山陰百姓一揆の留置の地 (又猪野集会所) (山陰坪谷百姓一揆足留め小屋掛の地、山陰百姓逃散一揆留置地之碑、山陰百姓逃散一揆留め置き地の碑 (又猪野集会所 (公民館))、山陰一揆記念碑 (やまげいっき記念碑)、江戸時代初期に東郷町からの逃散一揆の人たち (百姓299世帯 1422人)は高鍋藩によって股猪野原 (現在の都農町 又猪野)の小屋に11ヶ月間 留置されました。 そのときに79人の死者が出ました。旧 豊後街道 (ぶんごかいどう、豊後とは今の大分県のこと。)、石井記念尾鈴保育園  (宮崎県 児湯郡 都農町 大字川北 字又猪野)







<標高、位置>  国道10号から東に入る三叉路(さんさろ)は
標高 約30 m
 北緯32度17分25秒  東経131度34分27秒

<標高、位置>  国道10号下のトンネルは
標高 約20 m
 北緯32度17分24秒  東経131度34分26秒

<標高、位置>  山陰一揆 (やまげいっき)記念碑がある又猪野地区集会所 (公民館)は
標高 約60 m
 北緯32度17分49秒  東経131度34分03秒


 「又猪野地区集会所 (公民館)」は宮崎県 児湯郡 都農町 大字川北 字又猪野 にあります。
 「山陰百姓逃散一揆留置地之碑」が又猪野地区集会所にあります。
解説
 ときは元禄 (げんろく)の頃、あいつぐ天災にくわえ、延岡藩役人の容赦 (ようしゃ)ない年貢 (ねんぐ)取り立てなどの悪政に堪 (た)えかねた山陰・坪谷両村の百姓299所帯 (世帯)、1422名が元禄3年 (1690年)9月19日に一斉に (いっせい)に村をすて高鍋藩領を目指 (めざ)して逃散 (とうさん)した。
 高鍋藩は百姓たちを股猪野原 (現在の都農町 又猪野)に小屋を作り全員を収容した。 逃散の百姓たちは高鍋藩から飯米の給付を受けたが、拘束 (こうそく)された不自由な生活を送っていた。 月日がたつにつれ老人や子どもなど79名もの死亡者が出るほど悲惨 (ひさん)な生活状態であった。
 約11ヶ月に及 (およ)ぶ小屋掛 (か)け生活の間に延岡、高鍋両藩の帰村の説得には応じず、ついに幕府評定所の裁定によって一揆 (いっき)首謀者等関係者ははりつけや打ち首などの死罪、島流しの刑 (けい)を受けた。 その他の村人は放免 (ほうめん)となり、元禄4年7月に帰村した。
 逃散事件から310年の年を迎え、自分たちの生きる権利の獲得 (かくとく)のためにこの股猪野原で強く生きた逃散百姓たちの霊 (れい)を供養 (くよう)し、この碑 (ひ)を建立 (こんりゅう)する。
平成12年 (2000年)9月19日 (9月19日は一揆の始まった日です。)
 「山陰百姓一揆 (やまげひゃくしょういっき)の記念碑」である「山陰坪屋 逃散300年記念碑」は宮崎県 日向市 東郷町 大字山陰 鶴野内 にあります。 「坪屋」は坪谷のことです。 西城跡である西城公園にあります。
「逃散300年記念碑」の裏 (うら)にある碑文 (ひぶん)から、
元禄3年 (1690年)9月19日 藩主 有馬清純の郡代代官の悪政に抗して山陰坪屋300軒 (男864人 女558人 総勢1422人)の私達の祖先は大挙して領外に逃散した。 元禄泰平の夢を驚かせた1大事件は江戸幕府に解決を煩 (わず)わらせて争うこと10ヶ月、要求貫徹に成功したが、磔獄門 (はりつけごくもん)、打首、死罪、遠島等21名の尊い犠牲者を出し、領主もまた悪政の罪に問われて無城の地、越後 (新潟県)の糸魚川に移されるなど、我が国農民史上特筆さるべき百姓一揆 (ひゃくしょういっき)であった。 その後、村人達は朝参供養と称して犠牲者の霊を慰める法会を営 (いとな)んで今日に及 (およ)んでいる。
 「山陰・坪谷の農民一揆 (やまげ・つぼやののうみんいっき)」は1690年 (元禄3年)に現在の宮崎県 日向市 東郷町で起きた農民の逃散による一揆です。 当時は延岡藩の領地でした。 山陰一揆、山陰騒動とも呼ばれます。 この地では数年間大雨・洪水がありました。 農作物があまりとれないのに年貢 (ねんぐ、米などを納 (おさ)めること。)を厳しく取り立てられました。 「山の木の実や茅 (かや)の根まで採り尽くして食う。」ほど農民たちは困窮しました。 西城公園の下にある成願寺には百姓一揆の犠牲者の慰霊碑があり、今でも慰霊祭が行われています。 百姓一揆の首謀者たちはこの成願寺で謀議をしました。 それで300戸 1422人の農民たちが1690年9月19日に牛や馬、家財と少しの弓矢や鉄砲を持って隣 (とな)りの高鍋藩内へと逃散しました。 山陰→美々津→都農町の又猪野と進みました。 農民たちは薩摩藩 (さつまはん)まで行こうとしましたが、途中の都農町又猪野で高鍋藩に止められ、高鍋藩内に留まることになりました。 宮崎県 児湯郡 都農町 又猪野に「山陰百姓一揆 留置の地」があります。 小高い所 (標高約60 m )にある又猪野地区集会所に「山陰百姓逃散一揆留置地之碑 (ひ)」が建っています。 拘束された不自由な生活のため、短い期間に79人 (老人や子供など。)がここで死亡しました。 1691年1月にも高鍋藩の立ち会(あ)いで、延岡藩の使者と農民たちは交渉しましたがうまくいきませんでした。 それで江戸幕府の裁定を仰 (あお)ぐ事になりました。 高鍋藩は農民たちに食糧、小屋を与えたり、医師を派遣しました。 1691年6月23日に江戸幕府は農民側に非があり、延岡藩内に戻るように指示しました。 延岡藩郡代 (梶田十郎左衛門)と代官 (大崎)は追放されました。 農民側の首謀者2人は磔 (はりつけ)、5人は斬首、7人は八丈島へ流罪 (るざい)となり、首謀者の家族も罰せられました。 延岡藩と高鍋藩が農民を説得し、1691年7月14日に農民たちは延岡藩内に戻 (もど)りました。 1691年11月8日に江戸幕府は騒動の責任をとらせて延岡藩藩主 有馬清純に糸魚川藩 (新潟県)への移動を命じました。 山陰村と坪谷村は天領 (幕府領)となりました。


