平和の塔 (内部公開)、平和台 (八紘一宇の塔の内部公開、平和の塔の内側 (中)、大きな石膏 (せっこう)のレリーフ (浮き彫り)、縦長の木製社 (やしろ)、はっこういちうの塔、「起点 第18回オリンピック東京大会 国内聖火リレー」と書いてある円盤 (えんばん)、平和台公園、昔は八紘台 (はっこうだい)の八紘一宇 (はっこういちう)の塔と呼ばれていた、平和の塔の展望所から見たUMK テレビ宮崎と高層ホテルのオーシャン45 (宮崎市の展望))  (宮崎県 宮崎市 下北方町 越ヶ迫)







<標高、位置>  平和の塔は
標高 約60 m
 北緯31度56分53秒  東経131度24分52秒

<標高、位置>  平和台公園の駐車場は
標高 約50 m
 北緯31度56分50秒  東経131度24分55秒

<標高、位置>  UMKテレビ宮崎は
標高 数 m
 北緯31度55分48秒  東経131度24分41秒

<標高、位置>  オーシャン45(シェラトン・グランデ・オーシャンリゾート)は
標高 約10 m
 北緯31度57分32秒  東経131度28分12秒


 「平和台公園」は宮崎県 宮崎市 下北方町 越ヶ迫 にあります。

 平和の塔に八紘一宇 (はっこういちう)と彫 (ほ)ってあります。 「八紘一宇 (はっこういちう)」とは世界を1つの家とすることだそうです。 太平洋戦争期、日本の海外進出を正当化するために用いた標語です。 日本書紀に由来 (ゆらい)しています。 塔内の床や天井 (てんじょう)に8角形があり、広場の拍手 (はくしゅ)をして音がビーンと響く所にも8角形の石があります。 中の石膏 (せっこう)のレリーフ (浮き彫り)も8つあります。 これは八紘一宇の8と関係があると思います。 平和の塔の北側には「紀元二千六百年」と彫ってあります。 これは建設された昭和15年 (太平洋戦争は昭和16年12月8日に開戦。)が神武天皇の即位 (そくい、天皇になること。)から2600年に当たるからです。 平和の塔は延 (の)べ約6万人を動員して作られました。 土台の石 (切り石)は国内と日本人会を通じて国外から寄贈されました。 切り石は1789個、石材は834立法メートルです。 塔の外観は神社のお祓 (はら)いのときの和紙で作った御幣 (ごへい)を象徴しています。 戦前の日本の考え方が色濃く表現されている塔です。 塔の内部にある8つの石膏 (せっこう)のレリーフ (浮き彫り)も同様です。
 パンフレットから、
 「平和の塔」は着工が昭和14年5月20日で竣工 (完成すること。)が昭和15年11月25日です。 設計は日名子実三 (ひなごじつぞう、彫刻家 (塔の模型作成))と南省吾 (建築家 (構造・仕様設計)で施工は大林組です。 総工費は69万5000円でした。 建設当時の名称は八紘之基柱 (あめつちのもとはしら)でした。 構造は鉄筋コンクリート造りで、塔の外側周囲には、主に高岡と清武産の日向石 (溶結凝灰岩)の切り石を積み重ねてあります。 地上高は31.5 m 、基礎部分まで含めた塔の高さは36.4 m です。 建設当時の日本一の高い建物は東京の丸ビル (約30 m )でした。
平和の塔は日本書紀に記 (しる)された神武天皇の即位 (そくい)から2600年に当たる昭和15年に「紀元2600年記念事業」の1つとして建設されました。 当時の戦争に向かう時代背景の中で建設された施設です。 完成までに1年6ヶ月を要 (よう)しました。
 平和の塔の4隅 (すみ)には4つの大きな像があります。 正面左手前方が荒御魂像 (あらみたま、武人)、正面右手前方が和御魂像 (にぎみたま、工人)、正面左手後方が奇御魂像 (くしみたま、漁人)、正面右手後方が幸御魂像 (さちみたま、農人)です。 これらの像は高さ4.5 m で信楽焼 (しがらきやき、滋賀県 甲賀郡の南西部の町あたりで焼かれる陶器 (とうき)。)で作製されています。 荒御魂像 (武人)と塔の正面の「八紘一宇 (はっこういちう)」の文字は戦後、撤去 (てっきょ)あるいは消されていました。 昭和20年の敗戦の後、連合司令部 (GHQ)の最高司令官 マッカーサーが政府に対して「神道指令」を出しました。 これにより武人の像と「八紘一宇」の文字がなくなっていました。 武人の像は昭和37年、「八紘一宇」の文字は昭和40年に復元されました。
 平和の塔の内部には、「八紘一宇 (はっこういちう)」と毛筆で書いた縦長の和紙が以前は掛 (か)けてあった奉納庫、8点の石膏 (せっこう)のレリーフ (浮き彫り彫刻 (ちょうこく))、塔内地下庫、塔内階段、入り口の青銅扉 (とびら)、手すり、明 (あ)かり窓、太い柱などがあります。
 8つある石膏レリーフは、日名子実三 (ひなごじつぞう、彫刻家 (塔の模型作成))の作成した縦長の(a) 紀元2600年 (鏡を手に持った女性のまわりに子供たち、トラック、列車、上部に兵隊さんが描 (えが)かれています。)、(b) 紀元元年 (神武天皇が奈良県 橿原 (かしはら)で初代天皇に即位された様子 (ようす)。)、(c) 明治維新 (大政奉還で、明治天皇が京都から東京へお移りになる様子。)、(d) 地図1 (地球の西半球の図、南アメリカなど。)、(e) 地図2 (地球の東半球の図、日本など。)、(f) 国土奉還 (葦原の中つ国 (あしはらのなかつくに: 日本)を治 (おさ)めていた大国主の命 (おおくにぬしのみこと)が、天照大神 (あまてらすおおみかみ)の遣 (つか)い神に国をお譲 (おゆず)りする様子。)、(g) 縦長の天孫降臨 (国譲りの後、天照大神の孫 ニニギノミコトがオオミカミの命令で高天原 (たかまがはら)から葦原の中つ国 (日本)を治めるため、お供の神々を伴って降臨される様子。)、(h) 波限の産屋 (なぎさのうぶや、ウカヤフキアエズノミコトが鵜戸 (うど)に誕生した様子。 山幸彦と結婚したトヨタマヒメが妊娠して、産屋 (うぶや)の屋根に鵜 (う)の羽を葺 (ふ)き終わる前に生まれたことからウカヤフキアエズノミコトと名付けられました。)。
 木製の「奉納庫」は塔の入り口から入って正面にあります。 かっては秩父宮殿下 (昭和天皇の弟君)がお書きになった「八紘一宇 (はっこういちう)」の御真筆が納 (おさ)めてありました。
 「塔内地下庫」 塔内部の中心の床には、8角形の台座があり、その地下には「八紘一宇」の文字が縦長の銅板に刻 (きざ)まれたものが木箱に入れて納 (おさ)められています。
 「塔内階段」 塔の地上高さは31.5 m 、10階建ての構造になっています。 10階までは階段で登ることができます。 本日の内部公開では1階部分のみの公開です。
 「入り口の青銅扉 (せいどうとびら)」には神武天皇が美々津港 (みみつこう)からお船出した様子 (ようす)が描 (えが)かれています。 それを囲 (かこ)む62の模様は、古事記、日本書紀に記 (しる)された色々な物が描かれています。


