田野天建神社、さくらが丘保育園、油津に漂着した百済 (くだら)国王が田野に住んだという伝説 (田野郵便局、たのてんけん神社、面白 (おもしろ)い穴のあいた石 (田野天建神社)、JR 田野駅、宮崎市立田野小学校、田野町の町並み (まちなみ)、天児屋根尊、大国主尊、御祭神 百済国王 (くだらこくおう))  (宮崎県 宮崎市 田野町 甲)







<標高、位置>  田野天建神社 (たのてんけんじんじゃ)は
標高 約130 m
 北緯31度50分19秒  東経131度18分08秒

<標高、位置>  JR 田野駅は
標高 約140 m
 北緯31度50分18秒  東経131度18分15秒

<標高、位置>  田野郵便局は
標高 約130 m
 北緯31度50分18秒  東経131度18分12秒

<標高、位置>  田野総合支所は
標高 約130 m
 北緯31度50分20秒  東経131度18分04秒

<標高、位置>  宮崎市立田野小学校は
標高 約130 m
 北緯31度50分14秒  東経131度18分08秒

<標高、位置>  さくらが丘保育園は
標高 約130 m
 北緯31度50分19秒  東経131度18分07秒


 「田野天建神社 (たのてんけんじんじゃ)」は宮崎県 宮崎市 田野町 字宮ノ原 甲 2793 にあります。
明治11年11月3日に田野小学校の前身の簡易中原小学校の校舎を田野天建神社の敷地内に新築しました。 これが田野小学校の創立記念日です。 明治33年4月1日に田野小学校は現在地に移転しました。
「田野天建神社」の(別の)説明板から、
 上桜地区にあるこの神社には、旧 田野神社の大己貴命、旧 田野大宮大明神の百済王 (くだらおう)、天建神社の天児屋根命の3神が合祀 (ごうし)されている。 旧 田野神社の勧請 (かんじょう)年月は天正6年 (1578年)以前の記述が史書にあるが、明白でない。 明治4年 (1871年)11月、田野村村社・田野神社となった経歴もある。 百済王 (くだらおう)を祭った旧 田野大宮大明神縁起 (えんぎ)由来の祠 (ほこら)は初め持田にあり、後に仏堂園 元倉に建てられたが、明治4年に田野神社に合祀 (ごうし)された。 天建神社の祭神は伊東家の祖神 天児屋根命で、寛文元年 (1661年)、宮田家の祖先、武田六右衛門が第4代藩主 祐由の怒りに触 (ふ)れ田野に左遷された際、楠原に社 (やしろ)を建てたものである。 大正2年に田野神社に合祀 (ごうし)され、大正3年 (1914年)から田野天建神社と呼 (よ)ぶようになった。 宮田家が代々の祠官 (しかん、神社に仕 (つか)える神職。)として現在に至 (いた)る。 例祭は以前は7月20日だったが、現在は、「ふるさと祭り」の日に神社の御神幸のみが参加している。
 「田野天建神社御由緒 (ゆいしょ)」の説明板から、
歴史
元徳2年 (1330年)伊東祐持日向国下向時、兵道宮田荒ニ郎義立に命じ、天児屋根命 (あまのこやねのみこと)を勧請 (かんじょう)、天建神社として武運長久を祈 (いの)る。
天正16年 (1588年)3月、伊東祐兵封を飫肥 (おび)に受け、天建神社を楠原に建立 (こんりゅう)。
寛文元年 (1661年)社殿名字名をも併 (あわ)せて田野村に奉還。 宮田氏を祠官 (しかん、神社に仕える神職。)とさせ、伊東家の武運を祈り、神札を納 (おさ)める毎 (ごと)に謝状を下付した。
明治4年 (1871年)田野神社 (御祭神・大国主尊)に田野大宮大明神 (御祭神・百済国王 (くだらこくおう))が合祀 (ごうし)される。
大正2年 (1913年)天建神社が田野神社に合祀 (ごうし)される。
大正3年 (1914年)田野天建神社と称 (しょう)し奉 (たてまつ)る。
天児屋根尊 (あまのこやねのみこと)
 中臣氏、後の藤原氏の祖神である。 「古事記」、「日本書紀」に見る神話では、天照大神のお隠れになった天の岩戸を開こうとされる際、この神が面白い節回しで祝詞 (のりと)を唱 (とな)えて天宇受売尊が踊 (おど)ったとあり、天児屋根尊が宮廷の祭祀 (さいし)をつとめる神であることがわかる。
 天児屋根尊を祭神とする神社の総本社は大阪府の牧岡神社である。 かつて、奈良の都に藤原氏一門の氏神 (うじがみ)である春日神社が創建された際、この神も同社の第3殿に勧請されたのであった。 飫肥藩主伊東氏の祖は、藤原系、工藤祐経とされている。 その伊東氏の日向国下向に際し、そのような例に倣 (なら)ってこの神が勧請され、天建神社が創建されたものと思われる。
大国主尊 (おおくにぬしのみこと)
 八俣大蛇 (やまたのおろち)退治で知られる須佐之男尊の子孫である。 葦原中津国 (国土)に君臨し、その開発と経営にあたった。 水利を通じ、田畝を開墾 (かいこん)し、山林を開発した外 (ほか)、畜産を興 (おこ)し、医療の法を教え獣や害虫等の災 (わざわ)いを祓 (はら)うなどの数々の事績を「古事記」、「日本書紀」の神話の中に見ることができる。 その様 (よう)にして、苦心して造りあげた国土を天照大神に捧 (ささ)げた国譲 (ゆず)りの神話は特に有名である。 又、因幡 (いなば)の白兎 (しろうさぎ)の神話に見られる様にも、大変親しみ易 (やす)く、人々に富をもたらしてくれる福の神、大黒様 (だいこくさま)として古くより広く民衆からの信仰を集めてきた。
御祭神 百済国王 (くだらこくおう)
 昔、百済国王の船が日向の油津に漂着された。 王は我が住処は何処 (どこ)にしたものかと見回した時、遥 (はる)か北の方の山に五色の雲が舞い下がった。 王は彼処が我が住地だとつぶやいて小姓 (こしょう)1人を従 (したが)えてわけ入った。 峻しき路に疲れて、小姓は魂 (たましい)が抜 (ぬ)けたようになった。 王は谷川の水を掬 (すく)って彼の口にそそいだ。 小姓は忽 (たちま)ちその水で正気を取り戻 (もど)した。 かくしてこの坂は後に「小姓」坂と呼 (よ)ばれた。 それからなお進んで、一宿した処 (ところ)を後に宿野 (しゅくの)といった。 折 (おり)から田野の男達8人がその前を通って王を見つけ、その怪異の姿に敬意を起こし恭 (うやうや)しく話かけたが王は何も言わない。 そこで彼らは、持っていた蔦葛 (つたかずら)をうち振り身ぶりおかしく舞を舞った。 王はその時微笑した。 後永くシャグリ舞いと言ってこの時の舞いの様子 (ようす)を伝えたと云 (い)う。 彼らは、それから王を導いて田野に帰り、そこに仮殿を建てて仕 (つか)えた。 不思議にも王の手飼いの鶴 (つる)が王を慕 (した)って飛び来り、その仮殿を守護した。 王は月毛 (馬の毛色で、葦 (あし)毛のやや赤みのあるもの。)の駒 (こま)を愛し、それに跨 (またが)ってあちこちと遊覧してまわられた。 ある時、王の馬は何かに驚いたのか急に躍 (おど)り上がって、王を乗せたまま井戸の中にとびこんでしまった。 そのため、王の冥福 (めいふく)を祈り、村内の井戸を全 (すべ)て埋 (う)め、またそれ以来、田野では月毛 (馬の毛色で、葦 (あし)毛のやや赤みのあるもの。)の馬を忌(い)むと云 (い)う。 王は、かくて薄命の身の終わりを告げたが、村人は厚く王を葬 (ほおむ)り、神として祀 (まつ)ったと云 (い)う。

