秋月墓地 (高鍋藩主の墓)、中央公園 (石井十次の像) (高鍋合同庁舎 (法務局高鍋出張所、ハローワーク高鍋)、高鍋町役場、高鍋町中央公民館 (老人福祉センター)、高鍋町体育館)  (宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字上江)







<標高、位置>  秋月墓地は
標高 約20 m
 北緯32度07分44秒  東経131度30分05秒

<標高、位置>  高鍋町 中央公園は
標高 数 m
 北緯32度07分50秒  東経131度30分16秒

<標高、位置>  高鍋 合同庁舎 (法務局高鍋出張所、ハローワーク高鍋)は
標高 数 m
 北緯32度07分49秒  東経131度30分17秒

<標高、位置>  高鍋町 中央公民館は
標高 数 m
 北緯32度07分53秒  東経131度30分19秒

<標高、位置>  高鍋町 体育館は
標高 数 m
 北緯32度07分50秒  東経131度30分17秒

<標高、位置>  高鍋城(舞鶴城)の本丸跡は
標高 約50 m
 北緯32度07分22秒  東経131度30分04秒

<標高、位置>  高鍋町役場は
標高 約10 m
 北緯32度07分41秒  東経131度30分12秒


 「秋月墓地」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字上江 にあります。
高鍋藩主 (秋月)の菩提寺 (ぼだいじ)は大龍寺、安養寺、龍雲寺の3つで、舞鶴城公園の北の山にありました。 今はその寺はなくなっていて、境内 (けいだい)に歴代藩主と一族の家臣の墓があります。 大龍寺は明治初年の廃仏毀釈 (はいぶつきしゃく)で廃寺になりました。 龍雲寺は江戸時代から明治4年 (1871年)まであった曹洞宗 (そうとうしゅう)の寺院です。
秋月墓地 (あきづきぼち)(高鍋藩主 秋月家の墓地) 案内図から、
大龍寺墓地 (2代 秋月種春、4代 秋月種政、5代 秋月種弘、8代 秋月種徳、9代 秋月種任、10代 秋月種殷)、安養寺墓地、龍雲寺墓地 (初代 秋月種長、3代 秋月種信、6代 秋月種美、7代 秋月種茂)、秋月左都夫 (外交官 オーストリア大使)墓地、秋月墓地休憩所 (きゅうけいしょ)、三好善太夫 墓地 (6代藩主 秋月種美 公の家老、上杉治憲 (鷹山) 公に「訓言」を奉 (たてまつ)る。)、高鍋町指定史跡 秋月墓地 (大龍寺墓地、安養寺墓地、龍雲寺墓地) 昭和47年4月25日指定、秋月左都夫 墓地 平成18年12月14日指定。
秋月墓地 (安養寺跡)の説明板から、
種貞、ヲチョウ、左近、感子、好子、左門、クニ、湛玄、理子、松子の墓があります。
 「高鍋藩 (秋月藩)」は1代は種長、2代は種春、3代は種信、4代は種政、5代は種弘、6代は種美、7代は種茂、8代は種徳、9代は種任、10代は種殷です。 高鍋藩 (秋月藩)は宮崎県児湯郡の東部 (高鍋町、木城町、川南町、都農町、日向市の美々津)と串間市、宮崎市 (瓜生野、倉岡の1部)、国富町 (木脇)を持っていました。 外様 (とざま)です。 藩庁は高鍋城 (舞鶴城、高鍋町)で高鍋は初期は財部 (たからべ)と呼 (よ)ばれていました。 秋月は福岡県の筑前国を領有していました。 豊臣秀吉の九州征伐 (せいばつ)のときに島津とともに秀吉軍と戦いましたが、その後、秀吉に恭順 (きょうじゅん)して、日向国 串間 (3万石)に移封されました。 1600年 (慶長5年)関ヶ原の戦いのとき秋月種長は西軍に属して大垣城を守っていましたが、9月15日の関ヶ原の戦いの本戦で、西軍が負けると東軍に属しました。 それで所領を安堵 (あんど)されました。 1604年 (慶長9年)に居城を串間から財部城 (高鍋城)に移しました。 3代秋月種信は1673年に財部 (たからべ)から高鍋に地名を変えました。 4代種政は1689年に弟 (種封)に3000石を分け与えたため、以後高鍋藩は2万7000石となりました。 江戸中期に6代種美の次男は米沢藩 (上杉 氏)に入り、名君 上杉鷹山 (ようざん)となりました。 その兄の7代種茂も高鍋藩の名君となり、1778年 (安永7年)に藩校 明倫堂 (めいりんどう)を開校しました。 秋月は10代のときに明治時代になりました。 1871年 (明治4年)に廃藩置県で高鍋県となりました。 その後に美々津県、宮崎県、鹿児島県、宮崎県になりました。 浄土真宗 (一向宗)は高鍋藩、薩摩藩 (さつまはん)、人吉藩で禁止されていました。

 「高鍋町 中央公園」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字上江 にあります。
高鍋町中央公園は施設面積が9994 平方メートルです。 中央公園には「石井十次の像」、ドーム型の野外舞台、運動遊具、グラウンド ゴルフ場 2面、東屋 (あずまや)、トイレ、芝生 (しばふ)、ベンチ、野外時計などがあります。 石井十次の像は宮崎市にある宮崎県総合文化公園にもあります。

  「石井十次」は慶応元年4月11日(1865年5月5日)に宮崎県 児湯郡 高鍋町で生まれました。 日本で最初に孤児院を創設しました。 「児童福祉の父」と言われます。 石井十次は岡山で医師を目指していましたが中断して、日本最初の孤児院 岡山孤児院を創設しました。 大正3年(1914年)1月30日に宮崎県 木城町で亡くなりました。 岡山孤児院は今はありませんが、石井記念友愛社(宮崎県)と石井記念愛染園(大阪府)が後を引き継いています。 1990年に石井十次顕彰会(宮崎県)により石井十次賞が創設され、毎年、石井十次の精神を引き継いで福祉活動をしている団体にこの賞が贈(おく)られています。
 石井十次は熱心なキリスト教信者でした。 孤児院の児童たちには「満腹主義」といってお腹(なか)いっぱい食べさせました。 十次は音楽幻燈隊を組織し、孤児院の暮らしの映画を上映したり、音楽を演奏したりして募金を集めました。 国内、台湾、韓国、中国、アメリカなどでその活動をしました。 活版印刷、精米(せいまい)などの仕事を児童たちは行いました。 岡山より生活費がかからない宮崎で農場を開墾(かいこん)しました。 60 ヘクタールの広さです。コメ、野菜、桑(くわ)などの栽培をしました。 桑で蚕(かいこ)を養って繭(まゆ)を作らせ、絹織物の材料にしました。 また、女の子には裁縫(さいほう)、男の子には大工(だいく)、鍛冶(かじ、金属を打ちきたえていろんな器物を作ること。 鍬(くわ)、鎌(かま)、包丁(ほうちょう)などを作ります。)も教えました。 最初は石井十次は「先生」と呼ばれていましたが、その内、「おとうさん」と呼ばれるようになりました。 石井十次は演説の中で、「親のない孤児よりもっとかわいそうなのは、心の迷い子、精神の孤児なのです。」と述べています。