写真A: 北東を見たものです。 先に日向市があります。 国道10号です。 左に都農東小学校があります。 右に消防団の車庫などがあります。



写真B: 北を見たものです。



写真C: 国道10号。 北西を見たものです。



写真D: 南西を見たものです。 先に都農神社、川南町があります。 国道10号の下り方向です。



写真E: 三叉路 (さんさろ)を左 (東)に進んで山陰百姓一揆 (やまげひゃくしょういっき)の留置の地碑のある所に行きます。 中央に「←山陰百姓逃散一揆留め置き地の碑 (又猪野公民館)」と書いてある看板 (かんばん)が小さく見えます。
右が国道10号で左の道が旧 豊後街道 (ぶんごかいどう)です。 豊後 (ぶんご)とは今の大分県のことです。 豊後街道は古くからの道で、山陰百姓一揆のときもこの豊後街道を北から歩いてきたと思われます。



写真F: 左上は石井記念尾鈴保育園の新築工事です。



写真G: 石井記念尾鈴保育園です。



写真H: 工事中の石井記念尾鈴保育園です。



写真I: 左は国道10号です。 消防団の車庫が見えます。 北東を見たものです。



写真J: 左の坂道を下 (くだ)ります。 右は国道10号です。



写真K: 「←山陰 (やまげ)百姓逃散一揆 (いっき)留め置き地の碑 (又猪野公民館)」と書いてある標識があります。



写真L: 「石井記念尾鈴保育園 新築工事」の看板 (かんばん)があります。
宮崎県 児湯郡 都農町 大字川北 18659-1 と書いてあります。



写真M: 旧 豊後街道 (ぶんごかいどう)です。 ここを山陰百姓一揆 (日向市 東郷町)の人たち (約1400人)は北から歩いてきたと思われます。 このあたりは下り坂になっています。 南を見たものです。