 「JR 田野駅」は宮崎県 宮崎市 田野町 甲 にあります。
 田野駅はJR九州の日豊本線の駅です。 単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線があります。 跨線橋 (こせんきょう)がある地上駅です。 無人駅ですが、自動発券機があります。 IC乗車カードのSUGOCAを利用できる駅です。 簡易SUGOCA改札機がありますが、SUGOCAの販売やチャージはこの駅ではやっていません。 1916年 (大正5年)10月25日に鉄道院が田野駅を開設しました。 1971年 (昭和46年)2月1日に貨物取扱いを廃止しました。 1978年 (昭和53年)9月18日に自動信号化が行われました。 1979年 (昭和54年)10月1日に業務委託化されました。 1987年 (昭和62年)4月1日に国鉄分割民営化により九州旅客鉄道が継承 (けいしょう)しました。 2015年 (平成27年)11月14日にICカードSUGOCAが利用できるようになりました。 隣 (とな)りの駅などは日向沓掛 (くつかけ)駅−田野駅−(門石信号場)−青井岳駅となっています。
田野駅にある「日豊線田野駅開通100周年」の掲示から、
明治5年東京新橋と横浜間に鉄道が開通してからおよそ、20年を経 (へ)て、明治25年日向鉄道協会が設立され、宮崎線の敷設 (ふせつ)が企画された。 それから16年を経 (へ)て明治41年6月に帝国鉄道庁が吉松・小林・高岡・宮崎に至 (いた)る路線を踏査 (とうさ)し、ようやく、鉄道敷設の曙光を見ることができた。 当時日豊線は日向縦貫鉄道と称 (しょう)していた。 しかし、当初の路線計画の地主たちが、「鉄道が通ると大切な田んぼがつぶされる。 汽車が通ると田んぼが地割れして稲が育たない。 よそからの悪い者が流れ込 (こ)んで来る。」 などと言って反対し、その声は計画沿線 (えんせん)に広がり、結局、沿線住民の希望によって、明治44年3月小林から都城に遠回りして、山之口・田野を経 (へ)て、宮崎に至 (いた)る路線が確定した。 大正3年12月田野工事事務所が現在の田野駅舎の場所に開設された。 都城・青井岳間は大正5年4月10日開通。 その間 青井岳〜大久保間は駅馬車が1日に往復3回通っていた。 大正5年10月25日国鉄日豊線が開通し、田野駅が営業を開始した。 昭和54年10月1日から日豊線の電化に伴 (ともな)って営業の近代化により、田野駅は委託駅・・・無人駅となって現在に至 (いた)っている。

 「田野郵便局」は宮崎県 宮崎市 田野町 甲 2787-5 にあります。
田野郵便局は郵便窓口、貯金窓口、保険窓口、ATMの業務を行っています。 駐車場は10台です。

 「田野総合支所」は宮崎県 宮崎市 田野町 甲 2818 にあります。

 「宮崎市立田野小学校」は宮崎県 宮崎市 田野町 甲 2856 にあります。
田野小学校の合言葉は田野小ファミリーです。 教育目標は豊かな感性をもち、自ら考え正しく判断し、たくましく生きる子供の育成です。

 「さくらが丘保育園」は宮崎県 宮崎市 田野町 甲 2793番地4 にあります。
さくらが丘保育園は緑豊かな神社の境内 (けいだい)にあり、恵まれた環境の中で子供たちの主体性に主眼をおいた保育が行われています。 社会福祉法人さくらが丘福祉会が経営しています。