 石井十字は、岡山孤児院経営の寄付依存をやめて独立しようと、故郷 宮崎県の茶臼原(ちゃうすばる)という台地で開墾(かいこん)と孤児の移住を始めました。 この台地の開墾は困難を極めて一時は事業をいったん中止せざるをえなくなりした。 しかし、事業を再開し、水田13町歩、畑46町歩、桑畑16町歩という広大な耕地を開墾することに成功しました。 孤児院の茶臼原移転がほぼ終わったわずか2年後の大正3年、腎臓病によって亡くなりました。

 石井十次は岡山県とここ茶臼原に私立小学校を創設しました。 1913年(大正2年)に設立した茶臼原の私立小学校(私立茶臼原尋常小学校)はその後、自治体の方に寄付されました。 石井十次は明治20年(1887年)に岡山県 大宮村に寺の本堂の一部を借りて孤児教育会(後の岡山孤児院)を設立しました。 明治43年(1910年)には、茶臼原に孤児院を移転しました。 石井十次は明治43年46歳のときに、鍬鎌(くわかま)主義教育の実現のため、岡山孤児院の数十棟の宿舎、学校、集会所などを茶臼原の台地に移しました。

 「茶臼原憲法」は大正2年(亡くなる前年)に石井十次によって制定されました。
1.天は父なり、人は同胞なれば、互いに相信じ、相愛すべきこと。
2.天父は恒(つね)に働き給(たま)ふ、我等も倶(とも)に労働すべき。
3.天恩感謝のため、我等は禁酒禁煙を実行し、収入の十分の一を天倉に納(おさ)むること。

 石井十次の孤児院は小舎制という教育方針で、保母1人に十数人の子供たちが1つの小舎(家)で家族のように生活しました。 石井十次はフランスのルソーの「エミール」の影響を受け、宮崎県 西都市あるいは木城町 茶臼原で「自然・労作」教育をやろうと決心しました。 日向茶臼原分院は大正3年 石井十次の死後は大原孫三郎、次に石井の2番目の妻 辰子(たつこ)が院長になりましたが、1926年(昭和元年)に解散しました。 石井十次は明治から大正にかけて3000人以上の孤児の救済と教育を行いました。

 石井十次の宮崎県 茶臼原 関係の年表: 明治27年(1894年)に茶臼原の開拓(かいたく)に着手、明治28年に品子 夫人が亡くなり、辰子と再婚、明治33年に茶臼原の事業を中断、しかし明治38年に再開しました。 明治43年に孤児院の茶臼原移転を本格的に始めました。 大正元年に茶臼原移転をほぼ終わりました。 大正2年(1913年)に私立茶臼原尋常小学校を設立。 また、茶臼原憲法を作りました。 大正3年(1914年)1月30日に宮崎県 木城町で亡くなりました(48歳)。

 「石井記念友愛社」は宮崎県 児湯郡 木城町 椎木 644-1 にあります。 関連の施設などは木城町 椎木と西都市 穂北にまたがっています。
1945年に石井十次の孫である児島寅一郎 氏が戦災孤児を救うために石井記念友愛社を設立し、現在も活動しています。 その後、石井十次のひ孫である児島草次郎 氏が理事長を勤(つと)めています。
 宮崎県 児湯郡 木城町にある木城温泉館「湯らら」にあった「石井十次と石井記念友愛社」の説明板から、
 石井十次は、日本における福祉事業の先駆者です。 慶応元年(1865年)に高鍋町に生まれ、最初は岡山で医学を学んでいましたが、ある貧しい母子との出会いをきっかけに、23歳で本格的な児童救済事業を始めます。 岡山孤児院を創設し、「孤児の父」と呼ばれた十次の元(もと)には、一時1200名もの子供たちが収容されたと言われます。 施設内には私立の小学校も開設され、ユニークな教育も行われました。
 やがて、フランスの思想家ルソーの「エミール」の感化を受けた十次は、木城町の南端にある茶臼原で「自然・労作」教育をしようと、明治27年、岡山からの大移住を開始します。 児童や職員はもとより、建物も解体して茶臼原の地に再現し、そこで理想的な農村共同体を実現するつもりでした。 ところが、大正3年に十次は志半ばで倒れ、その事業はいったん閉じられます。 その後、昭和20年に太平洋戦争 被災児救済を目的に再開。 「石井記念友愛社」が創設され、児童養護施設や保育園も運営されることになりました。 当時の建物はそのまま残され、一角に建てられた資料館には人間国宝の芹沢 _介(けいすけ) 製作のステンドグラスも寄せられ、十次の偉業を伝えます。

 「高鍋 合同庁舎」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字上江 字高月 8340 番地にあります。
高鍋合同庁舎の建物には、宮崎地方法務局 高鍋出張所やハローワーク高鍋 (高鍋公共職業安定所)があります。

 「高鍋町 中央公民館」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字上江 8113 にあります。
高鍋町中央公民館には講堂 (舞台ホール)、学習室 (和室)、作法室 (和室)、会議室、視聴覚室があります。
同じ所にある高鍋町老人福祉センターには娯楽室、図書館、機能回復訓練室、相談室、集合場、作業室があります。

 「高鍋町 体育館」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字上江 8339 にあります。
この体育館は、災害時には避難所となります。 インドアソフトテニスなど各種のスポーツが行われます。

 「高鍋城跡(舞鶴城跡、舞鶴公園)」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字上江 1345にあります。
高鍋城は説明板から、
「沿革」
  もと財部城といったが、後、高鍋城に改め通常は舞鶴城と呼ばれている。
 平安時代中期(斉衛年間 854年−857年)土持氏の所有となり、在来の山城を補修し、ここにおることおよそ600年に及んだ。
 長禄元年(1457年)伊東氏の所有となり、その48城の一つとして、武将 落合民部これを守った。 およそ120年の後、天正5年伊東氏を破り島津氏の所有となった。 後 天正15年(1587年)島津氏は豊臣秀吉に降伏し、同年7月秋月氏の居城となり約280年、明治の廃藩に至るまで続いた。
 寛文9年(1669年)6月、秋月氏3代藩主種信「財部」を「高鍋」と改め居城の修復に着手、岩坂門、石垣、城堀、大手門、本丸など数年を要して完成、近世の城の様式を備えるに至った。
「構造」
 天然の要害を巧みに利用し丘の中腹に心臓部の本丸を設け一段下がった平地を二の丸とし、更に下ったところを三の丸とし、北、南、東を堀で区切り、西は背後の山に野首掘切りを設けた。
「史跡」
 旧城内は、現在舞鶴公園として整備せられ、舞鶴公園、護国神社、石垣、堀、国指定の天然記念物の「高鍋大楠(くすのき)」をはじめ、次のような社寺や建造物の跡、各種記念碑など史跡が多い。
天然記念物1、社寺跡8、歌碑2、建造物の跡12、各種記念碑11 合計34。