写真A: 「平和の塔 内部公開会場」と書いてあります。 駐車場から平和の塔の前の広場に上がる入り口です。



写真B: 平和台公園にある「平和の塔」です。 西北西を見たものです。
「平和台公園」は宮崎県 宮崎市 下北方町 越ヶ迫 にあります。
平和の塔に八紘一宇 (はっこういちう)と彫 (ほ)ってあります。 「八紘一宇 (はっこういちう)」とは世界を1つの家とすることだそうです。 太平洋戦争期、日本の海外進出を正当化するために用いた標語です。 日本書紀に由来 (ゆらい)しています。 塔内の床や天井 (てんじょう)に8角形があり、広場の拍手 (はくしゅ)をして音がビーンと響く所にも8角形の石があります。 中の石膏 (せっこう)のレリーフ (浮き彫り)も8つあります。 これは八紘一宇の8と関係があると思います。 平和の塔の北側には「紀元二千六百年」と彫ってあります。 これは建設された昭和15年 (太平洋戦争は昭和16年12月8日に開戦。)が神武天皇の即位 (そくい、天皇になること。)から2600年に当たるからです。 平和の塔は延 (の)べ約6万人を動員して作られました。 土台の石 (切り石)は国内と日本人会を通じて国外から寄贈されました。 切り石は1789個、石材は834立法メートルです。 塔の外観は神社のお祓 (はら)いのときの和紙で作った御幣 (ごへい)を象徴しています。 戦前の日本の考え方が色濃く表現されている塔です。 塔の内部にある8つの石膏 (せっこう)のレリーフ (浮き彫り)も同様です。
 パンフレットから、
 「平和の塔」は着工が昭和14年5月20日で竣工 (完成すること。)が昭和15年11月25日です。 設計は日名子実三 (ひなごじつぞう、彫刻家 (塔の模型作成))と南省吾 (建築家 (構造・仕様設計)で施工は大林組です。 総工費は69万5000円でした。 建設当時の名称は八紘之基柱 (あめつちのもとはしら)でした。 構造は鉄筋コンクリート造りで、塔の外側周囲には、主に高岡と清武産の日向石 (溶結凝灰岩)の切り石を積み重ねてあります。 地上高は31.5 m 、基礎部分まで含めた塔の高さは36.4 m です。 建設当時の日本一の高い建物は東京の丸ビル (約30 m )でした。
平和の塔は日本書紀に記 (しる)された神武天皇の即位 (そくい)から2600年に当たる昭和15年に「紀元2600年記念事業」の1つとして建設されました。 当時の戦争に向かう時代背景の中で建設された施設です。 完成までに1年6ヶ月を要 (よう)しました。
 平和の塔の4隅 (すみ)には4つの大きな像があります。 正面左手前方が荒御魂像 (あらみたま、武人)、正面右手前方が和御魂像 (にぎみたま、工人)、正面左手後方が奇御魂像 (くしみたま、漁人)、正面右手後方が幸御魂像 (さちみたま、農人)です。 これらの像は高さ4.5 m で信楽焼 (しがらきやき、滋賀県 甲賀郡の南西部の町あたりで焼かれる陶器 (とうき)。)で作製されています。 荒御魂像 (武人)と塔の正面の「八紘一宇 (はっこういちう)」の文字は戦後、撤去 (てっきょ)あるいは消されていました。 昭和20年の敗戦の後、連合司令部 (GHQ)の最高司令官 マッカーサーが政府に対して「神道指令」を出しました。 これにより武人の像と「八紘一宇」の文字がなくなっていました。 武人の像は昭和37年、「八紘一宇」の文字は昭和40年に復元されました。
 平和の塔の内部には、「八紘一宇 (はっこういちう)」と毛筆で書いた縦長の和紙が以前は掛 (か)けてあった奉納庫、8点の石膏 (せっこう)のレリーフ (浮き彫り彫刻 (ちょうこく))、塔内地下庫、塔内階段、入り口の青銅扉 (とびら)、手すり、明 (あ)かり窓、太い柱などがあります。
 8つある石膏レリーフは、日名子実三 (ひなごじつぞう、彫刻家 (塔の模型作成))の作成した縦長の(a) 紀元2600年 (鏡を手に持った女性のまわりに子供たち、トラック、列車、上部に兵隊さんが描 (えが)かれています。)、(b) 紀元元年 (神武天皇が奈良県 橿原 (かしはら)で初代天皇に即位された様子 (ようす)。)、(c) 明治維新 (大政奉還で、明治天皇が京都から東京へお移りになる様子。)、(d) 地図1 (地球の西半球の図、南アメリカなど。)、(e) 地図2 (地球の東半球の図、日本など。)、(f) 国土奉還 (葦原の中つ国 (あしはらのなかつくに: 日本)を治 (おさ)めていた大国主の命 (おおくにぬしのみこと)が、天照大神 (あまてらすおおみかみ)の遣 (つか)い神に国をお譲 (おゆず)りする様子。)、(g) 縦長の天孫降臨 (国譲りの後、天照大神の孫 ニニギノミコトがオオミカミの命令で高天原 (たかまがはら)から葦原の中つ国 (日本)を治めるため、お供の神々を伴って降臨される様子。)、(h) 波限の産屋 (なぎさのうぶや、ウカヤフキアエズノミコトが鵜戸 (うど)に誕生した様子。 山幸彦と結婚したトヨタマヒメが妊娠して、産屋 (うぶや)の屋根に鵜 (う)の羽を葺 (ふ)き終わる前に生まれたことからウカヤフキアエズノミコトと名付けられました。)。
 木製の「奉納庫」は塔の入り口から入って正面にあります。 かっては秩父宮殿下 (昭和天皇の弟君)がお書きになった「八紘一宇 (はっこういちう)」の御真筆が納 (おさ)めてありました。
 「塔内地下庫」 塔内部の中心の床には、8角形の台座があり、その地下には「八紘一宇」の文字が縦長の銅板に刻 (きざ)まれたものが木箱に入れて納 (おさ)められています。
 「塔内階段」 塔の地上高さは31.5 m 、10階建ての構造になっています。 10階までは階段で登ることができます。 本日の内部公開では1階部分のみの公開です。
 「入り口の青銅扉 (せいどうとびら)」には神武天皇が美々津港 (みみつこう)からお船出した様子 (ようす)が描 (えが)かれています。 それを囲 (かこ)む62の模様は、古事記、日本書紀に記 (しる)された色々な物が描かれています。