写真A: JR 田野駅です。 日豊本線の駅です。 ここから西に数分歩くと田野天建神社があります。
「JR 田野駅」は宮崎県 宮崎市 田野町 甲 にあります。



写真B: この道を西に進みます。 駅前の車道です。



写真C: 建物の上に田野天建神社の鎮守の森 (ちんじゅのもり)の杉の木が見えます。 西を見たものです。



写真D: 西を見たものです。 先に進むと田野郵便局、田野天建神社、さくらが丘保育園、田野総合支所などがあります。



写真E: 旅館「櫻屋 (さくらや)」があります。 田野郵便局の橙色 (だいだいいろ)の看板 (かんばん)が見えます。 西を見たものです。



写真F: 南西を見たものです。 田野小学校体育館が見えます。
「宮崎市立田野小学校」は宮崎県 宮崎市 田野町 甲 2856 にあります。
田野小学校の合言葉は田野小ファミリーです。 教育目標は豊かな感性をもち、自ら考え正しく判断し、たくましく生きる子供の育成です。



写真G: 西を見たものです。 右は田野郵便局です。 少し先に田野天建神社、田野総合支所などがあります。



写真H: 田野郵便局です。 駐車場もあります。
「田野郵便局」は宮崎県 宮崎市 田野町 甲 2787-5 にあります。
田野郵便局は郵便窓口、貯金窓口、保険窓口、ATMの業務を行っています。 駐車場は10台です。



写真I: 田野郵便局です。



写真J: 田野郵便局に「銀行ATM」と書いてある看板 (かんばん)があります。 飲料水の自動販売機もあります。 赤いポスト、入り口の屋根があります。



写真K: 「年金 給与のお受け取りは郵便局で。」と書いてあります。



写真L: 田野郵便局に「アフラック がん保険」と書いてあります。



写真M: 「〒 JP 郵便局 田野郵便局 P →」と書いてある看板 (かんばん)です。



写真N: 「田野郵便局 P →」と書いてあります。



写真O: 西を見たものです。 田野天建神社 (たのてんけんじんじゃ)の杉の木が見えます。



写真P: 田野町の商店街に田野天建神社があります。



写真Q: 右は田野天建神社とさくらが丘保育園です。 西を見たものです。



写真R: 奥に田野天建神社の鎮守の森 (ちんじゅのもり)と社殿が見えます。



写真S: 北を見たものです。



写真T: 来た道を振 (ふ)り返ったものです。 東を見たものです。 田野町の町並み (まちなみ)です。



写真U: 南東に田野小学校の体育館が見えます。



写真V: 「さくらが丘保育園」と書いてあります。 北を見たものです。



写真W: 田野天建神社の石の柵 (さく)、看板 (かんばん)、鳥居 (とりい)、石段、木などがあります。



写真X: 宮崎市 田野町にある田野天建神社の鳥居 (とりい)と看板 (かんばん)です。



写真Y: 鳥居 (とりい)と木の上部です。



写真Z: 右は郷土の名木「イチョウ」です。 田野天建神社の鎮守の森 (ちんじゅのもり)。 左下は社務所です。 北を見たものです。



写真AA: 左は社務所です。 北を見たものです。



写真AB: 石の柵 (さく)があります。



写真AC: 「総鎮守神 田野天建神社 祈願 (きがん)承 (うけたまわ)ります。」と書いてある看板 (かんばん)があります。



写真AD: 「酉年 (とりどし) 田野天建神社」と書いてあります。 左は鳥居 (とりい)です。



写真AE: 田野天建神社の鳥居 (とりい)の上部です。 「田野天建神社」と書いてある額 (がく)があります。 西を見たものです。



写真AF: 鳥居 (とりい)の下部です。



写真AG: 鳥居の下の方です。



写真AH: 石段があります。



写真AI: 鳥居に「田野天建神社」と書いてあります。



写真AJ: 田野天建神社の社務所です。



写真AK: 奥に拝殿が見えます。 西を見たものです。



写真AL: 手水舎 (ちょうずや)です。 奥にさくらが丘保育園があります。 北西を見たものです。



写真AM: 「郷土の名木 (ケヤキ) 宮崎市」と書いてある標柱があります。 その右奥の木がケヤキと思われます。 「紀元2600年 鳥居建設記念碑」があります。 右は手水舎 (ちょうずや)です。 奥にさくらが丘保育園の遊具が見えます。 西を見たものです。