写真N: ここにも三叉路 (さんさろ)があります。 国道からすぐのところです。 「山陰一揆 (やまげいっき)記念碑 →1.2 km 」と書いてある標識が見えます。 南を見たものです。
旧 豊後街道は奥にまっすぐ行く道です。 ここを右折して山陰百姓一揆留置の地碑がある又猪野地区集会所 (公民館)に行きます。 おそらく山陰一揆の人たち (約1400人)もこの右折する道を歩いたのかもしれません。



写真O: 下ってきた坂道を振 (ふ)り返ったものです。 旧 豊後街道です。 右上は石井記念尾鈴保育園です。



写真P: 「山陰一揆 (やまげいっき)記念碑 →1.2 km 」と書いてある標識がこの三叉路 (さんさろ)にあります。



写真Q: 北を見たものです。 左の道を進み国道10号の下のトンネルをくぐって都農町 大字川北 字又猪野にある石碑 (せきひ)の所に行きます。 石碑は又猪野地区集会所 (公民館)にあります。



写真R: 北西を見たものです。



写真S: 国道10号の下のトンネルが見えます。 このトンネルを通って先 (北西)に進みます。



写真T: 「山陰百姓一揆留置の地の碑」に行く道は国道10号の下のトンネルを通って北西に進みます。



写真U: トンネルをくぐって北西に進むと森の中の道があります。 来た道を振 (ふ)り返ったものです。 道は舗装 (ほそう)してあります。



写真V: 奥は畑地になっています。 森の外 (はず)れの所です。 北西を見たものです。



写真W: 畜産の施設があります。



写真X: 森の北西に畜産農家があります。



写真Y: 北西を見たものです。 左は大根畑になっています。 ネットをまわりに張 (は)ってあります。



写真Z: 南西を見たものです。 農業用ビニールハウス、大根畑、杉林などがあります。



写真AA: 広い大根畑と農業用ビニールハウスです。



写真AB: 左端が来た森の中の道です。



写真AC: 来た道を振 (ふ)り返ったものです。



写真AD: 左は畜産の施設です。



写真AE: しばらく進むとT字路にぶつかります。 奥の建物にはアマチュア無線のアンテナがあります。 ここを左に曲がって山陰百姓一揆 (やまげひゃくしょういっき)の留置の地碑のある又猪野地区集会所 (公民館)に行きます。 北を見たものです。



写真AF: この三叉路 (T字路)に「山陰一揆 (やまげいっき)記念碑 ←200 m 」と書いてある標識があります。



写真AG: 「山陰一揆 (やまげいっき)記念碑 ←200 m 」と書いてある標識です。



写真AH: 南を見たものです。 来た道を振 (ふ)り返ったものです。 まわりは畑になっています。



写真AI: 東を見たものです。 三叉路 (さんさろ)付近の様子 (ようす)です。



写真AJ: 三叉路 (さんさろ)付近です。



写真AK: 左にアマチュア無線のアンテナが見えます。



写真AL: 三叉路 (さんさろ)の近くです。 先に進みます。 民家もあります。



写真AM: 三叉路 (さんさろ)にある標識も見えます。



写真AN: 草が茂 (しげ)っています。



写真AO: 小さめのミラーがあります。



写真AP: 来た道を振 (ふ)り返ったものです。 右になだらかな山も見えます。 南を見たものです。



写真AQ: 電柱、畑、ネットなどがあります。



写真AR: しばらく進むとこの三叉路 (さんさろ)があります。 右の道を進むとすぐに右手に又猪野地区集会所 (公民館)があります。 右の道を先に進むと長野開拓地区に行きます。 西を見たものです。



写真AS: 三叉路 (さんさろ)から見た記念碑がある又猪野地区集会所 (公民館)です。 集会所の裏は森になっています。 手前にアジサイを植えてあります。 北西を見たものです。



写真AT: 又猪野地区集会所のそばの三叉路 (さんさろ)です。 北西を見たものです。



写真AU: 三叉路 (さんさろ)にミラーがあります。 近くには大根畑、民家、山、杉林などがあります。 西を見たものです。



写真AV: 大根畑、杉林、竹林、遠くの山も見えます。 南西を見たものです。



写真AW: 南を見たものです。



写真AX: 南東を見たものです。



写真AY: 東を見たものです。 来た道を振 (ふ)り返ったものです。 民家も見えます。 左にアジサイを植えてあります。



写真AZ: 大根畑の奥は高台になっています。 高台に建物が見えます。 北東を見たものです。



写真BA: 北を見たものです。 左に記念碑がある又猪野地区集会所 (公民館)が見えます。



写真BB: 西を見たものです。



写真BC: 高台に又猪野地区集会所 (又猪野公民館)があります。 中央に大きな石碑 (せきひ)があります。 これが「山陰百姓逃散一揆 (いっき)留置地之碑」です。 山陰一揆から310年を記念して建立 (こんりゅう)されました。



