二ツ立地区の「津波避難タワー」、二ツ立神社、二ツ立地区営農研修施設、高木養鰻場 (ようまんじょう) (一ツ瀬川右岸河口の集落 (ニツ立地区)、二ツ立地区では昔に塩田 (えんでん)があって海水から塩を作っていました。 春の野草の花、二ツ立 (ふたつだて)地区自主防災隊機庫、KDDI 宮崎海底線中継所のタワー、一ツ瀬川河口付近、堤防上の「八大龍王」と書いてある石碑 (せきひ)、太平洋、日向灘)  (宮崎県 宮崎市 下田島 字二ツ立)







<標高、位置>  二ツ立神社 (ふたつだてじんじゃ) と二ツ立津波避難タワーは
標高 数 m
 北緯32度02分15秒  東経131度29分34秒

<標高、位置>  二ツ立地区 営農研修施設は
標高 数 m
 北緯32度02分15秒  東経131度29分35秒

<標高、位置>  高木養鰻場 (ようまんじょう)は
標高 数 m
 北緯32度02分14秒  東経131度29分28秒

<標高、位置>  一ツ瀬川の河口は
標高 数 m
 北緯32度02分47秒  東経131度30分22秒


 「二ツ立神社」やその境内 (けいだい)にある二ツ立地区の「津波避難タワー」は宮崎県 宮崎市 佐土原町 下田島 字二ツ立にあります。
「津波避難タワー利用の注意」の看板 (かんばん)から、
津波避難タワー 地上6 m (1層目)、地上9 m (2層目)。
この避難タワーは「津波から生命・身体を守る」ことを目的に建てられたものです。 非常時や訓練以外に無断で使用したり、遊んではいけません。
けが人や病気の人、高齢の方や障がいのある方等を優先し、必要な支援をしましょう。 津波の危険がなくなる (警報・注意報の解除)までは避難を継続してください。 危ないので、手すりの上に乗ったり、登ったりしないでください。 大切な命を守る施設です。 落書きをしたり、傷 (きず)つけたりしないでください。
津波避難時は安全に注意しながら、お互いに協力し合い、速 (すみ)やかに避難しましょう。
 「二ツ立津波避難タワー」は2015年4月7日にオープンしました。 総工費は約7900万円、屋上 (おくじょう)は高さ 9 m 広さ 50 平方メートル、2階は高さ 6 m 広さ 50 平方メートル、収容人数は計200人、屋上には太陽光発電の夜間照明、両階とも備蓄品収納型ベンチがあり、飲料水、非常食、毛布などが入っています。 津波避難タワーは宮崎市が建設しました。 自治体が建てるものとしては県内初です。 二ツ立地区には57世帯約180人が暮 (く)らしています。 南海トラフ地震では約25分で津波が来て、浸水する深さは1.3〜1.9 m と予想されています。

 「二ツ立神社と塩釜大明神」の説明板から、
「二ツ立神社」
 二ツ立地区は天神社正面から見渡される広大な田園ですが、以前は潮の満ち干 (ひ)で塩水が流入し塩田の広がる入江の中の1つの島で塩炊 (た)く煙 (けむり)の立ち登る里でした。 福島湊 (みなと)の繁華喧騒 (はんかけんそう)な町とは水で仕切られた水郷をなして松をおいた小島もあって静けさと船便のよい風光明媚 (めいび)な所で文人墨客 (ぶんじんぼかく)豪商 (ごうしょう)等が風雅を楽しむ憩 (いこ)いの地でありました。 そんな環境が古くから学問の神様といわれる天神様を勧請 (かんじょう、神の分霊 (ぶんれい)を移し祭る)お祭りしてきました。 天神社建築は藩の手でなされ四方から船で集まり景色を愛 (め)で連歌を楽しむ人々は当時の仕来 (き)たりに従い詠 (よ)まれた句を天神様に奉納し満願成就 (まんがんじょうじゅ)の歌箱として残され参詣 (さんけい)する庶民の為に菅原道真公がどんな訳 (わけ)で天神様になられたのか、その縁起を絵巻物で教え諭 (さと)した「天満縁起絵詞」は天神社に対する人々の信仰の深さと伝統を物語り今も受け継 (つ)がれています。
「塩釜大明神」
 天神社の信仰を支 (ささ)えたのは塩の生産による恵みが大きく寄与したので塩生産の神として祭りつがれましたのが塩釜大明神です。 明治の中頃 二ツ立、平松、大炊田 (おおいだ)の塩田面積は県内の4分の1で、塩の欲しい山手の米良、綾などの道がひらかれ、その地から塩釜様を拝 (おが)みに来る年中行事も行われる大切な塩の神様であった。
この天神社と塩釜大明神の二つが揃 (そろ)って二ツ立神社であり、二ツ立の伝統の証 (あか)しであって魂 (たましい)になっています。
(塩作りの方法も書いてあります。 塩田 (えんでん)、潮が入る水路、1 砂まき、2 潮水まき、3 乾くようにすじつけ、4 乾いた砂を集める。 5 集めた砂を箱 (ぬい桶 (おけ))に入れ上から潮水をかけ濃い塩水を取り出す。 6 濃い潮水を10時間ぐらい煮 (に)つめる。 7 ワラで作った容器 (つと)に入れて苦塩 (にがり)を分離する。 8 完成。)

 「高木養鰻場 (ようまんじょう)」は宮崎県 宮崎市 佐土原町 下田島 15181-153 にあります。

 「KDDI 宮崎海底線中継所」は宮崎県 宮崎市 佐土原町 大字下田島 字大炊田にあります。
高さ約90 mのマイクロ波通信タワー、外国とも接続している光ファイバーの海底ケーブルもあります。 この塔は頂点に昼でもよく見える点滅灯があり、遠くからでもよく目立ちます。