写真C: 宮崎市にある平和の塔の上部です。 塔に「八紘一宇 (はっこういちう)」と書いてあります。 塔の四角に大きな像があります。



写真D: 平和の塔の下部です。 塔への入り口も見えます。



写真E: 平和の塔の内部公開でテントが設営されています。 手前にその石の上で手をたたくと「ビーン ビーン」と音が反響して響 (ひび)く所が見えます。



写真F: 奥は駐車場です。 入り口を見たものです。



写真G: 看板 (かんばん)があります。



写真H: 平和の塔の前の広場です。 北北東を見たものです。



写真I: 北を見たものです。



写真J: 西北西を見たものです。 平和の塔の前の広場です。



写真K: 塔の前の広場です。 花を植えてあります。



写真L: 南南西を見たものです。 広場です。



写真M: 広場の南側です。



写真N: 広場への入り口です。 先には駐車場があります。



写真O: 広場の真ん中 (まんなか)にある8角形の石です。 この上で拍手 (はくしゅ)すると「ビーン ビーン」と音が多重反響して響 (ひび)きます。 関東地方の日光輪王寺薬師堂にある鳴き龍 (なきりゅう)と同じ現象 (多重反響現象、フラッター エコー)です。



写真P: 「「平和の塔」内部公開受付 平成28年11月19日 (土) 9時〜15時」と書いてある看板 (かんばん)があります。



写真Q: 階段の下から見上 (みあ)げた平和の塔です。 両側に松明 (たいまつ)の火を入れる金属製の籠 (かご)が見えます。 階段の両側に手すりがあります。



写真R: 平和の塔の幅広の階段です。



写真S: 階段の下部はこのようになっています。



写真T: 平和の塔の内部公開でテントを張 (は)ってあります。



写真U: 「八紘一宇 (はっこういちう)」と彫 (ほ)ってある平和の塔です。



写真V: 平和の塔の内部に入る入り口です。 今日は内部公開で扉 (とびら)が開いています。 人も見えます。



写真W: 右にガードマンがいました。 入り口のそばです。



写真X: 入り口の近くの階段です。



写真Y: 入り口の上部です。 青銅と思われる彫り物 (ほりもの)があります。



写真Z: 「平和の塔」の入り口の扉 (とびら)です。 青銅製と思われます。 古代の船、右に鳥などを彫って (ほって)あります。 扉の左下に扉を開閉するときの取っ手 (とって)が見えます。
「入り口の青銅扉 (せいどうとびら)」には神武天皇が美々津港 (みみつこう)からお船出した様子 (ようす)が描 (えが)かれています。 それを囲 (かこ)む62の模様は、古事記、日本書紀に記 (しる)された色々な物が描かれています。