 「高鍋町役場」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字上江 8437 番地にあります。
1889年5月1日に高鍋村制施行、1901年2月7日に高鍋町施行、1938年10月1日に児湯郡 上江村と合併して高鍋町となりました。


写真A: 「舞鶴公園」と書いてあります。 石垣 (いしがき)、石段、桜の木、手前の駐車場などが見えます。
「高鍋城跡(舞鶴城跡、舞鶴公園)」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字上江 1345にあります。
高鍋城は説明板から、
「沿革」
  もと財部城といったが、後、高鍋城に改め通常は舞鶴城と呼ばれている。
 平安時代中期(斉衛年間 854年−857年)土持氏の所有となり、在来の山城を補修し、ここにおることおよそ600年に及んだ。
 長禄元年(1457年)伊東氏の所有となり、その48城の一つとして、武将 落合民部これを守った。 およそ120年の後、天正5年伊東氏を破り島津氏の所有となった。 後 天正15年(1587年)島津氏は豊臣秀吉に降伏し、同年7月秋月氏の居城となり約280年、明治の廃藩に至るまで続いた。
 寛文9年(1669年)6月、秋月氏3代藩主種信「財部」を「高鍋」と改め居城の修復に着手、岩坂門、石垣、城堀、大手門、本丸など数年を要して完成、近世の城の様式を備えるに至った。
「構造」
 天然の要害を巧みに利用し丘の中腹に心臓部の本丸を設け一段下がった平地を二の丸とし、更に下ったところを三の丸とし、北、南、東を堀で区切り、西は背後の山に野首掘切りを設けた。
「史跡」
 旧城内は、現在舞鶴公園として整備せられ、舞鶴公園、護国神社、石垣、堀、国指定の天然記念物の「高鍋大楠(くすのき)」をはじめ、次のような社寺や建造物の跡、各種記念碑など史跡が多い。
天然記念物1、社寺跡8、歌碑2、建造物の跡12、各種記念碑11 合計34。



写真B: 北を見たものです。 黒谷交差点です。 左に愛宕神社 (あたごじんじゃ)の鳥居 (とりい)が見えます。



写真C: バス停「役場前 宮崎交通」があります。 奥に高鍋町役場が見えます。 北を見たものです。



写真D: 「さくら通り」と書いてあります。 この道は「さくら通り」です。



写真E: 電柱に「高鍋税務署 先右折 この社会あなたの税がいきている」と書いてあります。 右端は高鍋町役場です。



写真F: 来た道 (さくら通り)を振り返ったものです。 ガソリンスタンド、舞鶴城公園がある山も見えます。 南を見たものです。



写真G: 左は高鍋町役場です。 ソテツの木もあります。 南東を見たものです。
「高鍋町役場」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字上江 8437 番地にあります。
1889年5月1日に高鍋村制施行、1901年2月7日に高鍋町施行、1938年10月1日に児湯郡 上江村と合併して高鍋町となりました。



写真H: 高鍋町役場です。 屋上に国旗などの旗が見えます。 下に掲示板 (けいじばん)もあります。 東を見たものです。



写真I: 高鍋町役場と手前は「さくら通り」です。



写真J: 北東を見たものです。



写真K: 高鍋町役場です。 屋上にスピーカー、アンテナもあります。 手前に郵便ポストが見えます。
「高鍋町役場」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字上江 8437 番地にあります。
1889年5月1日に高鍋村制施行、1901年2月7日に高鍋町施行、1938年10月1日に児湯郡 上江村と合併して高鍋町となりました。



写真L: 「P 北側 お客様 駐車場」と書いてあります。 高鍋町役場です。 東を見たものです。



写真M: 「さくら通り」です。 北を見たものです。



写真N: 「さくら通り」から西に行く道があります。 これを進むと「秋月墓地」に行きます。



写真O: 2階建ての手前の道を左 (西)に進んで、「秋月墓地」に行きます。



写真P: 西を見たものです。 奥に墓地の長い石段 (いしだん)が見えます。 先に進みます。



写真Q: 秋月墓地の長い石段、墓石も見えます。



写真R: 秋月墓地は山の中腹にあります。 西を見たものです。



写真S: 秋月墓地には高い木、孟宗竹 (もうそうだけ)などがあります。



写真T: 秋月墓地がある墓地です。 説明を書いてある標柱も見えます。
「秋月墓地」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字上江 にあります。



写真U: 山の斜面にある墓地です。



写真V: 右に石造物があります。



写真W: 石段の下の様子 (ようす)です。



写真X: 北を見たものです。 標柱が2本見えます。 奥に進むと別の秋月墓地があります。 孟宗竹 (もうそうだけ)が見えます。



写真Y: 手前に「秋月左都夫の墓 黒水長(造の左にりっしんべんが付いた文字。)の墓 高鍋町教育委員会」の標柱と、奥に「秋月墓地 (大龍寺墓地)入口」の標柱があります。



写真Z: 「秋月左都夫の墓 黒水長(造の左にりっしんべんが付いた文字。)の墓 高鍋町教育委員会」の標柱。 まず、こちらの方に進みます。



写真AA: 苔 (こけ)むした石段が見えます。



写真AB: 奥に進みます。



写真AC: 石段があります。



写真AD: 地面が苔 (こけ)むしています。 孟宗竹 (もうそうだけ)も見えます。



写真AE: 墓に葉ぼたんを供 (そな)えてあります。



写真AF: 石に像を彫 (ほ)ってあります。



写真AG: 先に進みます。



写真AH: 墓地です。



写真AI: いろんな形の墓石があります。



写真AJ: 「秋月家之墓」と彫 (ほ)ってあります。



写真AK: 「秋月 昭和 平成」と書いてあります。 新しい墓のようです。



写真AL: 「高鍋町指定史跡 秋月左都夫墓地 平成18年12月14日指定 平成21年」と書いてある標柱があります。 奥に竹が生えています。 秋月左都夫は外交官で、オーストリア大使などを勤 (つと)めました。