 一ツ瀬川堤防に「八大龍王」と彫 (ほ)ってある石碑 (せきひ)があります。 八大龍王とは法華経の会座に列した護法の龍神で、水の神、雨乞(あまご)いの神です。

 「一ツ瀬川(ひとつせがわ)」は宮崎県の中央部を流れる一ツ瀬川水系の本流です。 二級河川で、延長 91 km、流域面積 786 平方キロメートルです。 流域は椎葉村、西米良村、西都市、新富町、宮崎市 佐土原町で日向灘(ひゅうがなだ)に注(そそ)ぎます。


写真A: 一ツ瀬川の右岸 (下流を見て右。)河口の海岸です。 左遠くの河口にある波消しブロックが黒っぽく見えます。 白波が見えます。 北東を見たものです。



写真B: 東を見たものです。 このあたりは砂浜です。 海の白波も見えます。



写真C: 海の方を見たものです。 かなり広い砂浜です。



写真D: 北西を見たものです。 一ツ瀬川が見えます。 奥に灯台がある観音山も見えます。 奥は富田浜入江です。



写真E: 西北西を見たものです。 河口に近い一ツ瀬川が見えます。



写真F: 西を見たものです。 右奥は一ツ瀬川です。


写真G: 南を見たものです。



写真H: 南東を見たものです。



写真I: 東を見たものです。 奥は太平洋 (日向灘)です。



写真J: 一ツ瀬川堤防の上の車道と歩道です。 奥に右岸 (下流を見て右。)の船着き場の船が見えます。 西を見たものです。
「一ツ瀬川(ひとつせがわ)」は宮崎県の中央部を流れる一ツ瀬川水系の本流です。 二級河川で、延長 91 km、流域面積 786 平方キロメートルです。 流域は椎葉村、西米良村、西都市、新富町、宮崎市 佐土原町で日向灘(ひゅうがなだ)に注(そそ)ぎます。



写真K: 南側に池があります。 昔は入江 (いりえ)だったものと思われます。 手前は堤防の上の道です。



写真L: 南側の池です。 昔は入江 (いりえ)だったものと思われます。 手間に水門と堤防の上の道があります。 南を見たものです。



写真M: 南西を見たものです。 遠くにKDDI株式会社 宮崎海底線中継所の高い塔が見えます。
KDDI 宮崎海底線中継所は宮崎県 宮崎市 佐土原町 大字下田島 字大炊田にあります。
高さ約90 mのマイクロ波通信タワー、外国とも接続している光ファイバーの海底ケーブルもあります。 この塔は頂点に昼でもよく見える点滅灯があり、遠くからでもよく目立ちます。



写真N: 一ツ瀬川の上流方向 (西)を見たものです。 右岸 (下流を見て右。)の船着場の船が見えます。 右奥に新田原台地が見えます。



写真O: 一ツ瀬川の河口の上空を自衛隊の航空自衛隊 新田原基地のジェット戦闘機が訓練をしていました。



写真P: 堤防に「八大龍王」と書いてある石碑 (せきひ)があります。 花などを供 (そな)えてあります。
八大龍王とは法華経の会座に列した護法の龍神で、水の神、雨乞(あまご)いの神です。



写真Q: ダムの放流による増水に注意の看板 (かんばん)があります。 奥に一ツ瀬川、船着き場の船が見えます。



写真R: 二ツ立の船着き場です。 多くの船が見えます。 北北西を見たものです。 昭和のはじめ頃、母は今の西佐土原 (上田島 十文字地区)からこの二ツ立地区まで小舟で家族などと遊びに来ていたそうです。 小舟は竿 (さお)で漕 (こ)いたそうです。 途中 (とちゅう)の福島地区に店が1つあって、そこで酒まんじゅうを買って食べていたそうです。 帰りも竿 (さお)で漕 (こ)いで一ツ瀬川を遡 (さかのぼ)ったそうです。 二ツ立の船着場に小舟を着 (つ)けて海辺の砂浜まで歩いて行き、幼 (おさな)かった母はそこできれいな貝を拾 (ひろ)ったりして遊びました。 小舟はいつもは佐賀利 (さがり)地区に置いていたそうです。 近くの浜にはそのころは塩を作る塩田 (えんでん)はなかったそうです。 二ツ立神社は行ったことはなかったそうです。 92歳の母が話してくれました。



写真S: 野草の「スミレの花」が咲 (さ)いていました。



写真T: 一ツ瀬川の南岸の土手の道です。 西を見たものです。



写真U: 土手の外側の下に太陽光発電所があります。



写真V: 左上に一ツ瀬川のダムの放流による増水のときなどに鳴らす赤いサイレンが見えます。 西を見たものです。



写真W: 西を見たものです。 堤防の外に降 (お)りる道があります。 そこを降りて進み、二ツ立地区の「津波避難タワー」、二ツ立神社、養鰻場 (ようまんじょう)などに行きます。



写真X: 「この土地は 標高5.7 m」と書いてあります。



写真Y: 東を見たものです。 右の道を下 (くだ)ります。



写真Z: 野草の「ノゲシの綿毛 (わたげ)」がありました。



写真AA: 「菜 (な)の花」が咲いていました。



写真AB: 宮崎市 下田島 二ツ立地区です。 南を見たものです。 菜の花やクローバーの花も見えます。



写真AC: 南西を見たものです。 先に三叉路 (さんさろ)があります。 左の方に進んで二ツ立地区の津波避難タワー、二ツ立神社、養鰻場 (ようまんじょう)などに行きます。