写真AA: 入り口の扉 (とびら)の中部です。 多くに人が船の盧(ろ)を漕 (こ)ぐようすも彫 (ほ)られています。 左に扉を開閉するときの取っ手 (とって)が見えます。
「入り口の青銅扉 (せいどうとびら)」には神武天皇が美々津港 (みみつこう)からお船出した様子 (ようす)が描 (えが)かれています。 それを囲 (かこ)む62の模様は、古事記、日本書紀に記 (しる)された色々な物が描かれています。



写真AB: 「平和の塔」の入り口の扉 (下部)です。 青銅製と思われます。
「入り口の青銅扉 (せいどうとびら)」には神武天皇が美々津港 (みみつこう)からお船出した様子 (ようす)が描 (えが)かれています。 それを囲 (かこ)む62の模様は、古事記、日本書紀に記 (しる)された色々な物が描かれています。



写真AC: 左の扉 (とびら)です。 古代の船を漕 (こ)ぐ人たち、左に古代の家、鹿、鯛 (たい)、蛸 (たこ)などが彫 (ほ)られています。
「入り口の青銅扉 (せいどうとびら)」には神武天皇が美々津港 (みみつこう)からお船出した様子 (ようす)が描 (えが)かれています。 それを囲 (かこ)む62の模様は、古事記、日本書紀に記 (しる)された色々な物が描かれています。



写真AD: 左の扉の中部です。 左に伊勢海老 (いせえび)、鮫 (さめ)、海亀 (うみがめ)、法螺貝 (ほらがい)も彫られています。 右端 (みぎはし)に扉を開閉するときの取っ手 (とって)が見えます。
「入り口の青銅扉 (せいどうとびら)」には神武天皇が美々津港 (みみつこう)からお船出した様子 (ようす)が描 (えが)かれています。 それを囲 (かこ)む62の模様は、古事記、日本書紀に記 (しる)された色々な物が描かれています。



写真AE: 左の扉 (とびら)の下部です。 古代の船などが彫 (ほ)られています。 右上に扉を開閉するときの取っ手 (とって)が見えます。
「入り口の青銅扉 (せいどうとびら)」には神武天皇が美々津港 (みみつこう)からお船出した様子 (ようす)が描 (えが)かれています。 それを囲 (かこ)む62の模様は、古事記、日本書紀に記 (しる)された色々な物が描かれています。



写真AF: 「入り口の青銅扉 (せいどうとびら)」には神武天皇が美々津港 (みみつこう)からお船出した様子 (ようす)が描 (えが)かれています。 それを囲 (かこ)む62の模様は、古事記、日本書紀に記 (しる)された色々な物が描かれています。



写真AG: 平和の塔の内部に入りました。 天井 (てんじょう)を見上 (みあ)げたものです。 正8角形の穴 (あな)があります。



写真AH: 中ほどに柵 (さく)もあります。 下は細長い木製の社 (やしろ)(奉納庫)です。



写真AI: 入り口から見て正面に細長い社 (やしろ)(奉納庫)があります。



写真AJ: 平和の塔の内部です。
木製の「奉納庫」は塔の入り口から入って正面にあります。 かっては秩父宮殿下 (昭和天皇の弟君)がお書きになった「八紘一宇 (はっこういちう)」の御真筆が納 (おさ)めてありました。



写真AK: 木製の社 (やしろ)(奉納庫)の下部です。 平和の塔の中です。



写真AL: (e) 地図2 (地球の東半球の図、日本など。)。
平和の塔の中の壁 (かべ)に石膏 (せっこう)製のレリーフ (浮き彫り (うきぼり))があります。 日本列島、アジア大陸、太平洋などを描 (えが)いてあります。



写真AM: (f) 国土奉還 (葦原の中つ国 (あしはらのなかつくに: 日本)を治 (おさ)めていた大国主の命 (おおくにぬしのみこと)が、天照大神 (あまてらすおおみかみ)の遣 (つか)い神に国をお譲 (おゆず)りする様子。)。
石膏 (せっこう)製のレリーフ (浮き彫り)です。 刀などを持った人たちが描 (えが)かれてあります。



写真AN: 天井 (てんじょう)を見たものです。



写真AO: (g) 縦長の天孫降臨 (国譲りの後、天照大神の孫 ニニギノミコトがオオミカミの命令で高天原 (たかまがはら)から葦原の中つ国 (日本)を治めるため、お供の神々を伴って降臨される様子。)。
槍 (やり)を持った男の人、また女性も描かれてあります。



写真AP: (g) 縦長の天孫降臨 (国譲りの後、天照大神の孫 ニニギノミコトがオオミカミの命令で高天原 (たかまがはら)から葦原の中つ国 (日本)を治めるため、お供の神々を伴って降臨される様子。)。
槍 (やり)を持った男の人の石膏レリーフです。



写真AQ: 黄色の照明器具で石膏のレリーフを照 (て)らしてあります。
石膏レリーフは(g) 縦長の天孫降臨 (国譲りの後、天照大神の孫 ニニギノミコトがオオミカミの命令で高天原 (たかまがはら)から葦原の中つ国 (日本)を治めるため、お供の神々を伴って降臨される様子。)。