写真AM: 墓石です。



写真AN: 「秋月」と彫 (ほ)ってあります。



写真AO: 墓石です。



写真AP: 花を供 (そな)えてあります。



写真AQ: 「高鍋町指定史跡 秋月左都夫墓地 平成18年12月14日指定 平成21年」と書いてある標柱。
秋月左都夫は外交官で、オーストリア大使などを勤 (つと)めました。



写真AR: はじめの長い石段のところに戻 (もど)って来ました。



写真AS: 「秋月墓地 (大龍寺墓地)入口 高鍋藩主 秋月家の墓所の1つ」と書いてある標柱があります。



写真AT: 「秋月墓地 (大龍寺墓地)入口 高鍋藩主 秋月家の墓所の1つ」と書いてある標柱です。



写真AU: 石段を登って進みます。



写真AV: 古いカラスウリの実です。



写真AW: 長い石段の右に「秋月墓地 休憩所 (きゅうけいしょ)」があります。



写真AX: 秋月墓地休憩所 (きゅうけいしょ)にテーブルと椅子 (いす)があります。



写真AY: 「秋月墓地 (あきづきぼち)(高鍋藩主 秋月家の墓地) 案内図」があります。



写真AZ: 「秋月墓地 (あきづきぼち)(高鍋藩主 秋月家の墓地) 案内図」です。
大龍寺墓地 (2代 秋月種春、4代 秋月種政、5代 秋月種弘、8代 秋月種徳、9代 秋月種任、10代 秋月種殷)、安養寺墓地、龍雲寺墓地 (初代 秋月種長、3代 秋月種信、6代 秋月種美、7代 秋月種茂)、秋月左都夫 (外交官 オーストリア大使)墓地、秋月墓地休憩所 (きゅうけいしょ)、三好善太夫 墓地 (6代藩主 秋月種美 公の家老、上杉治憲 (鷹山) 公に「訓言」を奉 (たてまつ)る。)、高鍋町指定史跡 秋月墓地 (大龍寺墓地、安養寺墓地、龍雲寺墓地) 昭和47年4月25日指定、秋月左都夫 墓地 平成18年12月14日指定 高鍋町教育委員会
と書いてあります。



写真BA: 「秋月墓地 (あきづきぼち)(高鍋藩主 秋月家の墓地) 案内図」。
大龍寺墓地 (2代 秋月種春、4代 秋月種政、5代 秋月種弘、8代 秋月種徳、9代 秋月種任、10代 秋月種殷)、安養寺墓地、龍雲寺墓地 (初代 秋月種長、3代 秋月種信、6代 秋月種美、7代 秋月種茂)、秋月左都夫 (外交官 オーストリア大使)墓地、秋月墓地休憩所 (きゅうけいしょ)、三好善太夫 墓地 (6代藩主 秋月種美 公の家老、上杉治憲 (鷹山) 公に「訓言」を奉 (たてまつ)る。)、高鍋町指定史跡 秋月墓地 (大龍寺墓地、安養寺墓地、龍雲寺墓地) 昭和47年4月25日指定、秋月左都夫 墓地 平成18年12月14日指定 高鍋町教育委員会
と書いてあります。



写真BB: 「秋月墓地 (あきづきぼち)(高鍋藩主 秋月家の墓地) 案内図」です。
大龍寺墓地 (2代 秋月種春、4代 秋月種政、5代 秋月種弘、8代 秋月種徳、9代 秋月種任、10代 秋月種殷)、安養寺墓地、龍雲寺墓地 (初代 秋月種長、3代 秋月種信、6代 秋月種美、7代 秋月種茂)、秋月左都夫 (外交官 オーストリア大使)墓地、秋月墓地休憩所 (きゅうけいしょ)、三好善太夫 墓地 (6代藩主 秋月種美 公の家老、上杉治憲 (鷹山) 公に「訓言」を奉 (たてまつ)る。)、高鍋町指定史跡 秋月墓地 (大龍寺墓地、安養寺墓地、龍雲寺墓地) 昭和47年4月25日指定、秋月左都夫 墓地 平成18年12月14日指定 高鍋町教育委員会
と書いてあります。



写真BC: 「秋月墓地 (あきづきぼち)(高鍋藩主 秋月家の墓地) 案内図」。
大龍寺墓地 (2代 秋月種春、4代 秋月種政、5代 秋月種弘、8代 秋月種徳、9代 秋月種任、10代 秋月種殷)、安養寺墓地、龍雲寺墓地 (初代 秋月種長、3代 秋月種信、6代 秋月種美、7代 秋月種茂)、秋月左都夫 (外交官 オーストリア大使)墓地、秋月墓地休憩所 (きゅうけいしょ)、三好善太夫 墓地 (6代藩主 秋月種美 公の家老、上杉治憲 (鷹山) 公に「訓言」を奉 (たてまつ)る。)、高鍋町指定史跡 秋月墓地 (大龍寺墓地、安養寺墓地、龍雲寺墓地) 昭和47年4月25日指定、秋月左都夫 墓地 平成18年12月14日指定 高鍋町教育委員会
と書いてあります。



写真BD: 「秋月墓地 (あきづきぼち)(高鍋藩主 秋月家の墓地) 案内図」です。
大龍寺墓地 (2代 秋月種春、4代 秋月種政、5代 秋月種弘、8代 秋月種徳、9代 秋月種任、10代 秋月種殷)、安養寺墓地、龍雲寺墓地 (初代 秋月種長、3代 秋月種信、6代 秋月種美、7代 秋月種茂)、秋月左都夫 (外交官 オーストリア大使)墓地、秋月墓地休憩所 (きゅうけいしょ)、三好善太夫 墓地 (6代藩主 秋月種美 公の家老、上杉治憲 (鷹山) 公に「訓言」を奉 (たてまつ)る。)、高鍋町指定史跡 秋月墓地 (大龍寺墓地、安養寺墓地、龍雲寺墓地) 昭和47年4月25日指定、秋月左都夫 墓地 平成18年12月14日指定 高鍋町教育委員会
と書いてあります。