写真AD: 中央左寄りの遠くに、四角い屋根の上に3本の小型の太陽電池が見えます。 そこが津波避難タワーです。



写真AE: 四角い屋根の上に3本の小型の太陽電池が見えます。 そこが津波避難タワーです。



写真AF: 黒色の細い竹があります。



写真AG: 「ヤブツバキの花」が落ちていました。



写真AH: 二ツ立神社の社 (やしろ)の奥に二ツ立地区の津波避難タワーが見えます。 津波避難タワーの屋上に3つの小型の太陽電池があります。



写真AI: 津波避難タワーの近くです。



写真AJ: 壁に「二ツ立避難タワー」と書いてあります。 屋上 (おくじょう)に小型の太陽電池が見えます。 手前は二ツ立神社です。



写真AK: 二ツ立津波避難タワーです。 二ツ立神社の境内 (けいだい)にあります。
「二ツ立神社」やその境内 (けいだい)にある二ツ立地区の「津波避難タワー」は宮崎県 宮崎市 佐土原町 下田島 字二ツ立にあります。



写真AL: 建物の外 (そと)に階段があります。 2階建ての津波避難タワーです。 屋上の支柱の上の四角の物は太陽電池です。 南を見たものです。



写真AM: 津波避難タワーの近くです。



写真AN: 二ツ立神社の2つの社殿が見えます。 右端は津波避難タワーです。



写真AO: 来た道です。 右端は二ツ立神社です。



写真AP: 津波避難タワーの近くです。



写真AQ: 近くには農業用ビニールハウスもあります。



写真AR: 避難タワーの近くです。 西を見たものです。



写真AS: 津波避難タワーのそばの道の対面に祠 (ほこら)があります。 しめ縄 (なわ)、御幣 (ごへい)も見えます。



写真AT: 二ツ立神社の小さい方の社殿のそばに手水鉢 (ちょうずばち)や四角の石があります。



写真AU: 二ツ立津波避難タワーの階段の入り口です。 非常時には右の白い板の部分を足で蹴破 (けやぶ)って中の階段を登ります。 左に避難タワーの柱があります。 西を見たものです。



写真AV: 階段の登り口に「緊急用避難扉 (とびら)、緊急時には ここを破って 避難して下さい。」と書いてあります。



写真AW: 津波避難タワーの柱に「津波避難タワー、津波時は、この建物の上階へ避難、この土地は 標高2.1 m、宮崎市」と書いてあります。



写真AX: 「津波避難タワー利用の注意」の看板 (かんばん)があります。
津波避難タワー 地上6 m (1層目)、地上9 m (2層目)。
この避難タワーは「津波から生命・身体を守る」ことを目的に建てられたものです。 非常時や訓練以外に無断で使用したり、遊んではいけません。
けが人や病気の人、高齢の方や障がいのある方等を優先し、必要な支援をしましょう。 津波の危険がなくなる (警報・注意報の解除)までは避難を継続してください。 危ないので、手すりの上に乗ったり、登ったりしないでください。 大切な命を守る施設です。 落書きをしたり、傷 (きず)つけたりしないでください。
津波避難時は安全に注意しながら、お互いに協力し合い、速 (すみ)やかに避難しましょう。 なお、タワー敷地内での事故等につきましては、宮崎市、自治会は責任を負 (お)いかねますので、使用時にはご注意ください。
宮崎市危機管理課
と書いてあります。



写真AY: 二ツ立神社とそばの車道です。 境内 (けいだい)の端 (はし)に花を植えてあります。



写真AZ: 二ツ立神社です。 左端は二ツ立津波避難タワーです。
「二ツ立神社」やその境内 (けいだい)にある二ツ立地区の「津波避難タワー」は宮崎県 宮崎市 佐土原町 下田島 字二ツ立にあります。



写真BA: 二ツ立神社の境内 (けいだい)です。



写真BB: 「二ツ立避難タワー」と書いてあります。 西を見たものです。
「二ツ立津波避難タワー」は2015年4月7日にオープンしました。 総工費は約7900万円、屋上 (おくじょう)は高さ 9 m 広さ 50 平方メートル、2階は高さ 6 m 広さ 50 平方メートル、収容人数は計200人、屋上には太陽光発電の夜間照明、両階とも備蓄品収納型ベンチがあり、飲料水、非常食、毛布などが入っています。 津波避難タワーは宮崎市が建設しました。 自治体が建てるものとしては県内初です。 二ツ立地区には57世帯約180人が暮 (く)らしています。 南海トラフ地震では約25分で津波が来て、浸水する深さは1.3〜1.9 m と予想されています。