写真BD: 又猪野地区集会所の南側に細い道があります。 左の木はツバキのようです。 その奥に大きな石碑 (せきひ)と桜と思われる木があります。 北東を見たものです。



写真BE: 「山陰村 坪谷村 百姓一揆 (ひゃくしょういっき)足留めの小屋掛伝承の地、元禄3年 (1690年)9月から同4年7月まで約300世帯、約1400名この地にとどめられる。」と書いてある標柱がツバキと桜の木の間にあります。 又猪野地区集会所 (公民館)です。 北を見たものです。



写真BF: 「山陰村 (やまげむら) 坪谷村 百姓一揆 (ひゃくしょういっき)足留めの小屋掛伝承の地、元禄3年 (1690年)9月から同4年7月まで約300世帯、約1400名この地にとどめられる。」と書いてある標柱です。



写真BG: 又猪野地区集会所 (又猪野公民館)です。 この敷地に「山陰百姓逃散一揆留置地之碑」の大きな石碑 (せきひ)があります。



写真BH: 「又猪野地区集会所」と玄関に書いてあります。



写真BI: 南東を見たものです。 「山陰百姓逃散一揆留置地之碑」が見えます。 山陰一揆から310年を記念して建立 (こんりゅう)されました。



写真BJ: 「山陰百姓逃散一揆留置地之碑」と又猪野地区集会所が見えます。



写真BK: 地区集会所の裏は森になっています。



写真BL: ソテツの木があります。



写真BM: 北西を見たものです。。



写真BN: 先に民家も見えます。 農業用ビニールハウスもあります。 この道を進むと長野開拓地区に行きます。



写真BO: 西を見たものです。 遠くの山も見えます。 畑と民家もあります。



写真BP: 南西を見たものです。 遠くの山が見えます。 杉林、畑、道路、民家も見えます。
遠くの山々の形などは江戸時代の百姓一揆のころとほとんど変わっていないと思います。
1690年9月から1691年7月までこの又猪野で299世帯 (1422人)が留置されました。 日向市 東郷町の山陰 (やまげ)と坪谷の農民は百姓一揆 (ひゃくしょういっき)の逃散で薩摩藩に行く計画でしたが、歩いてきてここに高鍋藩により足留め (あしどめ)され小屋で暮らしました。 不自由な生活により子供・老人など79人がこの地で死亡しました。
百姓一揆 (ひゃくしょういっき)の人たちもこの遠くの山を眺 (なが)めていたことでしょう。



写真BQ: 南を見たものです。 道路が見えます。



写真BR: 左に大きな石碑 (せきひ)があります。 山陰一揆から310年を記念して建立 (こんりゅう)されました。



写真BS: 「山陰村 坪谷村 百姓一揆足留めの小屋掛伝承の地、元禄3年 (1690年)9月から同4年7月まで約300世帯、約1400名この地にとどめられる。」と書いてある標柱がツバキの木のそばにあります。



写真BT: 標柱の下部です。 手前にアジサイを植えてあります。



写真BU: 「元禄3年 (1690年)9月から同4年7月まで約300世帯、約1400名この地にとどめられる。」と書いてある標柱です。



写真BV: 300周年記念の標柱が桜の木の根元にあります。



写真BW: ソテツと桜があります。



写真BX: 宮崎県 児湯郡 都農町 大字川北 字又猪野 にある又猪野地区集会所の「山陰百姓逃散一揆留置地之碑」です。 山陰一揆から310年を記念して建立 (こんりゅう)されました。