写真BE: 登って来た石段を振 (ふ)り返ったものです。



写真BF: 東を見たものです。



写真BG: 高鍋町役場、NTTの高いアンテナ塔などが見えます。 南九州大学があった山も見えます。 南東を見たものです。



写真BH: 東を見たものです。 右にNTTの高いアンテナ塔が見えます。 左手前は秋月墓地休憩所 (きゅうけいしょ)です。



写真BI: 南を見たものです。 奥の石段を登ると秋月墓地 (大龍寺墓地)があります。 これからそこに行きます。



写真BJ: 御手洗 (みたらい)があります。



写真BK: 石段を登ります。 手すりがあります。



写真BL: 石段を登った所に秋月墓地 (大龍寺墓地)があります。



写真BM: 登ってきた石段を振 (ふ)り返ったものです。



写真BN: 秋月墓地 (大龍寺墓地)に来ました。 この墓がある広場は「大龍寺跡」です。



写真BO: 左手前に石灯籠 (いしどうろう)があります。 秋月墓地 (大龍寺墓地)です。



写真BP: 西を見たものです。 奥に左右に歴代高鍋藩主の墓があります。 手前に石灯籠 (いしどうろう)が多くあります。 この墓がある広場は「大龍寺跡」です。
「高鍋藩 (秋月藩)」は1代は種長、2代は種春、3代は種信、4代は種政、5代は種弘、6代は種美、7代は種茂、8代は種徳、9代は種任、10代は種殷です。 高鍋藩 (秋月藩)は宮崎県児湯郡の東部 (高鍋町、木城町、川南町、都農町、日向市の美々津)と串間市、宮崎市 (瓜生野、倉岡の1部)、国富町 (木脇)を持っていました。 外様 (とざま)です。 藩庁は高鍋城 (舞鶴城、高鍋町)で高鍋は初期は財部 (たからべ)と呼 (よ)ばれていました。 秋月は福岡県の筑前国を領有していました。 豊臣秀吉の九州征伐 (せいばつ)のときに島津とともに秀吉軍と戦いましたが、その後、秀吉に恭順 (きょうじゅん)して、日向国 串間 (3万石)に移封されました。 1600年 (慶長5年)関ヶ原の戦いのとき秋月種長は西軍に属して大垣城を守っていましたが、9月15日の関ヶ原の戦いの本戦で、西軍が負けると東軍に属しました。 それで所領を安堵 (あんど)されました。 1604年 (慶長9年)に居城を串間から財部城 (高鍋城)に移しました。 3代秋月種信は1673年に財部 (たからべ)から高鍋に地名を変えました。 4代種政は1689年に弟 (種封)に3000石を分け与えたため、以後高鍋藩は2万7000石となりました。 江戸中期に6代種美の次男は米沢藩 (上杉 氏)に入り、名君 上杉鷹山 (ようざん)となりました。 その兄の7代種茂も高鍋藩の名君となり、1778年 (安永7年)に藩校 明倫堂 (めいりんどう)を開校しました。 秋月は10代のときに明治時代になりました。 1871年 (明治4年)に廃藩置県で高鍋県となりました。 その後に美々津県、宮崎県、鹿児島県、宮崎県になりました。 浄土真宗 (一向宗)は高鍋藩、薩摩藩 (さつまはん)、人吉藩で禁止されていました。



写真BQ: 南西を見たものです。 手前に石灯籠 (いしどうろう)が多く並 (なら)んでいます。



写真BR: 南を見たものです。 秋月墓地 (大龍寺墓地)に多くの石灯籠 (いしどうろう)が建 (た)っています。 奥に孟宗竹 (もうそうだけ)の竹林があります。



写真BS: 南東を見たものです。 石灯籠 (いしどうろう)と竹林があります。



写真BT: 「秋月墓地 (大龍寺跡)」の説明板があります。
大龍寺墓地 (2代 秋月種春、4代 秋月種政、5代 秋月種弘、8代 秋月種徳、9代 秋月種任、10代 秋月種殷)について書いてあります。 藩主以外の墓もあります。



写真BU: 「秋月墓地 (大龍寺跡)」の説明板です。
大龍寺墓地 (2代 秋月種春、4代 秋月種政、5代 秋月種弘、8代 秋月種徳、9代 秋月種任、10代 秋月種殷)について書いてあります。 藩主以外の墓もあります。



写真BV: 「秋月墓地 (大龍寺跡)」の説明板。
大龍寺墓地 (2代 秋月種春、4代 秋月種政、5代 秋月種弘、8代 秋月種徳、9代 秋月種任、10代 秋月種殷)について書いてあります。 藩主以外の墓もあります。