写真BC: 二ツ立神社の境内 (けいだい)。



写真BD: 二ツ立神社の鳥居 (とりい)と手水舎 (ちょうずや)が見えます。 南を見たものです。



写真BE: 大きな木が鳥居 (とりい)の近くにあります。



写真BF: 車道側にプラスティック製鎖 (くさり)が見えます。 左に飲料水の自動販売機があります。



写真BG: 南東を見たものです。



写真BH: 東を見たものです。



写真BI: 北東を見たものです。



写真BJ: 北を見たものです。 左は二ツ立神社の境内 (けいだい)です。



写真BK: 上部に階段が見えます。



写真BL: 津波避難タワーの下部です。



写真BM: 二ツ立神社と津波避難タワーです。 北を見たものです。



写真BN: 二ツ立神社の鳥居 (とりい)と二ツ立津波避難タワーです。 北を見たものです。



写真BO: 境内 (けいだい)の端 (はし)に花が咲いていました。



写真BP: 二ツ立神社の近くの道です。



写真BQ: 近くの様子 (ようす)です。



写真BR: 南を見たものです。



写真BS: 農業用ビニールハウスもあります。



写真BT: 東を見たものです。 二ツ立営農研修施設があります。



写真BU: 北東を見たものです。



写真BV: 二ツ立神社です。 鳥居 (とりい)にしめ縄 (なわ)と御幣 (ごへい)があります。



写真BW: 鳥居 (とりい)に「献 昭和3年11月」と書いてあります。



写真BX: 鳥居 (とりい)のそばに石造物があります。



写真BY: 石造物があります。



写真BZ: 手水舎 (ちょうずや)があります。



写真CA: 手水鉢 (ちょうずばち)です。



写真CB: 手水舎 (ちょうずや)の手ぬぐいに「平成26年7月」と書いてあります。



写真CC: 石があります。 左上は手水舎 (ちょうずや)です。



写真CD: 古い手水鉢 (ちょうずばち)が地面にあります。



写真CE: 境内 (けいだい)です。



写真CF: 二ツ立神社の社殿です。



写真CG: 小さい方の社殿です。 しめ縄と御幣 (ごへい)、説明板があります。



写真CH: 「二ツ立神社と塩釜大明神」の説明板があります。
「二ツ立神社」
 二ツ立地区は天神社正面から見渡される広大な田園ですが、以前は潮の満ち干 (ひ)で塩水が流入し塩田の広がる入江の中の1つの島で塩炊 (た)く煙 (けむり)の立ち登る里でした。 福島湊 (みなと)の繁華喧騒 (はんかけんそう)な町とは水で仕切られた水郷をなして松をおいた小島もあって静けさと船便のよい風光明媚 (めいび)な所で文人墨客 (ぶんじんぼかく)豪商 (ごうしょう)等が風雅を楽しむ憩 (いこ)いの地でありました。 そんな環境が古くから学問の神様といわれる天神様を勧請 (かんじょう、神の分霊 (ぶんれい)を移し祭る)お祭りしてきました。 天神社建築は藩の手でなされ四方から船で集まり景色を愛 (め)で連歌を楽しむ人々は当時の仕来 (き)たりに従い詠 (よ)まれた句を天神様に奉納し満願成就 (まんがんじょうじゅ)の歌箱として残され参詣 (さんけい)する庶民の為に菅原道真公がどんな訳 (わけ)で天神様になられたのか、その縁起を絵巻物で教え諭 (さと)した「天満縁起絵詞」は天神社に対する人々の信仰の深さと伝統を物語り今も受け継 (つ)がれています。
「塩釜大明神」
 天神社の信仰を支 (ささ)えたのは塩の生産による恵みが大きく寄与したので塩生産の神として祭りつがれましたのが塩釜大明神です。 明治の中頃 二ツ立、平松、大炊田 (おおいだ)の塩田面積は県内の4分の1で、塩の欲しい山手の米良、綾などの道がひらかれ、その地から塩釜様を拝 (おが)みに来る年中行事も行われる大切な塩の神様であった。

この天神社と塩釜大明神の二つが揃 (そろ)って二ツ立神社であり、二ツ立の伝統の証 (あか)しであって魂 (たましい)になっています。
(塩作りの方法も書いてあります。 塩田 (えんでん)、潮が入る水路、1 砂まき、2 潮水まき、3 乾くようにすじつけ、4 乾いた砂を集める。 5 集めた砂を箱 (ぬい桶 (おけ))に入れ上から潮水をかけ濃い塩水を取り出す。 6 濃い潮水を10時間ぐらい煮 (に)つめる。 7 ワラで作った容器 (つと)に入れて苦塩 (にがり)を分離する。 8 完成。)
二ツ立氏子 (うじこ)一同敬白 (けいはく、敬って申し上げること。)
と書かれています。



写真CI: 「二ツ立神社と塩釜大明神」の説明板です。
「二ツ立神社」
 二ツ立地区は天神社正面から見渡される広大な田園ですが、以前は潮の満ち干 (ひ)で塩水が流入し塩田の広がる入江の中の1つの島で塩炊 (た)く煙 (けむり)の立ち登る里でした。 福島湊 (みなと)の繁華喧騒 (はんかけんそう)な町とは水で仕切られた水郷をなして松をおいた小島もあって静けさと船便のよい風光明媚 (めいび)な所で文人墨客 (ぶんじんぼかく)豪商 (ごうしょう)等が風雅を楽しむ憩 (いこ)いの地でありました。 そんな環境が古くから学問の神様といわれる天神様を勧請 (かんじょう、神の分霊 (ぶんれい)を移し祭る)お祭りしてきました。 天神社建築は藩の手でなされ四方から船で集まり景色を愛 (め)で連歌を楽しむ人々は当時の仕来 (き)たりに従い詠 (よ)まれた句を天神様に奉納し満願成就 (まんがんじょうじゅ)の歌箱として残され参詣 (さんけい)する庶民の為に菅原道真公がどんな訳 (わけ)で天神様になられたのか、その縁起を絵巻物で教え諭 (さと)した「天満縁起絵詞」は天神社に対する人々の信仰の深さと伝統を物語り今も受け継 (つ)がれています。
「塩釜大明神」
 天神社の信仰を支 (ささ)えたのは塩の生産による恵みが大きく寄与したので塩生産の神として祭りつがれましたのが塩釜大明神です。 明治の中頃 二ツ立、平松、大炊田 (おおいだ)の塩田面積は県内の4分の1で、塩の欲しい山手の米良、綾などの道がひらかれ、その地から塩釜様を拝 (おが)みに来る年中行事も行われる大切な塩の神様であった。