写真AR: (h) 波限の産屋 (なぎさのうぶや、ウカヤフキアエズノミコトが鵜戸 (うど)に誕生した様子。 山幸彦と結婚したトヨタマヒメが妊娠して、産屋 (うぶや)の屋根に鵜 (う)の羽を葺 (ふ)き終わる前に生まれたことからウカヤフキアエズノミコトと名付けられました。)。
赤ん坊を抱 (だ)いた女性も描かれてあります。 平和の塔の中です。



写真AS: 平和の塔の中から見た入り口の扉 (とびら)です。



写真AT: 平和の塔の中にドアがあります。 この奥は別室になっているそうです。



写真AU: (c) 明治維新 (大政奉還で、明治天皇が京都から東京へお移りになる様子。)。
馬に乗った人などが描かれてあります。



写真AV: (e) 地図2 (地球の東半球の図、日本など。)。
アジア大陸などが描かれてあります。



写真AW: (a) 紀元2600年 (鏡を右手に持った女性のまわりに子供たち、トラック、列車、上部に兵隊さんが描 (えが)かれています。)。
子どもたちが手をつないでいます。 石膏 (せっこう)レリーフです。



写真AX: (a) 紀元2600年 (鏡を右手に持った女性のまわりに子供たち、トラック、列車、上部に兵隊さんが描 (えが)かれています。)。
左下にトラックが描かれてあります。



写真AY: (b) 紀元元年 (神武天皇が奈良県 橿原 (かしはら)で初代天皇に即位された様子 (ようす)。)。
馬に乗った軍人が描 (えが)かれています。



写真AZ: (d) 地図1 (地球の西半球の図、南アメリカなど。)。
南アメリカを描いてあります。



写真BA: 平和の塔の中に温度計と湿度計 (しつどけい)がありました。



写真BB: 中の床面にも8角形が描 (えが)かれてあります。 これは塔内地下庫です。
「塔内地下庫」 塔内部の中心の床には、8角形の台座があり、その地下には「八紘一宇」の文字が縦長の銅板に刻 (きざ)まれたものが木箱に入れて納 (おさ)められています。



写真BC: 入り口の上部です。 手すりもあります。



写真BD: 中から見た入り口の上部です。 下は扉 (とびら)です。



写真BE: 真上 (まうえ)を見たものです。 太い柱もあります。



写真BF: 平和の塔の中の天井 (てんじょう)です。



写真BG: 下は細長い社 (やしろ)(奉納庫)です。 上を見たものです。



写真BH: 平和の塔の中にある細長い木製社 (やしろ)(奉納庫)です。
木製の「奉納庫」は塔の入り口から入って正面にあります。 かっては秩父宮殿下 (昭和天皇の弟君)がお書きになった「八紘一宇 (はっこういちう)」の御真筆が納 (おさ)めてありました。



写真BI: 平和の塔の中の太い柱です。 左は社 (やしろ)(奉納庫)です。



写真BJ: 平和の塔の中を見上 (みあ)げたものです。 左端は石膏 (せっこう)レリーフです。



写真BK: 中にカーテンのある入り口があります。 この奥は登り階段になっているそうです。 この階段で平和の塔の10階まで登ることができます。 管理者は登れるそうですが、一般の人は立入禁止だそうです。
「塔内階段」 塔の地上高さは31.5 m 、10階建ての構造になっています。 10階までは階段で登ることができます。 本日の内部公開では1階部分のみの公開です。



写真BL: カーテンのある入り口の下部です。 平和の塔の中です。
「塔内階段」 塔の地上高さは31.5 m 、10階建ての構造になっています。 10階までは階段で登ることができます。 本日の内部公開では1階部分のみの公開です。



写真BM: 内側から見た扉 (とびら)の外です。



写真BN: 平和の塔の中から見た外の景色です。



写真BO: 上を見たものです。



写真BP: 塔の中の床面です。
「塔内地下庫」 塔内部の中心の床には、8角形の台座があり、その地下には「八紘一宇」の文字が縦長の銅板に刻 (きざ)まれたものが木箱に入れて納 (おさ)められています。



写真BQ: 「平和の塔」の中の太い柱です。



写真BR: 上を見たものです。



写真BS: 塔の中の説明者と見学者たちです。 奥に石膏 (せっこう)レリーフが見えます。
石膏レリーフは縦長の(a) 紀元2600年 (鏡を右手に持った女性のまわりに子供たち、トラック、列車、上部に兵隊さんが描 (えが)かれています。)。



写真BT: 内部の2箇所 (かしょ)に明 (あか)り取りの窓があります。 平和の塔。



写真BU: テレビカメラも来ていました。 平和の塔の中です。
奥の石膏レリーフは(b) 紀元元年 (神武天皇が奈良県 橿原 (かしはら)で初代天皇に即位された様子 (ようす)。)。



写真BV: 中の太い柱です。



写真BW: 中にもガードマンがいらっしゃいました。 入り口は右側です。



写真BX: 塔の中のガードマンです。 奥の上に明 (あか)り取り窓が見えます。



写真BY: 太い柱です。



写真BZ: 見学者たちです。 奥の壁に石膏 (せっこう)レリーフが見えます。
石膏レリーフは(f) 国土奉還 (葦原の中つ国 (あしはらのなかつくに: 日本)を治 (おさ)めていた大国主の命 (おおくにぬしのみこと)が、天照大神 (あまてらすおおみかみ)の遣 (つか)い神に国をお譲 (おゆず)りする様子。)。