写真BW: 「藤子の墓」です。



写真BX: 手前から「破竹郎の墓」、「種善の墓」です。 秋月墓地 (大龍寺跡)です。



写真BY: 奥の右は「種英 (13代)の墓」、左は「種春 (2代)の墓」です。 秋月墓地 (大龍寺跡)。



写真BZ: 秋月墓地 (大龍寺跡)です。



写真CA: 右が藩主の墓です。 左は石灯籠です。 南を見たものです。



写真CB: 秋月墓地に多くの石灯籠 (いしどうろう)があります。 左に登ってきた石段の上部が見えます。 南を見たものです。



写真CC: 南東を見たものです。 説明板、石段の手すり、一輪車もあります。



写真CD: 中央は「高鍋藩 2代藩主 秋月種春の墓」です。 左は11代 秋月種樹の墓です。



写真CE: 高鍋藩 2代藩主 秋月種春の墓の下部です。



写真CF: 「高鍋藩 2代藩主 秋月種春 公」と書いてあります。



写真CG: 「高鍋藩 10代藩主 秋月種殷 公の弟の秋月種樹の墓」です。



写真CH: 秋月種樹の墓の下部です。



写真CI: 「高鍋藩 10代藩主 秋月種殷 公の弟の秋月種樹の墓」です。 湯飲み、枝の供 (そな)え物があります。



写真CJ: 秋月墓地の西は木が多くある山になっています。



写真CK: 秋月墓地の上方を見たものです。



写真CL: 裏山の崖 (がけ)です。



写真CM: 南を見たものです。 石灯籠 (いしどうろう)が並 (なら)んでいます。



写真CN: 秋月墓地の上部です。 孟宗竹 (もうそうだけ)があります。



写真CO: 墓地の上部です。



写真CP: 「高鍋藩秋月墓地 灯籠 (とうろう)修復事業記念碑 平成27年5月吉日」と書いてある石碑 (せきひ)があります。



写真CQ: 北を見たものです。 石灯籠が並 (なら)んでいます。



写真CR: 北西を見たものです。



写真CS: 西を見たものです。 奥に藩主の墓が左右に並 (なら)んでいます。



写真CT: 秋月墓地 (大龍寺跡)にある御手洗 (みたらい)です。



写真CU: これから石段を下 (くだ)ります。



写真CV: 石段の下方に墓石が見えます。 東を見たものです。



写真CW: 墓地から見た高鍋町の風景です。 NTTの高いアンテナ塔、右に以前、南九州大学があった山も見えます。 南東を見たものです。



写真CX: 東を見たものです。



写真CY: 墓地の入り口近くにある石造物です。 西を見たものです。



写真CZ: 2つの標柱があります。 北を見たものです。 これから先に進んで別の秋月墓地に行きます。



写真DA: 「妙仙院墓地 入口、城 勇雄 墓地 入口」と書いてある標柱です。



写真DB: 「高鍋町指定史跡 秋月墓地 (龍雲寺墓地、安養寺墓地)」と書いてある標柱があります。 これから奥に進みます。



写真DC: 「高鍋町指定史跡 秋月墓地 (龍雲寺墓地、安養寺墓地)」と書いてある標柱です。



写真DD: この歩道を先に進みます。



写真DE: 黒い色の竹があります。



写真DF: 別の墓地が見えて来ました。



写真DG: 墓石が見えます。 北を見たものです。



写真DH: 「秋月墓地 (安養寺墓地) 入口、高鍋藩主 秋月家の墓所の1つ、高鍋町教育委員会、平成15年」と書いてある標柱があります。



写真DI: 「秋月墓地 (安養寺墓地) 入口、高鍋藩主 秋月家の墓所の1つ、高鍋町教育委員会、平成15年」と書いてある標柱です。



写真DJ: 「秋月墓地 (安養寺墓地) 入口、高鍋藩主 秋月家の墓所の1つ、高鍋町教育委員会、平成15年」と書いてある標柱。



写真DK: 奥に説明板、標柱、長い石段があります。 西を見たものです。



写真DL:  「農高初代校長之墓地」の標柱があります。



写真DM:  石段と説明板があります。 西を見たものです。



写真DN:  長い石段を登っていきます。 両側に孟宗竹 (もうそうだけ)があります。 西を見たものです。



写真DO:  孟宗竹 (もうそうだけ)が茂っています。



写真DP:  「安養寺墓地」の説明板があります。
秋月家墓地、他の墓などが載 (の)っています。



写真DQ:  「安養寺墓地」の説明板です。
秋月家墓地、他の墓などが載 (の)っています。



写真DR:  「安養寺墓地」の説明板。
秋月家墓地、他の墓などが載 (の)っています。



写真DS:  「安養寺墓地」の説明板です。
秋月家墓地、他の墓などが載 (の)っています。



写真DT: 秋月墓地に上 (あ)がる古い石段です。



写真DU: 竹の葉が石段に落ちています。



写真DV:  秋月墓地 (安養寺跡)です。
「秋月墓地」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字上江 にあります。



写真DW: 秋月墓地の後ろに孟宗竹 (もうそうだけ)があります。



写真DX:  秋月墓地 (安養寺跡)です。



写真DY:  安養寺跡に秋月墓地があります。



写真DZ: 安養寺跡にある秋月墓地です。'



写真EA:  安養寺跡に説明板があります。



写真EB:  「秋月墓地 (安養寺跡)」の説明板があります。
種貞、ヲチョウ、左近、感子、好子、左門、クニ、湛玄、理子、松子、現在地などが載 (の)っています。



写真EC: 「秋月墓地 (安養寺跡)」の説明板です。
種貞、ヲチョウ、左近、感子、好子、左門、クニ、湛玄、理子、松子、現在地などが載 (の)っています。



写真ED:  「秋月墓地 (安養寺跡)」の説明板。
種貞、ヲチョウ、左近、感子、好子、左門、クニ、湛玄、理子、松子、現在地などが載 (の)っています。



写真EE: 登ってきた石段を振 (ふ)り返ったものです。



写真EF: 石段の上方です。



写真EG: 秋月墓地 (安養寺跡)です。
右から種貞、ヲチョウ、左近の墓です。



写真EH: 孟宗竹 (もうそうだけ)が茂 (しげ)っています。 安養寺跡にある秋月墓地の上方です。



写真EI: 高い孟宗竹 (もうそうだけ)の竹林があります。



写真EJ: 立派な墓です。



写真EK: 墓の下部です。 枝を供 (そな)えてあります。



写真EL: 秋月墓地 (安養寺跡)の墓です。 枝を供 (そな)えてあります。



写真EM: 墓の下部です。



写真EN: 秋月墓地 (安養寺跡)のそばに蜜蜂 (みつばち)の巣がありました。



写真EO:  「ヤブツバキの花」が地面に落ちていました。



写真EP: 安養寺跡の墓地の北端です。 この先 (北)に龍雲寺墓地があります。
龍雲寺墓地 (初代 秋月種長、3代 秋月種信、6代 秋月種美、7代 秋月種茂)。



写真EQ: 奥の階段を下って来ました。 階段の上には秋月墓地 (安養寺跡)があります。



写真ER: はじめに来た道を戻 (もど)ります。 右は安養寺跡の墓地です。 南を見たものです。



写真ES: 「さくら通り」から秋月墓地がある山を見たものです。 西を見たものです。



写真ET: 北を見たものです。 三叉路 (さんさろ)があります。



写真EU: 交差点に石材店があります。 東を見たものです。 右奥に体育館が見えます。 先に進みます。



写真EV: 高鍋町体育館が見えます。



写真EW: 南を見たものです。 左端は高鍋町中央公園です。



写真EX: 高鍋町体育館とその手前に高鍋町中央公園が見えます。 中央公園のドームの左奥に高鍋 合同庁舎が見えます。 南東を見たものです。
「高鍋町 体育館」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字上江 8339 にあります。
「高鍋町 中央公園」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字上江 にあります。
 「高鍋 合同庁舎」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字上江 字高月 8340 番地にあります。



写真EY: 東を見たものです。 右の体育館の手前の大きな木のそばに「石井十次と子供の像」があります。 石井十次と子供の像は中央公園にあります。 手前の左の木の奥の建物は中央公民館です。
「高鍋町 中央公民館」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字上江 8113 にあります。



写真EZ: 高鍋町の空に航空自衛隊 新田原基地のジェット戦闘機が見えます。 テレビアンテナの左上のものがジェット戦闘機です。



写真FA: 「中央公園」と書いてある石碑 (せきひ)が中央公園の入り口にあります。
「高鍋町 中央公園」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字上江 にあります。
高鍋町中央公園は施設面積が9994 平方メートルです。 中央公園には石井十次の像、ドーム型の野外舞台、運動遊具、グラウンド ゴルフ場 2面、東屋 (あずまや)、トイレ、芝生 (しばふ)、ベンチ、野外時計などがあります。



写真FB: 西を見たものです。 来た道を振 (ふ)り返ったものです。



写真FC: 右は中央公園のトイレです。 左に東屋 (あずまや)が見えます。 南西を見たものです。 奥の山は秋月墓地や舞鶴城公園がある山です。



写真FD: 「高鍋町 中央公園」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字上江 にあります。
ドームの舞台 (ぶたい)、広い芝生の広場があります。 左端は高鍋 合同庁舎です。
「高鍋 合同庁舎」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字上江 字高月 8340 番地にあります。