この天神社と塩釜大明神の二つが揃 (そろ)って二ツ立神社であり、二ツ立の伝統の証 (あか)しであって魂 (たましい)になっています。
(塩作りの方法も書いてあります。 塩田 (えんでん)、潮が入る水路、1 砂まき、2 潮水まき、3 乾くようにすじつけ、4 乾いた砂を集める。 5 集めた砂を箱 (ぬい桶 (おけ))に入れ上から潮水をかけ濃い塩水を取り出す。 6 濃い潮水を10時間ぐらい煮 (に)つめる。 7 ワラで作った容器 (つと)に入れて苦塩 (にがり)を分離する。 8 完成。)
二ツ立氏子 (うじこ)一同敬白 (けいはく、敬って申し上げること。)
と書かれています。



写真CJ: 「二ツ立神社と塩釜大明神」の説明板。
「二ツ立神社」
 二ツ立地区は天神社正面から見渡される広大な田園ですが、以前は潮の満ち干 (ひ)で塩水が流入し塩田の広がる入江の中の1つの島で塩炊 (た)く煙 (けむり)の立ち登る里でした。 福島湊 (みなと)の繁華喧騒 (はんかけんそう)な町とは水で仕切られた水郷をなして松をおいた小島もあって静けさと船便のよい風光明媚 (めいび)な所で文人墨客 (ぶんじんぼかく)豪商 (ごうしょう)等が風雅を楽しむ憩 (いこ)いの地でありました。 そんな環境が古くから学問の神様といわれる天神様を勧請 (かんじょう、神の分霊 (ぶんれい)を移し祭る)お祭りしてきました。 天神社建築は藩の手でなされ四方から船で集まり景色を愛 (め)で連歌を楽しむ人々は当時の仕来 (き)たりに従い詠 (よ)まれた句を天神様に奉納し満願成就 (まんがんじょうじゅ)の歌箱として残され参詣 (さんけい)する庶民の為に菅原道真公がどんな訳 (わけ)で天神様になられたのか、その縁起を絵巻物で教え諭 (さと)した「天満縁起絵詞」は天神社に対する人々の信仰の深さと伝統を物語り今も受け継 (つ)がれています。
「塩釜大明神」
 天神社の信仰を支 (ささ)えたのは塩の生産による恵みが大きく寄与したので塩生産の神として祭りつがれましたのが塩釜大明神です。 明治の中頃 二ツ立、平松、大炊田 (おおいだ)の塩田面積は県内の4分の1で、塩の欲しい山手の米良、綾などの道がひらかれ、その地から塩釜様を拝 (おが)みに来る年中行事も行われる大切な塩の神様であった。

この天神社と塩釜大明神の二つが揃 (そろ)って二ツ立神社であり、二ツ立の伝統の証 (あか)しであって魂 (たましい)になっています。
(塩作りの方法も書いてあります。 塩田 (えんでん)、潮が入る水路、1 砂まき、2 潮水まき、3 乾くようにすじつけ、4 乾いた砂を集める。 5 集めた砂を箱 (ぬい桶 (おけ))に入れ上から潮水をかけ濃い塩水を取り出す。 6 濃い潮水を10時間ぐらい煮 (に)つめる。 7 ワラで作った容器 (つと)に入れて苦塩 (にがり)を分離する。 8 完成。)
二ツ立氏子 (うじこ)一同敬白 (けいはく、敬って申し上げること。)
と書かれています。



写真CK: 「二ツ立神社と塩釜大明神」の説明板があります。
「二ツ立神社」
 二ツ立地区は天神社正面から見渡される広大な田園ですが、以前は潮の満ち干 (ひ)で塩水が流入し塩田の広がる入江の中の1つの島で塩炊 (た)く煙 (けむり)の立ち登る里でした。 福島湊 (みなと)の繁華喧騒 (はんかけんそう)な町とは水で仕切られた水郷をなして松をおいた小島もあって静けさと船便のよい風光明媚 (めいび)な所で文人墨客 (ぶんじんぼかく)豪商 (ごうしょう)等が風雅を楽しむ憩 (いこ)いの地でありました。 そんな環境が古くから学問の神様といわれる天神様を勧請 (かんじょう、神の分霊 (ぶんれい)を移し祭る)お祭りしてきました。 天神社建築は藩の手でなされ四方から船で集まり景色を愛 (め)で連歌を楽しむ人々は当時の仕来 (き)たりに従い詠 (よ)まれた句を天神様に奉納し満願成就 (まんがんじょうじゅ)の歌箱として残され参詣 (さんけい)する庶民の為に菅原道真公がどんな訳 (わけ)で天神様になられたのか、その縁起を絵巻物で教え諭 (さと)した「天満縁起絵詞」は天神社に対する人々の信仰の深さと伝統を物語り今も受け継 (つ)がれています。
「塩釜大明神」
 天神社の信仰を支 (ささ)えたのは塩の生産による恵みが大きく寄与したので塩生産の神として祭りつがれましたのが塩釜大明神です。 明治の中頃 二ツ立、平松、大炊田 (おおいだ)の塩田面積は県内の4分の1で、塩の欲しい山手の米良、綾などの道がひらかれ、その地から塩釜様を拝 (おが)みに来る年中行事も行われる大切な塩の神様であった。