写真AN: 「郷土の名木 (ケヤキ) 宮崎市」と書いてある標柱です。



写真AO: 御神籤 (おみくじ)を木に縛 (しば)り付けてあります。



写真AP: 中央の木が郷土の名木のケヤキと思われます。 右はさくらが丘保育園の遊具です。 西を見たものです。



写真AQ: 郷土の名木 ケヤキの中部です。



写真AR: 郷土の名木 ケヤキの上部です。



写真AS: 「紀元2600年 鳥居建設記念碑」と彫 (ほ)ってある石碑 (せきひ)です。



写真AT: 「紀元2600年 鳥居建設記念碑」と彫 (ほ)ってある石碑 (せきひ)の下部です。



写真AU: 田野天建神社の手水舎 (ちょうずや)です。 「奉納」と書いてある手ぬぐいが見えます。



写真AV: 手水舎 (ちょうずや)の下部です。



写真AW: 奥はさくらが丘保育園です。
「さくらが丘保育園」は宮崎県 宮崎市 田野町 字宮ノ原 甲 2793番地4 にあります。



写真AX: 田野天建神社の手水鉢 (ちょうずはち)です。 水道の蛇口 (じゃぐち)もあります。



写真AY: 3つの石碑 (せきひ)と石灯籠 (いしどうろう)、絵馬 (えま)を掛 (か)ける所などがあります。 奥に狛犬 (こまいぬ)が見えます。



写真AZ: 御神籤 (おみくじ)を縛 (しば)り付ける所があります。



写真BA: 参道と奥の拝殿です。



写真BB: 右に説明板があります。



写真BC: 「田野天建神社御由緒 (ゆいしょ)」の説明板があります。



写真BD: 社務所に「伊勢神宮御札 (おふだ)、田野天建神社御札 (おふだ)、3本御神矢、御神矢、まねき猫、・・・」の値段が書いてあります。



写真BE: 社務所です。



写真BF: 「皇太子殿下御誕生記念」と彫 (ほ)ってある石碑 (せきひ)です。 右は社務所です。



写真BG: 「皇太子殿下御誕生記念」と彫 (ほ)ってある石碑 (せきひ)。



写真BH: 「皇太子殿下御誕生記念」と彫 (ほ)ってある石碑 (せきひ)の下部です。



写真BI: 「田野天建神社御由緒 (ゆいしょ)」の説明板があります。



写真BJ: 「田野天建神社御由緒 (ゆいしょ)」の説明板です。
歴史
元徳2年 (1330年)伊東祐持日向国下向時、兵道宮田荒ニ郎義立に命じ、天児屋根命を勧請 (かんじょう)、天建神社として武運長久を祈 (いの)る。
天正16年 (1588年)3月、伊東祐兵封を飫肥 (おび)に受け、天建神社を楠原に建立 (こんりゅう)。
寛文元年 (1661年)社殿名字名をも併 (あわ)せて田野村に奉還。 宮田氏を祠官 (しかん、神社に仕える神職。)とさせ、伊東家の武運を祈り、神札を納 (おさ)める毎 (ごと)に謝状を下付した。
明治4年 (1871年)田野神社 (御祭神・大国主尊)に田野大宮大明神 (御祭神・百済国王)が合祀 (ごうし)される。
大正2年 (1913年)天建神社が田野神社に合祀 (ごうし)される。
大正3年 (1914年)田野天建神社と称 (しょう)し奉 (たてまつ)る。
天児屋根尊
 中臣氏、後の藤原氏の祖神である。 「古事記」、「日本書紀」に見る神話では、天照大神のお隠れになった天の岩戸を開こうとされる際、この神が面白い節回しで祝詞 (のりと)を唱 (とな)えて天宇受売尊が踊 (おど)ったとあり、天児屋根尊が宮廷の祭祀 (さいし)をつとめる神であることがわかる。
 天児屋根尊を祭神とする神社の総本社は大阪府の牧岡神社である。 かつて、奈良の都に藤原氏一門の氏神 (うじがみ)である春日神社が創建された際、この神も同社の第3殿に勧請されたのであった。 飫肥藩主伊東氏の祖は、藤原系、工藤祐経とされている。 その伊東氏の日向国下向に際し、そのような例に倣 (なら)ってこの神が勧請され、天建神社が創建されたものと思われる。
大国主尊
 八俣大蛇 (やまたのおろち)退治で知られる須佐之男尊の子孫である。 葦原中津国 (国土)に君臨し、その開発と経営にあたった。 水利を通じ、田畝を開墾 (かいこん)し、山林を開発した外 (ほか)、畜産を興 (おこ)し、医療の法を教え獣や害虫等の災 (わざわ)いを祓 (はら)うなどの数々の事績を「古事記」、「日本書紀」の神話の中に見ることができる。 その様 (よう)にして、苦心して造りあげた国土を天照大神に捧 (ささ)げた国譲 (ゆず)りの神話は特に有名である。 又、因幡 (いなば)の白兎 (しろうさぎ)の神話に見られる様にも、大変親しみ易 (やす)く、人々に富をもたらしてくれる福の神、大黒様 (だいこくさま)として古くより広く民衆からの信仰を集めてきた。
御祭神 百済国王 (くだらこくおう)
 昔、百済国王の船が日向の油津に漂着された。 王は我が住処は何処 (どこ)にしたものかと見回した時、遥 (はる)か北の方の山に五色の雲が舞い下がった。 王は彼処が我が住地だとつぶやいて小姓 (こしょう)1人を従 (したが)えてわけ入った。 峻しき路に疲れて、小姓は魂 (たましい)が抜 (ぬ)けたようになった。 王は谷川の水を掬 (すく)って彼の口にそそいだ。 小姓は忽 (たちま)ちその水で正気を取り戻 (もど)した。 かくしてこの坂は後に「小姓」坂と呼 (よ)ばれた。 それからなお進んで、一宿した処 (ところ)を後に宿野 (しゅくの)といった。 折 (おり)から田野の男達8人がその前を通って王を見つけ、その怪異の姿に敬意を起こし恭 (うやうや)しく話かけたが王は何も言わない。 そこで彼らは、持っていた蔦葛 (つたかずら)をうち振り身ぶりおかしく舞を舞った。 王はその時微笑した。 後永くシャグリ舞いと言ってこの時の舞いの様子 (ようす)を伝えたと云 (い)う。 彼らは、それから王を導いて田野に帰り、そこに仮殿を建てて仕 (つか)えた。 不思議にも王の手飼いの鶴 (つる)が王を慕 (した)って飛び来り、その仮殿を守護した。 王は月毛 (馬の毛色で、葦 (あし)毛のやや赤みのあるもの。)の駒 (こま)を愛し、それに跨 (またが)ってあちこちと遊覧してまわられた。 ある時、王の馬は何かに驚いたのか急に躍 (おど)り上がって、王を乗せたまま井戸の中にとびこんでしまった。 そのため、王の冥福 (めいふく)を祈り、村内の井戸を全 (すべ)て埋 (う)め、またそれ以来、田野では月毛 (馬の毛色で、葦 (あし)毛のやや赤みのあるもの。)の馬を忌(い)むと云 (い)う。 王は、かくて薄命の身の終わりを告げたが、村人は厚く王を葬 (ほおむ)り、神として祀 (まつ)ったと云 (い)う。
と書かれています。