写真FE: 南東を見たものです。 右からドーム舞台 (ぶたい)、合同庁舎、体育館、手前に「中央公園」と彫 (ほ)ってある石碑 (せきひ)が見えます。
高鍋町中央公園は施設面積が9994 平方メートルです。 中央公園には石井十次の像、ドーム型の野外舞台、運動遊具、グラウンド ゴルフ場 2面、東屋 (あずまや)、トイレ、芝生 (しばふ)、ベンチ、野外時計などがあります。



写真FF: 右の大きな木の下に「石井十次の像」があります。 左は高鍋町 中央公民館、右端は高鍋町 体育館です。 東を見たものです。



写真FG: 右は高鍋町 中央公民館です。
「高鍋町 中央公民館」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字上江 8113 にあります。
高鍋町中央公民館には講堂 (舞台ホール)、学習室 (和室)、作法室 (和室)、会議室、視聴覚室があります。
同じ所にある高鍋町老人福祉センターには娯楽室、図書館、機能回復訓練室、相談室、集合場、作業室があります。



写真FH: 大きな木の手前に石井十次の像が見えます。 中央公園です。 東を見たものです。



写真FI: 大きな石の上に「石井十次と男女の子供の像」が見えます。 ベンチもあります。 右端は体育館です。
石井十次の像は宮崎市にある宮崎県総合文化公園にもあります。



写真FJ: 高鍋町 中央公園にある「石井十次の像」です。
「高鍋町 中央公園」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字上江 にあります。



写真FK: 石井十次の像の上部と大きな木です。



写真FL: 「石井十次 像」と台座に書いてあります。 左は男の子で右は女の子です。 男の子は鍬 (くわ)を持っています。
  「石井十次」は慶応元年4月11日(1865年5月5日)に宮崎県 児湯郡 高鍋町で生まれました。 日本で最初に孤児院を創設しました。 「児童福祉の父」と言われます。 石井十次は岡山で医師を目指していましたが中断して、日本最初の孤児院 岡山孤児院を創設しました。 大正3年(1914年)1月30日に宮崎県 木城町で亡くなりました。 岡山孤児院は今はありませんが、石井記念友愛社(宮崎県)と石井記念愛染園(大阪府)が後を引き継いています。 1990年に石井十次顕彰会(宮崎県)により石井十次賞が創設され、毎年、石井十次の精神を引き継いで福祉活動をしている団体にこの賞が贈(おく)られています。
 石井十次は熱心なキリスト教信者でした。 孤児院の児童たちには「満腹主義」といってお腹(なか)いっぱい食べさせました。 十次は音楽幻燈隊を組織し、孤児院の暮らしの映画を上映したり、音楽を演奏したりして募金を集めました。 国内、台湾、韓国、中国、アメリカなどでその活動をしました。 活版印刷、精米(せいまい)などの仕事を児童たちは行いました。 岡山より生活費がかからない宮崎で農場を開墾(かいこん)しました。 60 ヘクタールの広さです。コメ、野菜、桑(くわ)などの栽培をしました。 桑で蚕(かいこ)を養って繭(まゆ)を作らせ、絹織物の材料にしました。 また、女の子には裁縫(さいほう)、男の子には大工(だいく)、鍛冶(かじ、金属を打ちきたえていろんな器物を作ること。 鍬(くわ)、鎌(かま)、包丁(ほうちょう)などを作ります。)も教えました。 最初は石井十次は「先生」と呼ばれていましたが、その内、「おとうさん」と呼ばれるようになりました。 石井十次は演説の中で、「親のない孤児よりもっとかわいそうなのは、心の迷い子、精神の孤児なのです。」と述べています。

 石井十字は、岡山孤児院経営の寄付依存をやめて独立しようと、故郷 宮崎県の茶臼原(ちゃうすばる)という台地で開墾(かいこん)と孤児の移住を始めました。 この台地の開墾は困難を極めて一時は事業をいったん中止せざるをえなくなりした。 しかし、事業を再開し、水田13町歩、畑46町歩、桑畑16町歩という広大な耕地を開墾することに成功しました。 孤児院の茶臼原移転がほぼ終わったわずか2年後の大正3年、腎臓病によって亡くなりました。

 石井十次は岡山県とここ茶臼原に私立小学校を創設しました。 1913年(大正2年)に設立した茶臼原の私立小学校(私立茶臼原尋常小学校)はその後、自治体の方に寄付されました。 石井十次は明治20年(1887年)に岡山県 大宮村に寺の本堂の一部を借りて孤児教育会(後の岡山孤児院)を設立しました。 明治43年(1910年)には、茶臼原に孤児院を移転しました。 石井十次は明治43年46歳のときに、鍬鎌(くわかま)主義教育の実現のため、岡山孤児院の数十棟の宿舎、学校、集会所などを茶臼原の台地に移しました。

 「茶臼原憲法」は大正2年(亡くなる前年)に石井十次によって制定されました。
1.天は父なり、人は同胞なれば、互いに相信じ、相愛すべきこと。
2.天父は恒(つね)に働き給(たま)ふ、我等も倶(とも)に労働すべき。
3.天恩感謝のため、我等は禁酒禁煙を実行し、収入の十分の一を天倉に納(おさ)むること。

 石井十次の孤児院は小舎制という教育方針で、保母1人に十数人の子供たちが1つの小舎(家)で家族のように生活しました。 石井十次はフランスのルソーの「エミール」の影響を受け、宮崎県 西都市あるいは木城町 茶臼原で「自然・労作」教育をやろうと決心しました。 日向茶臼原分院は大正3年 石井十次の死後は大原孫三郎、次に石井の2番目の妻 辰子(たつこ)が院長になりましたが、1926年(昭和元年)に解散しました。 石井十次は明治から大正にかけて3000人以上の孤児の救済と教育を行いました。

 石井十次の宮崎県 茶臼原 関係の年表: 明治27年(1894年)に茶臼原の開拓(かいたく)に着手、明治28年に品子 夫人が亡くなり、辰子と再婚、明治33年に茶臼原の事業を中断、しかし明治38年に再開しました。 明治43年に孤児院の茶臼原移転を本格的に始めました。 大正元年に茶臼原移転をほぼ終わりました。 大正2年(1913年)に私立茶臼原尋常小学校を設立。 また、茶臼原憲法を作りました。 大正3年(1914年)1月30日に宮崎県 木城町で亡くなりました(48歳)。