この天神社と塩釜大明神の二つが揃 (そろ)って二ツ立神社であり、二ツ立の伝統の証 (あか)しであって魂 (たましい)になっています。
(塩作りの方法も書いてあります。 塩田 (えんでん)、潮が入る水路、1 砂まき、2 潮水まき、3 乾くようにすじつけ、4 乾いた砂を集める。 5 集めた砂を箱 (ぬい桶 (おけ))に入れ上から潮水をかけ濃い塩水を取り出す。 6 濃い潮水を10時間ぐらい煮 (に)つめる。 7 ワラで作った容器 (つと)に入れて苦塩 (にがり)を分離する。 8 完成。)
二ツ立氏子 (うじこ)一同敬白 (けいはく、敬って申し上げること。)
と書かれています。



写真CL: 「二ツ立神社と塩釜大明神」の説明板があります。
「二ツ立神社」
 二ツ立地区は天神社正面から見渡される広大な田園ですが、以前は潮の満ち干 (ひ)で塩水が流入し塩田の広がる入江の中の1つの島で塩炊 (た)く煙 (けむり)の立ち登る里でした。 福島湊 (みなと)の繁華喧騒 (はんかけんそう)な町とは水で仕切られた水郷をなして松をおいた小島もあって静けさと船便のよい風光明媚 (めいび)な所で文人墨客 (ぶんじんぼかく)豪商 (ごうしょう)等が風雅を楽しむ憩 (いこ)いの地でありました。 そんな環境が古くから学問の神様といわれる天神様を勧請 (かんじょう、神の分霊 (ぶんれい)を移し祭る)お祭りしてきました。 天神社建築は藩の手でなされ四方から船で集まり景色を愛 (め)で連歌を楽しむ人々は当時の仕来 (き)たりに従い詠 (よ)まれた句を天神様に奉納し満願成就 (まんがんじょうじゅ)の歌箱として残され参詣 (さんけい)する庶民の為に菅原道真公がどんな訳 (わけ)で天神様になられたのか、その縁起を絵巻物で教え諭 (さと)した「天満縁起絵詞」は天神社に対する人々の信仰の深さと伝統を物語り今も受け継 (つ)がれています。
「塩釜大明神」
 天神社の信仰を支 (ささ)えたのは塩の生産による恵みが大きく寄与したので塩生産の神として祭りつがれましたのが塩釜大明神です。 明治の中頃 二ツ立、平松、大炊田 (おおいだ)の塩田面積は県内の4分の1で、塩の欲しい山手の米良、綾などの道がひらかれ、その地から塩釜様を拝 (おが)みに来る年中行事も行われる大切な塩の神様であった。

この天神社と塩釜大明神の二つが揃 (そろ)って二ツ立神社であり、二ツ立の伝統の証 (あか)しであって魂 (たましい)になっています。
(塩作りの方法も書いてあります。 塩田 (えんでん)、潮が入る水路、1 砂まき、2 潮水まき、3 乾くようにすじつけ、4 乾いた砂を集める。 5 集めた砂を箱 (ぬい桶 (おけ))に入れ上から潮水をかけ濃い塩水を取り出す。 6 濃い潮水を10時間ぐらい煮 (に)つめる。 7 ワラで作った容器 (つと)に入れて苦塩 (にがり)を分離する。 8 完成。)
二ツ立氏子 (うじこ)一同敬白 (けいはく、敬って申し上げること。)
と書かれています。



写真CM: 「二ツ立神社と塩釜大明神」の説明板があります。
「二ツ立神社」
 二ツ立地区は天神社正面から見渡される広大な田園ですが、以前は潮の満ち干 (ひ)で塩水が流入し塩田の広がる入江の中の1つの島で塩炊 (た)く煙 (けむり)の立ち登る里でした。 福島湊 (みなと)の繁華喧騒 (はんかけんそう)な町とは水で仕切られた水郷をなして松をおいた小島もあって静けさと船便のよい風光明媚 (めいび)な所で文人墨客 (ぶんじんぼかく)豪商 (ごうしょう)等が風雅を楽しむ憩 (いこ)いの地でありました。 そんな環境が古くから学問の神様といわれる天神様を勧請 (かんじょう、神の分霊 (ぶんれい)を移し祭る)お祭りしてきました。 天神社建築は藩の手でなされ四方から船で集まり景色を愛 (め)で連歌を楽しむ人々は当時の仕来 (き)たりに従い詠 (よ)まれた句を天神様に奉納し満願成就 (まんがんじょうじゅ)の歌箱として残され参詣 (さんけい)する庶民の為に菅原道真公がどんな訳 (わけ)で天神様になられたのか、その縁起を絵巻物で教え諭 (さと)した「天満縁起絵詞」は天神社に対する人々の信仰の深さと伝統を物語り今も受け継 (つ)がれています。
「塩釜大明神」
 天神社の信仰を支 (ささ)えたのは塩の生産による恵みが大きく寄与したので塩生産の神として祭りつがれましたのが塩釜大明神です。 明治の中頃 二ツ立、平松、大炊田 (おおいだ)の塩田面積は県内の4分の1で、塩の欲しい山手の米良、綾などの道がひらかれ、その地から塩釜様を拝 (おが)みに来る年中行事も行われる大切な塩の神様であった。

この天神社と塩釜大明神の二つが揃 (そろ)って二ツ立神社であり、二ツ立の伝統の証 (あか)しであって魂 (たましい)になっています。
(塩作りの方法も書いてあります。 塩田 (えんでん)、潮が入る水路、1 砂まき、2 潮水まき、3 乾くようにすじつけ、4 乾いた砂を集める。 5 集めた砂を箱 (ぬい桶 (おけ))に入れ上から潮水をかけ濃い塩水を取り出す。 6 濃い潮水を10時間ぐらい煮 (に)つめる。 7 ワラで作った容器 (つと)に入れて苦塩 (にがり)を分離する。 8 完成。)
二ツ立氏子 (うじこ)一同敬白 (けいはく、敬って申し上げること。)
と書かれています。