写真BY: 又猪野地区集会所です。 右の方です。



写真BZ: 玄関付近です。



写真CA: 左の方です。 竹林もあります。



写真CB: 長野開拓地区に行く道です。



写真CC: ここ又猪野に11ヶ月間、足留め (あしどめ)された東郷町の一揆  (いっき)の人たち299世帯 (1422人)もこの山の景色を見たことでしょう。



写真CD: 又猪野地区集会所から見たものです。



写真CE: 南を見たものです。 左はソテツの木です。



写真CF: 左端は大きな石碑 (せきひ)です。



写真CG: 又猪野地区集会所の桜です。 下にツバキとソテツがあります。



写真CH: 又猪野地区集会所の敷地と景色です。



写真CI: 都農町にある又猪野地区集会所の敷地に「山陰百姓逃散一揆留置地之碑 (やまげひゃくしょうとうさんいっきりゅうちちのひ)」があります。 上部は色の異なる2つの石で作られています。 後ろ (南東)には畑、民家などが見えます。



写真CJ: 「山陰百姓逃散一揆留置地之碑」と彫 (ほ)ってあります。 明るい茶色の部分はまわりとは別の石で作られています。 山陰一揆から310年を記念して建立 (こんりゅう)されました。



写真CK: 「山陰百姓逃散一揆留置地之碑」が又猪野地区集会所にあります。
解説
 ときは元禄 (げんろく)の頃、あいつぐ天災にくわえ、延岡藩役人の容赦 (ようしゃ)ない年貢 (ねんぐ)取り立てなどの悪政に堪 (た)えかねた山陰・坪谷両村の百姓299所帯 (世帯)、1422名が元禄3年 (1690年)9月19日に一斉に (いっせい)に村をすて高鍋藩領を目指 (めざ)して逃散 (とうさん)した。
 高鍋藩は百姓たちを股猪野原 (現在の都農町 又猪野)に小屋を作り全員を収容した。 逃散の百姓たちは高鍋藩から飯米の給付を受けたが、拘束 (こうそく)された不自由な生活を送っていた。 月日がたつにつれ老人や子どもなど79名もの死亡者が出るほど悲惨 (ひさん)な生活状態であった。
 約11ヶ月に及 (およ)ぶ小屋掛 (か)け生活の間に延岡、高鍋両藩の帰村の説得には応じず、ついに幕府評定所の裁定によって一揆 (いっき)首謀者等関係者ははりつけや打ち首などの死罪、島流しの刑 (けい)を受けた。 その他の村人は放免 (ほうめん)となり、元禄4年7月に帰村した。
 逃散事件から310年の年を迎え、自分たちの生きる権利の獲得 (かくとく)のためにこの股猪野原で強く生きた逃散百姓たちの霊 (れい)を供養 (くよう)し、この碑 (ひ)を建立 (こんりゅう)する。
平成12年 (2000年)9月19日 (9月19日は一揆の始まった日です。)
東郷町・東郷町教育委員会 都農町・都農町教育委員会
と書かれています。



写真CL: 「山陰百姓逃散一揆留置地之碑」があります。
解説
 ときは元禄 (げんろく)の頃、あいつぐ天災にくわえ、延岡藩役人の容赦 (ようしゃ)ない年貢 (ねんぐ)取り立てなどの悪政に堪 (た)えかねた山陰・坪谷両村の百姓299所帯 (世帯)、1422名が元禄3年 (1690年)9月19日に一斉に (いっせい)に村をすて高鍋藩領を目指 (めざ)して逃散 (とうさん)した。
 高鍋藩は百姓たちを股猪野原 (現在の都農町 又猪野)に小屋を作り全員を収容した。 逃散の百姓たちは高鍋藩から飯米の給付を受けたが、拘束 (こうそく)された不自由な生活を送っていた。 月日がたつにつれ老人や子どもなど79名もの死亡者が出るほど悲惨 (ひさん)な生活状態であった。
 約11ヶ月に及 (およ)ぶ小屋掛 (か)け生活の間に延岡、高鍋両藩の帰村の説得には応じず、ついに幕府評定所の裁定によって一揆 (いっき)首謀者等関係者ははりつけや打ち首などの死罪、島流しの刑 (けい)を受けた。 その他の村人は放免 (ほうめん)となり、元禄4年7月に帰村した。
 逃散事件から310年の年を迎え、自分たちの生きる権利の獲得 (かくとく)のためにこの股猪野原で強く生きた逃散百姓たちの霊 (れい)を供養 (くよう)し、この碑 (ひ)を建立 (こんりゅう)する。
平成12年 (2000年)9月19日 (9月19日は一揆の始まった日です。)
東郷町・東郷町教育委員会 都農町・都農町教育委員会
と書かれています。