写真BK: 「田野天建神社御由緒 (ゆいしょ)」の説明板。
歴史
元徳2年 (1330年)伊東祐持日向国下向時、兵道宮田荒ニ郎義立に命じ、天児屋根命を勧請 (かんじょう)、天建神社として武運長久を祈 (いの)る。
天正16年 (1588年)3月、伊東祐兵封を飫肥 (おび)に受け、天建神社を楠原に建立 (こんりゅう)。
寛文元年 (1661年)社殿名字名をも併 (あわ)せて田野村に奉還。 宮田氏を祠官 (しかん、神社に仕える神職。)とさせ、伊東家の武運を祈り、神札を納 (おさ)める毎 (ごと)に謝状を下付した。
明治4年 (1871年)田野神社 (御祭神・大国主尊)に田野大宮大明神 (御祭神・百済国王)が合祀 (ごうし)される。
大正2年 (1913年)天建神社が田野神社に合祀 (ごうし)される。
大正3年 (1914年)田野天建神社と称 (しょう)し奉 (たてまつ)る。
天児屋根尊
 中臣氏、後の藤原氏の祖神である。 「古事記」、「日本書紀」に見る神話では、天照大神のお隠れになった天の岩戸を開こうとされる際、この神が面白い節回しで祝詞 (のりと)を唱 (とな)えて天宇受売尊が踊 (おど)ったとあり、天児屋根尊が宮廷の祭祀 (さいし)をつとめる神であることがわかる。
 天児屋根尊を祭神とする神社の総本社は大阪府の牧岡神社である。 かつて、奈良の都に藤原氏一門の氏神 (うじがみ)である春日神社が創建された際、この神も同社の第3殿に勧請されたのであった。 飫肥藩主伊東氏の祖は、藤原系、工藤祐経とされている。 その伊東氏の日向国下向に際し、そのような例に倣 (なら)ってこの神が勧請され、天建神社が創建されたものと思われる。
大国主尊
 八俣大蛇 (やまたのおろち)退治で知られる須佐之男尊の子孫である。 葦原中津国 (国土)に君臨し、その開発と経営にあたった。 水利を通じ、田畝を開墾 (かいこん)し、山林を開発した外 (ほか)、畜産を興 (おこ)し、医療の法を教え獣や害虫等の災 (わざわ)いを祓 (はら)うなどの数々の事績を「古事記」、「日本書紀」の神話の中に見ることができる。 その様 (よう)にして、苦心して造りあげた国土を天照大神に捧 (ささ)げた国譲 (ゆず)りの神話は特に有名である。 又、因幡 (いなば)の白兎 (しろうさぎ)の神話に見られる様にも、大変親しみ易 (やす)く、人々に富をもたらしてくれる福の神、大黒様 (だいこくさま)として古くより広く民衆からの信仰を集めてきた。
御祭神 百済国王 (くだらこくおう)
 昔、百済国王の船が日向の油津に漂着された。 王は我が住処は何処 (どこ)にしたものかと見回した時、遥 (はる)か北の方の山に五色の雲が舞い下がった。 王は彼処が我が住地だとつぶやいて小姓 (こしょう)1人を従 (したが)えてわけ入った。 峻しき路に疲れて、小姓は魂 (たましい)が抜 (ぬ)けたようになった。 王は谷川の水を掬 (すく)って彼の口にそそいだ。 小姓は忽 (たちま)ちその水で正気を取り戻 (もど)した。 かくしてこの坂は後に「小姓」坂と呼 (よ)ばれた。 それからなお進んで、一宿した処 (ところ)を後に宿野 (しゅくの)といった。 折 (おり)から田野の男達8人がその前を通って王を見つけ、その怪異の姿に敬意を起こし恭 (うやうや)しく話かけたが王は何も言わない。 そこで彼らは、持っていた蔦葛 (つたかずら)をうち振り身ぶりおかしく舞を舞った。 王はその時微笑した。 後永くシャグリ舞いと言ってこの時の舞いの様子 (ようす)を伝えたと云 (い)う。 彼らは、それから王を導いて田野に帰り、そこに仮殿を建てて仕 (つか)えた。 不思議にも王の手飼いの鶴 (つる)が王を慕 (した)って飛び来り、その仮殿を守護した。 王は月毛 (馬の毛色で、葦 (あし)毛のやや赤みのあるもの。)の駒 (こま)を愛し、それに跨 (またが)ってあちこちと遊覧してまわられた。 ある時、王の馬は何かに驚いたのか急に躍 (おど)り上がって、王を乗せたまま井戸の中にとびこんでしまった。 そのため、王の冥福 (めいふく)を祈り、村内の井戸を全 (すべ)て埋 (う)め、またそれ以来、田野では月毛 (馬の毛色で、葦 (あし)毛のやや赤みのあるもの。)の馬を忌(い)むと云 (い)う。 王は、かくて薄命の身の終わりを告げたが、村人は厚く王を葬 (ほおむ)り、神として祀 (まつ)ったと云 (い)う。
と書かれています。