写真CN: 「二ツ立神社と塩釜大明神」の説明板があります。
「二ツ立神社」
 二ツ立地区は天神社正面から見渡される広大な田園ですが、以前は潮の満ち干 (ひ)で塩水が流入し塩田の広がる入江の中の1つの島で塩炊 (た)く煙 (けむり)の立ち登る里でした。 福島湊 (みなと)の繁華喧騒 (はんかけんそう)な町とは水で仕切られた水郷をなして松をおいた小島もあって静けさと船便のよい風光明媚 (めいび)な所で文人墨客 (ぶんじんぼかく)豪商 (ごうしょう)等が風雅を楽しむ憩 (いこ)いの地でありました。 そんな環境が古くから学問の神様といわれる天神様を勧請 (かんじょう、神の分霊 (ぶんれい)を移し祭る)お祭りしてきました。 天神社建築は藩の手でなされ四方から船で集まり景色を愛 (め)で連歌を楽しむ人々は当時の仕来 (き)たりに従い詠 (よ)まれた句を天神様に奉納し満願成就 (まんがんじょうじゅ)の歌箱として残され参詣 (さんけい)する庶民の為に菅原道真公がどんな訳 (わけ)で天神様になられたのか、その縁起を絵巻物で教え諭 (さと)した「天満縁起絵詞」は天神社に対する人々の信仰の深さと伝統を物語り今も受け継 (つ)がれています。
「塩釜大明神」
 天神社の信仰を支 (ささ)えたのは塩の生産による恵みが大きく寄与したので塩生産の神として祭りつがれましたのが塩釜大明神です。 明治の中頃 二ツ立、平松、大炊田 (おおいだ)の塩田面積は県内の4分の1で、塩の欲しい山手の米良、綾などの道がひらかれ、その地から塩釜様を拝 (おが)みに来る年中行事も行われる大切な塩の神様であった。

この天神社と塩釜大明神の二つが揃 (そろ)って二ツ立神社であり、二ツ立の伝統の証 (あか)しであって魂 (たましい)になっています。
(塩作りの方法も書いてあります。 塩田 (えんでん)、潮が入る水路、1 砂まき、2 潮水まき、3 乾くようにすじつけ、4 乾いた砂を集める。 5 集めた砂を箱 (ぬい桶 (おけ))に入れ上から潮水をかけ濃い塩水を取り出す。 6 濃い潮水を10時間ぐらい煮 (に)つめる。 7 ワラで作った容器 (つと)に入れて苦塩 (にがり)を分離する。 8 完成。)
二ツ立氏子 (うじこ)一同敬白 (けいはく、敬って申し上げること。)
と書かれています。



写真CO: 西を見たものです。 左は津波避難タワーです。



写真CP: 二ツ立津波避難タワーの階段です。



写真CQ: 二ツ立津波避難タワーです。



写真CR: 津波避難タワーの上部です。



写真CS: 津波避難タワーの下部です。



写真CT: 南を見たものです。



写真CU: 東を見たものです。 社殿が左に見えます。



写真CV: 側面から見た社殿です。 東を見たものです。



写真CW: 2つの社殿の間のところです。



写真CX: 植物のシュロチクがあります。



写真CY: 左は説明板がある小さい方の社殿です。 北を見たものです。



写真CZ: 内側から見た津波避難タワーの階段です。 北を見たものです。



写真DA: 内側から見た津波避難タワー。



写真DB: 内側から見た津波避難タワーです。 西を見たものです。



写真DC: 北を見たものです。



写真DD: 津波避難タワーの階段です。



写真DE: 見上 (あ)げた階段です。



写真DF: 階段の底が見えます。



写真DG: 津波避難タワーです。 柱に、上階にたまった雨水を流すバイプと思われるものがあります。



写真DH: 津波避難タワーの柱です。 南東を見たものです。



写真DI: 南を見たものです。



写真DJ: 奥に二ツ立地区 営農研修施設が見えます。 手前は手水舎 (ちょうずや)です。 右端は鳥居 (とりい)です。



写真DK: 二ツ立地区営農研修施設の敷地です。 ゴミ置き場、倉庫、時計などがあります。 南東を見たものです。



写真DL:  二ツ立営農研修施設です。 スピーカーの付いた高い柱があります。 東を見たものです。



写真DM:  左は二ツ立地区 自主防災隊機庫で奥は二ツ立地区営農研修施設です。



写真DN:  飲料水の自動販売機があります。



写真DO:  北を見たものです。 左は二ツ立神社です。



写真DP:  「標高 2 m 、広瀬北小学校区 地域づくり協議会、二ツ立地区 2008年1月」と書いてある標柱があります。



写真DQ:  掲示板 (けいじばん)があります。



写真DR:  「二ツ立地区 自主防災隊機庫」と書いてあります。 北を見たものです。



写真DS:  右は二ツ立地区営農研修施設、左は二ツ立地区 自主防災隊機庫です。



写真DT: 二ツ立地区営農研修施設の敷地です。



写真DU: スピーカーの付いた高い柱もあります。



写真DV:  「二ツ立地区営農研修施設」と書いてあります。 「標高 2.0 m 」と書いてある標識も見えます。



写真DW: 「標高 2 m 、広瀬北小学校区 地域づくり協議会、二ツ立地区 2008年1月」と書いてある標柱。



写真DX:  南東を見たものです。 左にKDDIの宮崎海底線中継所のタワーが見えます。
「KDDI 宮崎海底線中継所」は宮崎県 宮崎市 佐土原町 大字下田島 字大炊田にあります。
高さ約90 mのマイクロ波通信タワー、外国とも接続している光ファイバーの海底ケーブルもあります。 この塔は頂点に昼でもよく見える点滅灯があり、遠くからでもよく目立ちます。