写真CA: 説明者と見学者たちです。 平和の塔の内部です。



写真CB: 黄色の照明器具で壁の石膏 (せっこう)レリーフ (浮き彫り)を照らしてあります。
石膏レリーフは(g) 縦長の天孫降臨 (国譲りの後、天照大神の孫 ニニギノミコトがオオミカミの命令で高天原 (たかまがはら)から葦原の中つ国 (日本)を治めるため、お供の神々を伴って降臨される様子。)。



写真CC: 太い柱と壁の石膏レリーフです。
石膏レリーフは(c) 明治維新 (大政奉還で、明治天皇が京都から東京へお移りになる様子。)。



写真CD: テレビカメラが来ていました。 石膏レリーフは(c) 明治維新 (大政奉還で、明治天皇が京都から東京へお移りになる様子。)。



写真CE: 「平和の塔」の内部の見学者たちです。 奥の上に明 (あか)り取り窓があります。



写真CF: 内部の見学者たちです。



写真CG: 塔の中の太い柱です。



写真CH: 塔の中です。
石膏レリーフは(h) 波限の産屋 (なぎさのうぶや、ウカヤフキアエズノミコトが鵜戸 (うど)に誕生した様子。 山幸彦と結婚したトヨタマヒメが妊娠して、産屋 (うぶや)の屋根に鵜 (う)の羽を葺 (ふ)き終わる前に生まれたことからウカヤフキアエズノミコトと名付けられました。)。



写真CI: 「平和の塔」の内部の明り取り窓です。 左は石膏レリーフ。



写真CJ: 中には太い柱が多くあります。



写真CK: 扉 (とびら)の外から見た内部です。



写真CL: 扉 (とびら)の外から見た細長い社 (やしろ)(奉納庫)が見えます。



写真CM: 扉の近くから中を見たものです。



写真CN: 入り口の上部です。



写真CO: 入り口の上部。



写真CP: 外に出ました。 石段が見えます。 左端はテントです。



写真CQ: 外に出ました。



写真CR: こちらにも石段があります。



写真CS: 外に出ました。



写真CT: 平和台公園にある「平和の塔」の上部です。 上の方にも松明 (たいまつ)の火を入れる金属製籠 (かご)があります。
正面左手前方が荒御魂像 (あらみたま、武人)です。 敵の矢・槍 (やり)・剣 (けん)を防ぐ盾 (たて)を前に持っています。
戦後に荒御魂像 (あらみたま、武人)と「八紘一宇」の文字は無くなっていました。 像の下方にも、神社の和紙で作った御幣 (ごへい)のイメージが認められます。



写真CU: 平和の塔です。 右下に先ほどの入り口が見えます。
正面左手前方が荒御魂像 (あらみたま、武人)です。 敵の矢・槍 (やり)・剣 (けん)を防ぐ盾 (たて)を前に持っています。
戦後に荒御魂像 (あらみたま、武人)と「八紘一宇」の文字は無くなっていました。 像の下方にも、神社の和紙で作った御幣 (ごへい)のイメージが認められます。