写真BL: 「田野天建神社御由緒 (ゆいしょ)」の説明板です。
歴史
元徳2年 (1330年)伊東祐持日向国下向時、兵道宮田荒ニ郎義立に命じ、天児屋根命を勧請 (かんじょう)、天建神社として武運長久を祈 (いの)る。
天正16年 (1588年)3月、伊東祐兵封を飫肥 (おび)に受け、天建神社を楠原に建立 (こんりゅう)。
寛文元年 (1661年)社殿名字名をも併 (あわ)せて田野村に奉還。 宮田氏を祠官 (しかん、神社に仕える神職。)とさせ、伊東家の武運を祈り、神札を納 (おさ)める毎 (ごと)に謝状を下付した。
明治4年 (1871年)田野神社 (御祭神・大国主尊)に田野大宮大明神 (御祭神・百済国王)が合祀 (ごうし)される。
大正2年 (1913年)天建神社が田野神社に合祀 (ごうし)される。
大正3年 (1914年)田野天建神社と称 (しょう)し奉 (たてまつ)る。
天児屋根尊
 中臣氏、後の藤原氏の祖神である。 「古事記」、「日本書紀」に見る神話では、天照大神のお隠れになった天の岩戸を開こうとされる際、この神が面白い節回しで祝詞 (のりと)を唱 (とな)えて天宇受売尊が踊 (おど)ったとあり、天児屋根尊が宮廷の祭祀 (さいし)をつとめる神であることがわかる。
 天児屋根尊を祭神とする神社の総本社は大阪府の牧岡神社である。 かつて、奈良の都に藤原氏一門の氏神 (うじがみ)である春日神社が創建された際、この神も同社の第3殿に勧請されたのであった。 飫肥藩主伊東氏の祖は、藤原系、工藤祐経とされている。 その伊東氏の日向国下向に際し、そのような例に倣 (なら)ってこの神が勧請され、天建神社が創建されたものと思われる。
大国主尊
 八俣大蛇 (やまたのおろち)退治で知られる須佐之男尊の子孫である。 葦原中津国 (国土)に君臨し、その開発と経営にあたった。 水利を通じ、田畝を開墾 (かいこん)し、山林を開発した外 (ほか)、畜産を興 (おこ)し、医療の法を教え獣や害虫等の災 (わざわ)いを祓 (はら)うなどの数々の事績を「古事記」、「日本書紀」の神話の中に見ることができる。 その様 (よう)にして、苦心して造りあげた国土を天照大神に捧 (ささ)げた国譲 (ゆず)りの神話は特に有名である。 又、因幡 (いなば)の白兎 (しろうさぎ)の神話に見られる様にも、大変親しみ易 (やす)く、人々に富をもたらしてくれる福の神、大黒様 (だいこくさま)として古くより広く民衆からの信仰を集めてきた。
御祭神 百済国王 (くだらこくおう)
 昔、百済国王の船が日向の油津に漂着された。 王は我が住処は何処 (どこ)にしたものかと見回した時、遥 (はる)か北の方の山に五色の雲が舞い下がった。 王は彼処が我が住地だとつぶやいて小姓 (こしょう)1人を従 (したが)えてわけ入った。 峻しき路に疲れて、小姓は魂 (たましい)が抜 (ぬ)けたようになった。 王は谷川の水を掬 (すく)って彼の口にそそいだ。 小姓は忽 (たちま)ちその水で正気を取り戻 (もど)した。 かくしてこの坂は後に「小姓」坂と呼 (よ)ばれた。 それからなお進んで、一宿した処 (ところ)を後に宿野 (しゅくの)といった。 折 (おり)から田野の男達8人がその前を通って王を見つけ、その怪異の姿に敬意を起こし恭 (うやうや)しく話かけたが王は何も言わない。 そこで彼らは、持っていた蔦葛 (つたかずら)をうち振り身ぶりおかしく舞を舞った。 王はその時微笑した。 後永くシャグリ舞いと言ってこの時の舞いの様子 (ようす)を伝えたと云 (い)う。 彼らは、それから王を導いて田野に帰り、そこに仮殿を建てて仕 (つか)えた。 不思議にも王の手飼いの鶴 (つる)が王を慕 (した)って飛び来り、その仮殿を守護した。 王は月毛 (馬の毛色で、葦 (あし)毛のやや赤みのあるもの。)の駒 (こま)を愛し、それに跨 (またが)ってあちこちと遊覧してまわられた。 ある時、王の馬は何かに驚いたのか急に躍 (おど)り上がって、王を乗せたまま井戸の中にとびこんでしまった。 そのため、王の冥福 (めいふく)を祈り、村内の井戸を全 (すべ)て埋 (う)め、またそれ以来、田野では月毛 (馬の毛色で、葦 (あし)毛のやや赤みのあるもの。)の馬を忌(い)むと云 (い)う。 王は、かくて薄命の身の終わりを告げたが、村人は厚く王を葬 (ほおむ)り、神として祀 (まつ)ったと云 (い)う。
と書かれています。