写真CM: 「山陰百姓逃散一揆留置地之碑」が又猪野地区集会所にあります。
解説
 ときは元禄 (げんろく)の頃、あいつぐ天災にくわえ、延岡藩役人の容赦 (ようしゃ)ない年貢 (ねんぐ)取り立てなどの悪政に堪 (た)えかねた山陰・坪谷両村の百姓299所帯 (世帯)、1422名が元禄3年 (1690年)9月19日に一斉に (いっせい)に村をすて高鍋藩領を目指 (めざ)して逃散 (とうさん)した。
 高鍋藩は百姓たちを股猪野原 (現在の都農町 又猪野)に小屋を作り全員を収容した。 逃散の百姓たちは高鍋藩から飯米の給付を受けたが、拘束 (こうそく)された不自由な生活を送っていた。 月日がたつにつれ老人や子どもなど79名もの死亡者が出るほど悲惨 (ひさん)な生活状態であった。
 約11ヶ月に及 (およ)ぶ小屋掛 (か)け生活の間に延岡、高鍋両藩の帰村の説得には応じず、ついに幕府評定所の裁定によって一揆 (いっき)首謀者等関係者ははりつけや打ち首などの死罪、島流しの刑 (けい)を受けた。 その他の村人は放免 (ほうめん)となり、元禄4年7月に帰村した。
 逃散事件から310年の年を迎え、自分たちの生きる権利の獲得 (かくとく)のためにこの股猪野原で強く生きた逃散百姓たちの霊 (れい)を供養 (くよう)し、この碑 (ひ)を建立 (こんりゅう)する。
平成12年 (2000年)9月19日 (9月19日は一揆の始まった日です。)
東郷町・東郷町教育委員会 都農町・都農町教育委員会
と書かれています。



写真CN: 「山陰百姓逃散一揆留置地之碑」です。
解説
 ときは元禄 (げんろく)の頃、あいつぐ天災にくわえ、延岡藩役人の容赦 (ようしゃ)ない年貢 (ねんぐ)取り立てなどの悪政に堪 (た)えかねた山陰・坪谷両村の百姓299所帯 (世帯)、1422名が元禄3年 (1690年)9月19日に一斉に (いっせい)に村をすて高鍋藩領を目指 (めざ)して逃散 (とうさん)した。
 高鍋藩は百姓たちを股猪野原 (現在の都農町 又猪野)に小屋を作り全員を収容した。 逃散の百姓たちは高鍋藩から飯米の給付を受けたが、拘束 (こうそく)された不自由な生活を送っていた。 月日がたつにつれ老人や子どもなど79名もの死亡者が出るほど悲惨 (ひさん)な生活状態であった。
 約11ヶ月に及 (およ)ぶ小屋掛 (か)け生活の間に延岡、高鍋両藩の帰村の説得には応じず、ついに幕府評定所の裁定によって一揆 (いっき)首謀者等関係者ははりつけや打ち首などの死罪、島流しの刑 (けい)を受けた。 その他の村人は放免 (ほうめん)となり、元禄4年7月に帰村した。
 逃散事件から310年の年を迎え、自分たちの生きる権利の獲得 (かくとく)のためにこの股猪野原で強く生きた逃散百姓たちの霊 (れい)を供養 (くよう)し、この碑 (ひ)を建立 (こんりゅう)する。
平成12年 (2000年)9月19日 (9月19日は一揆の始まった日です。)
東郷町・東郷町教育委員会 都農町・都農町教育委員会
と書かれています。