写真DY: 北を見たものです。 先ほどの二ツ立神社や津波避難タワーが見えます。



写真DZ:  道端 (みちばた)に野草の「ジシバリの花」が咲いていました。



写真EA: 「クローバーの花」が咲いていました。



写真EB:  南を見たものです。 橋があります。



写真EC: 左に太陽光発電所が見えます。



写真ED:  KDDIの宮崎海底線中継所のタワーが見えます。



写真EE: 南東を見たものです。 遠くに建物が見えます。



写真EF: 東を見たものです。



写真EG: 東を見たものです。 遠くに太陽光発電のパネルが見えます。



写真EH: 北東を見たものです。 左に民家も見えます。



写真EI: 北を見たものです。 津波避難タワーも見えます。



写真EJ: 北西を見たものです。



写真EK: 西を見たものです。 白い色の建物は養鰻場 (ようまんじょう、鰻 (うなぎ)を養殖しているところです。)です。 左に小さめの川があります。



写真EL: 南西を見たものです。 川が見えます。



写真EM: 南を見たものです。



写真EN: 橋から西を見たものです。 右の白い建物は養鰻場 (ようまんじょう)です。



写真EO:  橋から東を見たものです。



写真EP: 川のそばに水位計があります。



写真EQ: 太陽光発電のパネルを近くから見たものです。 東を見たものです。



写真ER: 野草の「オオイヌノフグリの花」が咲いていました。



写真ES: 北を見たものです。 右は太陽光発電のパネルです。 奥に小さく二ツ立地区津波避難タワーが見えています。 左の白い建物は養鰻場 (ようまんじょう)です。



写真ET: 北西を見たものです。 白い建物は養鰻場 (ようまんじょう)です。 そばに小さめの川が流れています。



写真EU: 白い建物は養鰻場 (ようまんじょう)です。



写真EV: 道のそばに「土筆 (つくし)」が生 (は)えていました。



写真EW: 「たんぽぽの綿毛 (わたげ)」です。



写真EX: 野草の「ゲンノショウコの葉」が見えます。 赤色の葉もあります。



写真EY: 右に若い2人が歩いていました。 津波避難タワーも見えます。 北を見たものです。



写真EZ: 野草の「ナズナの花」が咲いていました。



写真FA: 野草の「ホトケノザの花」です。



写真FB: 西を見たものです。 白い建物は養鰻場 (ようまんじょう)です。



写真FC: 養鰻場 (ようまんじょう)があります。



写真FD: 北を見たものです。 津波避難タワーが見えています。



写真FE: 二ツ立神社の鳥居 (とりい)や津波避難タワーが見えます。 北を見たものです。



写真FF: 西を見たものです。 養鰻場 (ようまんじょう)があります。



写真FG: 鰻 (うなぎ)を育てる施設が見えます。



写真FH: 円筒形のタンクがあります。



写真FI: 道の両側が養鰻場 (ようまんじょう)になっています。 西を見たものです。



写真FJ: 長い養鰻場 (ようまんじょう)の施設です。



写真FK: 奥に民家もあります。



写真FL: 道の左右に養鰻場の施設があります。



写真FM: 自動車も見えます。



写真FN: 養鰻場の敷地です。



写真FO: ハウスの中は養鰻場になっています。



写真FP: 大型のトラックも見えます。



写真FQ: 宮崎市 佐土原町 二ツ立地区にある養鰻場 (ようまんじょう)。



写真FR: 柱に「(有)高木養鰻場」と書いてあります。



写真FS: トラックです。



写真FT: 養鰻場。



写真FU: 養鰻場の白い建物です。



写真FV: 二ツ立地区にある養鰻場です。 北を見たものです。



写真FW: ここも養鰻場の施設です。



写真FX: 養鰻場のそばに用水路があります。 西を見たものです。



写真FY: 南西を見たものです。



写真FZ: 南を見たものです。



写真GA: 東を見たものです。



写真GB:  養鰻場の白い建物とハウスです。 東を見たものです。



写真GC: 近くの用水路です。



写真GD: 西を見たものです。



写真GE:  北を見たものです。 
二ツ立地区の津波避難タワー、二ツ立神社の鳥居 (とりい)も見えます。



写真GF:  二ツ立津波避難タワーと鳥居 (とりい)です。



写真GG:  二ツ立津波避難タワーの上の太陽電池がよく見えます。



写真GH:  「ヤグルマソウの花」が咲いていました。



写真GI:  「シバザクラの花」が咲いていました。



写真GJ:  二ツ立神社の「葉ぼたん」です。



写真GK:  「葉ぼたん」です。



写真GL: 二ツ立避難タワーです。



写真GM: 二ツ立神社に花がきれいに咲いていました。



写真GN: 二ツ立神社の近くです。 北を見たものです。



写真GO: 一ツ瀬川の堤防の上にあがる道を戻 (もど)ります。 西を見たものです。



写真GP: 一ツ瀬川の堤防の上の道です。 東を見たものです。



写真GQ: 先ほど歩いた二ツ立地区の道です。 南を見たものです。



写真GR: 一ツ瀬川の堤防のそばにあるサイレンです。 ダムの放流などで水位が上がる時などにサイレンで知らせます。



写真GS: 堤防の上の道とサイレンです。 東を見たものです。



写真GT: 一ツ瀬川河口の浜辺 (はまべ)のところに戻 (もど)って来ました。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)