写真BM: 「田野天建神社御由緒 (ゆいしょ)」の説明板。
歴史
元徳2年 (1330年)伊東祐持日向国下向時、兵道宮田荒ニ郎義立に命じ、天児屋根命を勧請 (かんじょう)、天建神社として武運長久を祈 (いの)る。
天正16年 (1588年)3月、伊東祐兵封を飫肥 (おび)に受け、天建神社を楠原に建立 (こんりゅう)。
寛文元年 (1661年)社殿名字名をも併 (あわ)せて田野村に奉還。 宮田氏を祠官 (しかん、神社に仕える神職。)とさせ、伊東家の武運を祈り、神札を納 (おさ)める毎 (ごと)に謝状を下付した。
明治4年 (1871年)田野神社 (御祭神・大国主尊)に田野大宮大明神 (御祭神・百済国王)が合祀 (ごうし)される。
大正2年 (1913年)天建神社が田野神社に合祀 (ごうし)される。
大正3年 (1914年)田野天建神社と称 (しょう)し奉 (たてまつ)る。
天児屋根尊
 中臣氏、後の藤原氏の祖神である。 「古事記」、「日本書紀」に見る神話では、天照大神のお隠れになった天の岩戸を開こうとされる際、この神が面白い節回しで祝詞 (のりと)を唱 (とな)えて天宇受売尊が踊 (おど)ったとあり、天児屋根尊が宮廷の祭祀 (さいし)をつとめる神であることがわかる。
 天児屋根尊を祭神とする神社の総本社は大阪府の牧岡神社である。 かつて、奈良の都に藤原氏一門の氏神 (うじがみ)である春日神社が創建された際、この神も同社の第3殿に勧請されたのであった。 飫肥藩主伊東氏の祖は、藤原系、工藤祐経とされている。 その伊東氏の日向国下向に際し、そのような例に倣 (なら)ってこの神が勧請され、天建神社が創建されたものと思われる。
大国主尊
 八俣大蛇 (やまたのおろち)退治で知られる須佐之男尊の子孫である。 葦原中津国 (国土)に君臨し、その開発と経営にあたった。 水利を通じ、田畝を開墾 (かいこん)し、山林を開発した外 (ほか)、畜産を興 (おこ)し、医療の法を教え獣や害虫等の災 (わざわ)いを祓 (はら)うなどの数々の事績を「古事記」、「日本書紀」の神話の中に見ることができる。 その様 (よう)にして、苦心して造りあげた国土を天照大神に捧 (ささ)げた国譲 (ゆず)りの神話は特に有名である。 又、因幡 (いなば)の白兎 (しろうさぎ)の神話に見られる様にも、大変親しみ易 (やす)く、人々に富をもたらしてくれる福の神、大黒様 (だいこくさま)として古くより広く民衆からの信仰を集めてきた。
御祭神 百済国王 (くだらこくおう)
 昔、百済国王の船が日向の油津に漂着された。 王は我が住処は何処 (どこ)にしたものかと見回した時、遥 (はる)か北の方の山に五色の雲が舞い下がった。 王は彼処が我が住地だとつぶやいて小姓 (こしょう)1人を従 (したが)えてわけ入った。 峻しき路に疲れて、小姓は魂 (たましい)が抜 (ぬ)けたようになった。 王は谷川の水を掬 (すく)って彼の口にそそいだ。 小姓は忽 (たちま)ちその水で正気を取り戻 (もど)した。 かくしてこの坂は後に「小姓」坂と呼 (よ)ばれた。 それからなお進んで、一宿した処 (ところ)を後に宿野 (しゅくの)といった。 折 (おり)から田野の男達8人がその前を通って王を見つけ、その怪異の姿に敬意を起こし恭 (うやうや)しく話かけたが王は何も言わない。 そこで彼らは、持っていた蔦葛 (つたかずら)をうち振り身ぶりおかしく舞を舞った。 王はその時微笑した。 後永くシャグリ舞いと言ってこの時の舞いの様子 (ようす)を伝えたと云 (い)う。 彼らは、それから王を導いて田野に帰り、そこに仮殿を建てて仕 (つか)えた。 不思議にも王の手飼いの鶴 (つる)が王を慕 (した)って飛び来り、その仮殿を守護した。 王は月毛 (馬の毛色で、葦 (あし)毛のやや赤みのあるもの。)の駒 (こま)を愛し、それに跨 (またが)ってあちこちと遊覧してまわられた。 ある時、王の馬は何かに驚いたのか急に躍 (おど)り上がって、王を乗せたまま井戸の中にとびこんでしまった。 そのため、王の冥福 (めいふく)を祈り、村内の井戸を全 (すべ)て埋 (う)め、またそれ以来、田野では月毛 (馬の毛色で、葦 (あし)毛のやや赤みのあるもの。)の馬を忌(い)むと云 (い)う。 王は、かくて薄命の身の終わりを告げたが、村人は厚く王を葬 (ほおむ)り、神として祀 (まつ)ったと云 (い)う。
と書かれています。