写真CV: 手前の下は多くの丸い石を埋 (う)め込んであります。



写真CW: 右に柵 (さく)があります。



写真CX: 「平和の塔」の中段の展望所です。



写真CY: 中段の展望所から見た景色 (けしき)です。 「平和の塔」の前の広場が見えます。 東を見たものです。



写真CZ: 下の段の展望所、前の広場が見えます。



写真DA: 広場のまわりには多くの木があります。



写真DB: 西を見たものです。



写真DC: 近くの木が紅葉しています。 夜に平和の塔を照 (て)らす水銀灯も見えます。



写真DD: 平和の塔の左側です。 角 (かど)に松明 (たいまつ)の火を入れる金属製籠 (かご)があります。
平和の塔に八紘一宇 (はっこういちう)と彫 (ほ)ってあります。 「八紘一宇 (はっこういちう)」とは世界を1つの家とすることだそうです。 太平洋戦争期、日本の海外進出を正当化するために用いた標語です。 日本書紀に由来 (ゆらい)しています。 塔内の床や天井 (てんじょう)に8角形があり、広場の拍手 (はくしゅ)をして音がビーンと響く所にも8角形の石があります。 中の石膏 (せっこう)のレリーフ (浮き彫り)も8つあります。 これは八紘一宇の8と関係があると思います。 平和の塔の北側には「紀元二千六百年」と彫ってあります。 これは建設された昭和15年 (太平洋戦争は昭和16年12月8日に開戦。)が神武天皇の即位 (そくい、天皇になること。)から2600年に当たるからです。 平和の塔は延 (の)べ約6万人を動員して作られました。 土台の石 (切り石)は国内と日本人会を通じて国外から寄贈されました。 切り石は1789個、石材は834立法メートルです。 塔の外観は神社のお祓 (はら)いのときの和紙で作った御幣 (ごへい)を象徴しています。 戦前の日本の考え方が色濃く表現されている塔です。 塔の内部にある8つの石膏 (せっこう)のレリーフ (浮き彫り)も同様です。
 パンフレットから、
 「平和の塔」は着工が昭和14年5月20日で竣工 (完成すること。)が昭和15年11月25日です。 設計は日名子実三 (ひなごじつぞう、彫刻家 (塔の模型作成))と南省吾 (建築家 (構造・仕様設計)で施工は大林組です。 総工費は69万5000円でした。 建設当時の名称は八紘之基柱 (あめつちのもとはしら)でした。 構造は鉄筋コンクリート造りで、塔の外側周囲には、主に高岡と清武産の日向石 (溶結凝灰岩)の切り石を積み重ねてあります。 地上高は31.5 m 、基礎部分まで含めた塔の高さは36.4 m です。 建設当時の日本一の高い建物は東京の丸ビル (約30 m )でした。
平和の塔は日本書紀に記 (しる)された神武天皇の即位 (そくい)から2600年に当たる昭和15年に「紀元2600年記念事業」の1つとして建設されました。 当時の戦争に向かう時代背景の中で建設された施設です。 完成までに1年6ヶ月を要 (よう)しました。
 平和の塔の4隅 (すみ)には4つの大きな像があります。 正面左手前方が荒御魂像 (あらみたま、武人)、正面右手前方が和御魂像 (にぎみたま、工人)、正面左手後方が奇御魂像 (くしみたま、漁人)、正面右手後方が幸御魂像 (さちみたま、農人)です。 これらの像は高さ4.5 m で信楽焼 (しがらきやき、滋賀県 甲賀郡の南西部の町あたりで焼かれる陶器 (とうき)。)で作製されています。 荒御魂像 (武人)と塔の正面の「八紘一宇 (はっこういちう)」の文字は戦後、撤去 (てっきょ)あるいは消されていました。 昭和20年の敗戦の後、連合司令部 (GHQ)の最高司令官 マッカーサーが政府に対して「神道指令」を出しました。 これにより武人の像と「八紘一宇」の文字がなくなっていました。 武人の像は昭和37年、「八紘一宇」の文字は昭和40年に復元されました。
 平和の塔の内部には、「八紘一宇 (はっこういちう)」と毛筆で書いた縦長の和紙が以前は掛 (か)けてあった奉納庫、8点の石膏 (せっこう)のレリーフ (浮き彫り彫刻 (ちょうこく))、塔内地下庫、塔内階段、入り口の青銅扉 (とびら)、手すり、明 (あ)かり窓、太い柱などがあります。
 8つある石膏レリーフは、日名子実三 (ひなごじつぞう、彫刻家 (塔の模型作成))の作成した縦長の(a) 紀元2600年 (鏡を手に持った女性のまわりに子供たち、トラック、列車、上部に兵隊さんが描 (えが)かれています。)、(b) 紀元元年 (神武天皇が奈良県 橿原 (かしはら)で初代天皇に即位された様子 (ようす)。)、(c) 明治維新 (大政奉還で、明治天皇が京都から東京へお移りになる様子。)、(d) 地図1 (地球の西半球の図、南アメリカなど。)、(e) 地図2 (地球の東半球の図、日本など。)、(f) 国土奉還 (葦原の中つ国 (あしはらのなかつくに: 日本)を治 (おさ)めていた大国主の命 (おおくにぬしのみこと)が、天照大神 (あまてらすおおみかみ)の遣 (つか)い神に国をお譲 (おゆず)りする様子。)、(g) 縦長の天孫降臨 (国譲りの後、天照大神の孫 ニニギノミコトがオオミカミの命令で高天原 (たかまがはら)から葦原の中つ国 (日本)を治めるため、お供の神々を伴って降臨される様子。)、(h) 波限の産屋 (なぎさのうぶや、ウカヤフキアエズノミコトが鵜戸 (うど)に誕生した様子。 山幸彦と結婚したトヨタマヒメが妊娠して、産屋 (うぶや)の屋根に鵜 (う)の羽を葺 (ふ)き終わる前に生まれたことからウカヤフキアエズノミコトと名付けられました。)。
 木製の「奉納庫」は塔の入り口から入って正面にあります。 かっては秩父宮殿下 (昭和天皇の弟君)がお書きになった「八紘一宇 (はっこういちう)」の御真筆が納 (おさ)めてありました。
 「塔内地下庫」 塔内部の中心の床には、8角形の台座があり、その地下には「八紘一宇」の文字が縦長の銅板に刻 (きざ)まれたものが木箱に入れて納 (おさ)められています。
 「塔内階段」 塔の地上高さは31.5 m 、10階建ての構造になっています。 10階までは階段で登ることができます。 本日の内部公開では1階部分のみの公開です。
 「入り口の青銅扉 (せいどうとびら)」には神武天皇が美々津港 (みみつこう)からお船出した様子 (ようす)が描 (えが)かれています。 それを囲 (かこ)む62の模様は、古事記、日本書紀に記 (しる)された色々な物が描かれています。



写真DE: 下の面に丸い石を多く埋 (う)め込 (こ)んであります。



写真DF: 奥に内部公開のテントが見えます。



写真DG: 西を見たものです。 紅葉しています。



写真DH: 夜間に塔を照 (て)らす水銀灯です。



写真DI: こちらにも夜間に塔を照らす水銀灯が2つあります。



写真DJ: 平和の塔の上部です。
正面左手後方が奇御魂像 (くしみたま、漁人)です。 船を漕 (こ)ぐ櫂 (かい)を左手に持っています。 像の下方にも、神社の和紙で作った御幣 (ごへい)のイメージが認められます。



写真DK: 平和の塔の中部です。
正面左手後方が奇御魂像 (くしみたま、漁人)です。 船を漕 (こ)ぐ櫂 (かい)を左手に持っています。 像の下方にも、神社の和紙で作った御幣 (ごへい)のイメージが認められます。