写真CO: 「山陰百姓逃散一揆留置地之碑」です。
解説
 ときは元禄 (げんろく)の頃、あいつぐ天災にくわえ、延岡藩役人の容赦 (ようしゃ)ない年貢 (ねんぐ)取り立てなどの悪政に堪 (た)えかねた山陰・坪谷両村の百姓299所帯 (世帯)、1422名が元禄3年 (1690年)9月19日に一斉に (いっせい)に村をすて高鍋藩領を目指 (めざ)して逃散 (とうさん)した。
 高鍋藩は百姓たちを股猪野原 (現在の都農町 又猪野)に小屋を作り全員を収容した。 逃散の百姓たちは高鍋藩から飯米の給付を受けたが、拘束 (こうそく)された不自由な生活を送っていた。 月日がたつにつれ老人や子どもなど79名もの死亡者が出るほど悲惨 (ひさん)な生活状態であった。
 約11ヶ月に及 (およ)ぶ小屋掛 (か)け生活の間に延岡、高鍋両藩の帰村の説得には応じず、ついに幕府評定所の裁定によって一揆 (いっき)首謀者等関係者ははりつけや打ち首などの死罪、島流しの刑 (けい)を受けた。 その他の村人は放免 (ほうめん)となり、元禄4年7月に帰村した。
 逃散事件から310年の年を迎え、自分たちの生きる権利の獲得 (かくとく)のためにこの股猪野原で強く生きた逃散百姓たちの霊 (れい)を供養 (くよう)し、この碑 (ひ)を建立 (こんりゅう)する。
平成12年 (2000年)9月19日 (9月19日は一揆の始まった日です。)
東郷町・東郷町教育委員会 都農町・都農町教育委員会
と書かれています。



写真CP: 「山陰百姓逃散一揆留置地之碑」です。
解説
 ときは元禄 (げんろく)の頃、あいつぐ天災にくわえ、延岡藩役人の容赦 (ようしゃ)ない年貢 (ねんぐ)取り立てなどの悪政に堪 (た)えかねた山陰・坪谷両村の百姓299所帯 (世帯)、1422名が元禄3年 (1690年)9月19日に一斉に (いっせい)に村をすて高鍋藩領を目指 (めざ)して逃散 (とうさん)した。
 高鍋藩は百姓たちを股猪野原 (現在の都農町 又猪野)に小屋を作り全員を収容した。 逃散の百姓たちは高鍋藩から飯米の給付を受けたが、拘束 (こうそく)された不自由な生活を送っていた。 月日がたつにつれ老人や子どもなど79名もの死亡者が出るほど悲惨 (ひさん)な生活状態であった。
 約11ヶ月に及 (およ)ぶ小屋掛 (か)け生活の間に延岡、高鍋両藩の帰村の説得には応じず、ついに幕府評定所の裁定によって一揆 (いっき)首謀者等関係者ははりつけや打ち首などの死罪、島流しの刑 (けい)を受けた。 その他の村人は放免 (ほうめん)となり、元禄4年7月に帰村した。
 逃散事件から310年の年を迎え、自分たちの生きる権利の獲得 (かくとく)のためにこの股猪野原で強く生きた逃散百姓たちの霊 (れい)を供養 (くよう)し、この碑 (ひ)を建立 (こんりゅう)する。
平成12年 (2000年)9月19日 (9月19日は一揆の始まった日です。)
東郷町・東郷町教育委員会 都農町・都農町教育委員会
と書かれています。



写真CQ: 「山陰百姓逃散一揆留置地之碑」が又猪野地区集会所にあります。
解説
 ときは元禄 (げんろく)の頃、あいつぐ天災にくわえ、延岡藩役人の容赦 (ようしゃ)ない年貢 (ねんぐ)取り立てなどの悪政に堪 (た)えかねた山陰・坪谷両村の百姓299所帯 (世帯)、1422名が元禄3年 (1690年)9月19日に一斉に (いっせい)に村をすて高鍋藩領を目指 (めざ)して逃散 (とうさん)した。
 高鍋藩は百姓たちを股猪野原 (現在の都農町 又猪野)に小屋を作り全員を収容した。 逃散の百姓たちは高鍋藩から飯米の給付を受けたが、拘束 (こうそく)された不自由な生活を送っていた。 月日がたつにつれ老人や子どもなど79名もの死亡者が出るほど悲惨 (ひさん)な生活状態であった。
 約11ヶ月に及 (およ)ぶ小屋掛 (か)け生活の間に延岡、高鍋両藩の帰村の説得には応じず、ついに幕府評定所の裁定によって一揆 (いっき)首謀者等関係者ははりつけや打ち首などの死罪、島流しの刑 (けい)を受けた。 その他の村人は放免 (ほうめん)となり、元禄4年7月に帰村した。
 逃散事件から310年の年を迎え、自分たちの生きる権利の獲得 (かくとく)のためにこの股猪野原で強く生きた逃散百姓たちの霊 (れい)を供養 (くよう)し、この碑 (ひ)を建立 (こんりゅう)する。
平成12年 (2000年)9月19日 (9月19日は一揆の始まった日です。)
東郷町・東郷町教育委員会 都農町・都農町教育委員会
と書かれています。