 「石井記念友愛社」は宮崎県 児湯郡 木城町 椎木 644-1 にあります。 関連の施設などは木城町 椎木と西都市 穂北にまたがっています。
1945年に石井十次の孫である児島寅一郎 氏が戦災孤児を救うために石井記念友愛社を設立し、現在も活動しています。 その後、石井十次のひ孫である児島草次郎 氏が理事長を勤(つと)めています。
 宮崎県 児湯郡 木城町にある木城温泉館「湯らら」にあった「石井十次と石井記念友愛社」の説明板から、
 石井十次は、日本における福祉事業の先駆者です。 慶応元年(1865年)に高鍋町に生まれ、最初は岡山で医学を学んでいましたが、ある貧しい母子との出会いをきっかけに、23歳で本格的な児童救済事業を始めます。 岡山孤児院を創設し、「孤児の父」と呼ばれた十次の元(もと)には、一時1200名もの子供たちが収容されたと言われます。 施設内には私立の小学校も開設され、ユニークな教育も行われました。
 やがて、フランスの思想家ルソーの「エミール」の感化を受けた十次は、木城町の南端にある茶臼原で「自然・労作」教育をしようと、明治27年、岡山からの大移住を開始します。 児童や職員はもとより、建物も解体して茶臼原の地に再現し、そこで理想的な農村共同体を実現するつもりでした。 ところが、大正3年に十次は志半ばで倒れ、その事業はいったん閉じられます。 その後、昭和20年に太平洋戦争 被災児救済を目的に再開。 「石井記念友愛社」が創設され、児童養護施設や保育園も運営されることになりました。 当時の建物はそのまま残され、一角に建てられた資料館には人間国宝の芹沢 _介(けいすけ) 製作のステンドグラスも寄せられ、十次の偉業を伝えます。



写真FM: 子供2人は素足です。 「石井十次 像」と書いてあります。



写真FN: 高鍋町 中央公園にある石井十次の像の上部です。 3人共、和服を着ています。
石井十次の像は宮崎市にある宮崎県総合文化公園にもあります。



写真FO: 像の下部です。 男の子はクワを持っています。



写真FP: 像の後方に高鍋町 中央公民館が見えます。



写真FQ: 像はこのような台座の上にあります。



写真FR: 側面から見た石井十次の像です。



写真FS: 石井十次の像の右にこの様 (よう)な金属製の説明板があります。



写真FT: 「創業60周年記念 高鍋信用金庫 建立 (こんりゅう) 1981年 銅像制作」と書いてあります。



写真FU: 中央公園です。 外灯、芝生 (しばふ)、トイレ、中央公園の入り口などが見えます。



写真FV: 東屋 (あずまや)、ベンチ、トイレもあります。



写真FW: 高鍋町 中央公園です。 奥の山には秋月墓地、舞鶴城公園などがあります。



写真FX: ドーム型の舞台 (ぶたい)があります。 舞台に上がる階段も見えます。 中央公園。



写真FY: ドーム舞台の左に高鍋 合同庁舎が見えます。



写真FZ: 高鍋町 体育館です。 右端は合同庁舎です。



写真GA:  左から中央公民館、石井十次の像、体育館が見えます。 ここは中央公園です。



写真GB:  右に石井十次の像が見えます。



写真GC: 中央公園の入り口、外灯、ベンチも見えます。



写真GD: 芝生 (しばふ)に雨水がたまった時に出来た模様 (もよう)がありました。



写真GE:  正面から見たドーム型舞台 (ぶたい)です。 高鍋町 中央公園。



写真GF:  芝生 (しばふ)に丸い時計もあります。



写真GG:  中央公園に土盛 (つちもり)があります。



写真GH:  手前は土盛 (つちもり)です。



写真GI:  中央公園の土盛 (つちもり)はこのようになっています。



写真GJ:  スポーツ遊具もあります。



写真GK:  中央公園にあるスポーツ遊具です。



写真GL: 高鍋町 中央公園のベンチ、東屋 (あずまや)、芝生などです。



写真GM: 車道のそばに「石井十次 像、 やさしさ 思いやり 慈 (いつく)しみの心をいつまでも。」と書いてある看板 (かんばん)があります。 奥に石井十次 像が見えます。 中央公園。 南西を見たものです。



写真GN: 中央公園の東隣 (とな)りに「高鍋町体育館」があります。 南を見たものです。
「高鍋町 体育館」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字上江 8339 にあります。
この体育館は、災害時には避難所となります。 インドアソフトテニスなど各種のスポーツが行われます。



写真GO: 「高鍋町体育館、この体育館は、災害時には避難所となります。 体育館利用者以外の方の駐車はご遠慮ください。 駐車場で発生した事故・盗難等につきましては、当施設は責任を負いかねます。 体育館利用に関しては管理者の指示に従ってください。 管理者: 高鍋町教育委員会」
と書いてあります。



写真GP: 南東を見たものです。



写真GQ: 東を見たものです。



写真GR: 左端は高鍋町 中央公民館です。 東を見たものです。



写真GS: 左は高鍋 合同庁舎です。



写真GT: 中央公園の近くに高鍋 合同庁舎があります。



写真GU: 合同庁舎です。



写真GV: 西を見たものです。 合同庁舎の上部です。



写真GW: 高鍋 合同庁舎の入り口です。



写真GX: 「高鍋合同庁舎 法務局 高鍋出張所 ハローワーク高鍋 (高鍋公共職業安定所)」と書いてあります。 西を見たものです。
「高鍋 合同庁舎」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字上江 字高月 8340 番地にあります。



写真GY: 「高鍋合同庁舎」と書いてある看板 (かんばん)があります。



写真GZ: 北を見たものです。 左は高鍋合同庁舎で、奥に高鍋町 中央公民館が見えます。



写真HA: 高鍋合同庁舎です。
「高鍋 合同庁舎」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字上江 字高月 8340 番地にあります。
高鍋合同庁舎の建物には、宮崎地方法務局 高鍋出張所やハローワーク高鍋 (高鍋公共職業安定所)があります。



写真HB: 高鍋合同庁舎。



写真HC: 南を見たものです。 右手前は高鍋合同庁舎です。



写真HD: 「高鍋町中央公民館、老人福祉センター」と書いてあります。 北を見たものです。



写真HE: 高鍋町 中央公民館の駐車場です。



写真HF:  高鍋町 中央公民館です。
「高鍋町 中央公民館」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字上江 8113 にあります。
高鍋町中央公民館には講堂 (舞台ホール)、学習室 (和室)、作法室 (和室)、会議室、視聴覚室があります。
同じ所にある高鍋町老人福祉センターには娯楽室、図書館、機能回復訓練室、相談室、集合場、作業室があります。



写真HG: 西を見たものです。 右は中央公民館、左は体育館と中央公園です。



写真HH:  高鍋町 体育館です。
「高鍋町 体育館」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字上江 8339 にあります。
この体育館は、災害時には避難所となります。 インドアソフトテニスなど各種のスポーツが行われます。



写真HI: 南を見たものです。 右は体育館です。



写真HJ: 石材店がある十字路です。 北東を見たものです。



写真HK: 北西を見たものです。



写真HL: 高鍋町から見た尾鈴連山です。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)