写真DL: きれいな石垣 (いしがき)のような構造になっています。



写真DM: 来た方向を振 (ふ)り返ったものです。



写真DN: 平和の塔の北側です。



写真DO:  まわりは木が茂 (しげ)っています。 紅葉した木もあります。



写真DP:  平和の塔の北側面です。



写真DQ: 平和の塔の上部です。



写真DR: 平和の塔の裏面 (北側面)に「紀元2600年」と彫 (ほ)ってあります。



写真DS: 平和の塔の上部です。
正面右手後方が幸御魂像 (さちみたま、農人)です。



写真DT: 平和の塔の中部です。
正面右手後方が幸御魂像 (さちみたま、農人)です。



写真DU: 平和の塔です。



写真DV: 平和の塔の北側です。 裏にも入り口があります。



写真DW: 平和の塔の東側面です。



写真DX: 下面には丸い石を多く埋 (う)め込 (こ)んであります。



写真DY: 夜間照明の水銀灯です。



写真DZ: 平和の塔の上部です。 「八紘一宇」と彫 (ほ)ってあります。
正面右手前方が和御魂像 (にぎみたま、工人)です。 像の下方にも、神社の和紙で作った御幣 (ごへい)のイメージが認められます。



写真EA: 大きな像があります。 左に「八紘一宇」と書いてあります。
正面右手前方が和御魂像 (にぎみたま、工人)です。 埴輪 (はにわ)の馬、容器が足元 (あしもと)にあります。



写真EB: 像のまわりです。
正面右手前方が和御魂像 (にぎみたま、工人)です。 埴輪 (はにわ)の馬、容器が足元 (あしもと)にあります。



写真EC: 平和の塔の中部です。
正面右手前方が和御魂像 (にぎみたま、工人)です。  像の下方にも、神社の和紙で作った御幣 (ごへい)のイメージが認められます。



写真ED: ガードマンがいます。 先ほどの内部への入り口も少し見えます。



写真EE: 塔の東側です。



写真EF: 下面はこのようになっています。



写真EG: こちらにも展望所があります。 西を見たものです。



写真EH: 展望所から見たものです。



写真EI: 展望所からの風景です。



写真EJ: 広場が見えます。 左上は夜間照明の水銀灯です。



写真EK: 展望所はこのようになっています。



写真EL: 展望所から下段の展望所が2つ見えています。



写真EM: 南を見たものです。



写真EN: 夜に平和の塔を照 (て)らす水銀灯です。



写真EO: 平和の塔の展望所から、木の間に宮崎市 祇園町にある「UMK テレビ宮崎」のアンテナが見えています。



写真EP: 展望所から、平和台の食堂などがある建物が見えます。 南を見たものです。



写真EQ: 平和の塔の展望所から高層ホテルのオーシャン45が見えています。 その右に薄くNHK村角ラジオ放送局の送信アンテナが見えています。



写真ER: 東側に赤い「クロガネモチの実」がそばにありました。 手前は平和の塔の柵 (さく)です。



写真ES: 「平和の塔」の内部公開で、係の人達が見えます。



写真ET: 中央にも展望所があります。 南を見たものです。



写真EU: 中央の展望所から北を見たものです。



写真EV: 中央の展望所から見たものです。



写真EW: 西を見たものです。



写真EX: 中央の展望所から見たもの。



写真EY: 中央の展望所から広場を見たものです。 「平和の塔」の内部公開のテントがあります。



写真EZ: 遠くに高層ホテルのオーシャン45が見えます。 中央展望所から。



写真FA: 東を見たものです。



写真FB: 柵 (さく)などが見えます。



写真FC: 左に内部公開の入り口があります。



写真FD: 中央展望所から見た「平和の塔」の上部です。



写真FE: 中央展望所から見た「八紘一宇」です。



写真FF: 東を見たものです。



写真FG: 中央展望所から真下 (ました)を見たものです。 「起点 第18回オリンピック東京大会 国内聖火リレー」と書いてある円盤 (えんばん)が見えます。



写真FH: 中央展望所から見た幅の広い石段です。



写真FI: 内部公開のテントが広場にも見えます。



写真FJ: 中央展望所の下です。 「起点 第18回オリンピック東京大会 国内聖火リレー」と書いてある円盤 (えんばん)があります。



写真FK: 「起点 第18回オリンピック東京大会 国内聖火リレー」と書いてある円盤 (えんばん)が中央展望所の下側にあります。
昭和39年 (1964年)9月9日に聖火リレーがここから出発しました。
東京オリンピックの前に宮崎市に聖火が到着しました。 平和台公園に作られた聖火台に点火されました。 約4万人の人たちがそれを見守りました。 夜に点火された時に歓声と拍手が巻き起こりました。 美しい花火も打ち上げられました。 国内の4コースの聖火リレーの第2の起点としての式典も行われました。



写真FL: オリンピック聖火リレーの円盤 (えんばん)のそばから南を見たものです。 階段の両側に手すりがあります。



写真FM: 左は古代の家の形をした手を洗う所です。 中に日向市 美々津の石で作られた御手洗 (みたらい)があります。 平和の塔の南にあります。 子どもたちが準備運動をしていました。



写真FN: 「苔 (こけ)」が生 (は)えていました。



写真FO: 「ドングリの実」が落ちていました。



写真FP: トイレの近くから見た平和の塔と駐車場です。 北を見たものです。



写真FQ: 駐車場と木の上に見える平和の塔です。



写真FR: ツアーバスも来ていました。



写真FS: 右は公衆電話ボックスです。 東を見たものです。



写真FT: 右端はトイレ、飲料水の自動販売機、公衆電話ボックスなどが見えます。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)