写真CR: 石碑 (せきひ)の裏です。 このように2つの石を使って作られています。 山陰百姓逃散一揆留置地之碑。



写真CS: 石碑 (せきひ)の裏の中部です。



写真CT: このように台の上に載 (の)っています。



写真CU: 石碑 (せきひ)の台の部分です。



写真CV: 石碑 (せきひ)の近くです。



写真CW: 桜とツバキもあります。 左に細い道があります。



写真CX: 石碑 (せきひ)から南東を見たものです。 畑、電柱、車道などが見えます。



写真CY: 石碑 (せきひ)から東を見たものです。 民家、畑、電柱などが見えます。



写真CZ: 細い道があります。 左は桜の木です。



写真DA: 左端は又猪野地区集会所 (公民館)です。



写真DB: 石碑 (せきひ)のところから見た又猪野地区集会所です。



写真DC: 集会所のそばにある細い道です。



写真DD: 細い道です。 奥は畑です。



写真DE: 細い道が続いています。 左は桜です。



写真DF: 都農町 大字川北 字又猪野にある又猪野地区集会所 (公民館)です。



写真DG: 又猪野地区集会所の右の方です。



写真DH: 竹林があります。



写真DI: 桜の木です。



写真DJ: 竹林です。



写真DK: 又猪野地区集会所の裏の方です。 裏には竹もあります。



写真DL: 又猪野地区集会所の裏です。



写真DM: 裏側の中部です。



写真DN: 裏側は高くなっています。



写真DO: 裏側には竹と木があります。



写真DP:  裏側の様子 (ようす)です。



写真DQ: 裏の方の上部です。



写真DR: 栗の毬 (いが)が落ちていました。



写真DS: 地区集会所の敷地 (しきち)の裏は高くなっています。



写真DT: ソテツの木、農業用ビニールハウスも見えます。



写真DU: 手前は集会所の敷地 (しきち)です。



写真DV: 集会所の側面です。



写真DW: 側面の下部です。



写真DX: 集会所の側面の上部です。



写真DY: 集会所の角 (かど)の上部です。



写真DZ: この道を進むと長野開拓地区に行きます。



写真EA: 民家、畑、電柱も見えます。



写真EB: 民家、農業用ビニールハウスもあります。



写真EC: 杉林、車道も見えます。 南を見たものです。



写真ED: 奥に三叉路 (さんさろ)があります。



写真EE: 側面から見た又猪野地区集会所 (公民館)です。



写真EF: 裏はこのようになっています。



写真EG: 奥に進むと長野開拓地区に行きます。 民家も見えます。



写真EH: 野草の「ホトケノザの花」が咲いていました。



写真EI: 左奥に又猪野地区集会所があります。



写真EJ: 集会所の裏の森を側面から見たものです。



写真EK: 民家が集会所の隣 (とな)りにあります。 そこは少し高くなっています。



写真EL: 民家の近くです。



写真EM: 先には長野開拓地区があります。



写真EN: 畑と民家、電柱も見えます。



写真EO: 遠くの山々、畑、電柱があります。



写真EP: なだらかな山々が見えます。



写真EQ: 左奥に三叉路 (さんさろ)があります。



写真ER: 又猪野地区集会所のソテツの木も見えます。



写真ES: 遠くの山が美しい。 手前に芭蕉 (ばしょう)の木があります。



写真ET: 又猪野地区集会所のそばから見たなだらかな山です。



写真EU: 山の方から煙 (けむり)が立ち上 (のぼ)っていました。 家も見えます。 又猪野地区集会所の近くから。



写真EV: 左は杉林です。



写真EW: 車道も見えます。 南を見たものです。



写真EX: 又猪野地区の風景です。



写真EY: 又猪野地区集会所のそばから日向灘 (太平洋)が見えます。 百姓一揆 (ひゃくしょういっき)の約1400人もこの海をここから眺 (なが)めていたことでしょう。 又猪野地区集会所のソテツの木も見えます。



写真EZ: 道沿 (ぞ)いにアジサイを植えてあります。



写真FA: 又猪野地区集会所の敷地 (しきち)です。 道路から見たものです。



写真FB: ツバキの木と桜の木の間に標柱があります。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)