 (あいおいはし)です。 2つの高いクレーンも見えます。



写真FP: 南を見たものです。 旧 相生橋です。



写真FQ: 旧 相生橋はアーチ式の橋でした。



写真FR: 対岸の高いクレーンも見えます。



写真FS: 解体中の大淀川にかかる旧 相生橋 (あいおいはし)です。



写真FT: 対岸 (南)の景色も見えます。



写真FU: 大型クレーンの下部です。



写真FV: 北西を見たものです。 先には新しい相生橋、国富町、綾町などがあります。 県道26号線です。



写真FW: 南を見たものです。



写真FX: 旧 相生橋の近くです。



写真FY: 大淀川の平和台大橋が見えています。 南南東を見たものです。



写真FZ: 脇道 (わきみち)の方にトラックが進んでいます。



写真GA: この階段を登ると直純寺 (じきじゅんじ)に行きます。 北を見たものです。



写真GB: 「水神」と彫 (ほ)ってあります。 水神様です。 榊 (さかき)、酒などを供 (そな)えてあります。



写真GC: アンテナのある小さめの建物が見えます。 県道26号線と手前の脇道 (わきみち)です。 県道26号線を先 (東)に進むと大淀川学習館、宮崎地方気象台、皇宮神社、宮崎神宮などに行きます。 南東を見たものです。



写真GD: このアンテナはおそらく大淀川の水位など、防災対策のためのものでしょう。



写真GE: 北西を見たものです。 右上の木は直純寺 (じきじゅんじ)のものです。



写真DF: 直純寺の森が見えます。 北西を見たものです。



写真DG: T字路があります。



写真DH: 県道26号線の下の脇道 (わきみち)です。



写真DI: 右上は県道26号線です。



写真DJ: 郵便ポストがあります。



写真DK: 「たばこ 塩 太田商店」と書いてあります。 北を見たものです。



写真DL: 来た道を振 (ふ)り返ったものです。 北西を見たものです。



写真DM: 北東を見たものです。 先に直純寺の駐車場があります。



写真DN: 「小料理 おゆき」と書いてあります。 左に直純寺の駐車場があります。 北東を見たものです。



写真DO: 野草の「オオイヌノフグリの花」が咲いていました。



写真DP: 北西を見たものです。 直純寺の駐車場に戻 (もど)って来ました。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)