写真BN: 「田野天建神社御由緒 (ゆいしょ)」の説明板です。
歴史
元徳2年 (1330年)伊東祐持日向国下向時、兵道宮田荒ニ郎義立に命じ、天児屋根命を勧請 (かんじょう)、天建神社として武運長久を祈 (いの)る。
天正16年 (1588年)3月、伊東祐兵封を飫肥 (おび)に受け、天建神社を楠原に建立 (こんりゅう)。
寛文元年 (1661年)社殿名字名をも併 (あわ)せて田野村に奉還。 宮田氏を祠官 (しかん、神社に仕える神職。)とさせ、伊東家の武運を祈り、神札を納 (おさ)める毎 (ごと)に謝状を下付した。
明治4年 (1871年)田野神社 (御祭神・大国主尊)に田野大宮大明神 (御祭神・百済国王)が合祀 (ごうし)される。
大正2年 (1913年)天建神社が田野神社に合祀 (ごうし)される。
大正3年 (1914年)田野天建神社と称 (しょう)し奉 (たてまつ)る。
天児屋根尊
 中臣氏、後の藤原氏の祖神である。 「古事記」、「日本書紀」に見る神話では、天照大神のお隠れになった天の岩戸を開こうとされる際、この神が面白い節回しで祝詞 (のりと)を唱 (とな)えて天宇受売尊が踊 (おど)ったとあり、天児屋根尊が宮廷の祭祀 (さいし)をつとめる神であることがわかる。
 天児屋根尊を祭神とする神社の総本社は大阪府の牧岡神社である。 かつて、奈良の都に藤原氏一門の氏神 (うじがみ)である春日神社が創建された際、この神も同社の第3殿に勧請されたのであった。 飫肥藩主伊東氏の祖は、藤原系、工藤祐経とされている。 その伊東氏の日向国下向に際し、そのような例に倣 (なら)ってこの神が勧請され、天建神社が創建されたものと思われる。
大国主尊
 八俣大蛇 (やまたのおろち)退治で知られる須佐之男尊の子孫である。 葦原中津国 (国土)に君臨し、その開発と経営にあたった。 水利を通じ、田畝を開墾 (かいこん)し、山林を開発した外 (ほか)、畜産を興 (おこ)し、医療の法を教え獣や害虫等の災 (わざわ)いを祓 (はら)うなどの数々の事績を「古事記」、「日本書紀」の神話の中に見ることができる。 その様 (よう)にして、苦心して造りあげた国土を天照大神に捧 (ささ)げた国譲 (ゆず)りの神話は特に有名である。 又、因幡 (いなば)の白兎 (しろうさぎ)の神話に見られる様にも、大変親しみ易 (やす)く、人々に富をもたらしてくれる福の神、大黒様 (だいこくさま)として古くより広く民衆からの信仰を集めてきた。
御祭神 百済国王 (くだらこくおう)
 昔、百済国王の船が日向の油津に漂着された。 王は我が住処は何処 (どこ)にしたものかと見回した時、遥 (はる)か北の方の山に五色の雲が舞い下がった。 王は彼処が我が住地だとつぶやいて小姓 (こしょう)1人を従 (したが)えてわけ入った。 峻しき路に疲れて、小姓は魂 (たましい)が抜 (ぬ)けたようになった。 王は谷川の水を掬 (すく)って彼の口にそそいだ。 小姓は忽 (たちま)ちその水で正気を取り戻 (もど)した。 かくしてこの坂は後に「小姓」坂と呼 (よ)ばれた。 それからなお進んで、一宿した処 (ところ)を後に宿野 (しゅくの)といった。 折 (おり)から田野の男達8人がその前を通って王を見つけ、その怪異の姿に敬意を起こし恭 (うやうや)しく話かけたが王は何も言わない。 そこで彼らは、持っていた蔦葛 (つたかずら)をうち振り身ぶりおかしく舞を舞った。 王はその時微笑した。 後永くシャグリ舞いと言ってこの時の舞いの様子 (ようす)を伝えたと云 (い)う。 彼らは、それから王を導いて田野に帰り、そこに仮殿を建てて仕 (つか)えた。 不思議にも王の手飼いの鶴 (つる)が王を慕 (した)って飛び来り、その仮殿を守護した。 王は月毛 (馬の毛色で、葦 (あし)毛のやや赤みのあるもの。)の駒 (こま)を愛し、それに跨 (またが)ってあちこちと遊覧してまわられた。 ある時、王の馬は何かに驚いたのか急に躍 (おど)り上がって、王を乗せたまま井戸の中にとびこんでしまった。 そのため、王の冥福 (めいふく)を祈り、村内の井戸を全 (すべ)て埋 (う)め、またそれ以来、田野では月毛 (馬の毛色で、葦 (あし)毛のやや赤みのあるもの。)の馬を忌(い)むと云 (い)う。 王は、かくて薄命の身の終わりを告げたが、村人は厚く王を葬 (ほおむ)り、神として祀 (まつ)ったと云 (い)う。
と書かれています。



写真BO: 「田野天建神社御由緒 (ゆいしょ)」の説明板。
歴史
元徳2年 (1330年)伊東祐持日向国下向時、兵道宮田荒ニ郎義立に命じ、天児屋根命を勧請 (かんじょう)、天建神社として武運長久を祈 (いの)る。
天正16年 (1588年)3月、伊東祐兵封を飫肥 (おび)に受け、天建神社を楠原に建立 (こんりゅう)。
寛文元年 (1661年)社殿名字名をも併 (あわ)せて田野村に奉還。 宮田氏を祠官 (しかん、神社に仕える神職。)とさせ、伊東家の武運を祈り、神札を納 (おさ)める毎 (ごと)に謝状を下付した。
明治4年 (1871年)田野神社 (御祭神・大国主尊)に田野大宮大明神 (御祭神・百済国王)が合祀 (ごうし)される。
大正2年 (1913年)天建神社が田野神社に合祀 (ごうし)される。
大正3年 (1914年)田野天建神社と称 (しょう)し奉 (たてまつ)る。
天児屋根尊
 中臣氏、後の藤原氏の祖神である。 「古事記」、「日本書紀」に見る神話では、天照大神のお隠れになった天の岩戸を開こうとされる際、この神が面白い節回しで祝詞 (のりと)を唱 (とな)えて天宇受売尊が踊 (おど)ったとあり、天児屋根尊が宮廷の祭祀 (さいし)をつとめる神であることがわかる。
 天児屋根尊を祭神とする神社の総本社は大阪府の牧岡神社である。 かつて、奈良の都に藤原氏一門の氏神 (うじがみ)である春日神社が創建された際、この神も同社の第3殿に勧請されたのであった。 飫肥藩主伊東氏の祖は、藤原系、工藤祐経とされている。 その伊東氏の日向国下向に際し、そのような例に倣 (なら)ってこの神が勧請され、天建神社が創建されたものと思われる。
大国主尊
 八俣大蛇 (やまたのおろち)退治で知られる須佐之男尊の子孫である。 葦原中津国 (国土)に君臨し、その開発と経営にあたった。 水利を通じ、田畝を開墾 (かいこん)し、山林を開発した外 (ほか)、畜産を興 (おこ)し、医療の法を教え獣や害虫等の災 (わざわ)いを祓 (はら)うなどの数々の事績を「古事記」、「日本書紀」の神話の中に見ることができる。 その様 (よう)にして、苦心して造りあげた国土を天照大神に捧 (ささ)げた国譲 (ゆず)りの神話は特に有名である。 又、因幡 (いなば)の白兎 (しろうさぎ)の神話に見られる様にも、大変親しみ易 (やす)く、人々に富をもたらしてくれる福の神、大黒様 (だいこくさま)として古くより広く民衆からの信仰を集めてきた。
御祭神 百済国王 (くだらこくおう)
 昔、百済国王の船が日向の油津に漂着された。 王は我が住処は何処 (どこ)にしたものかと見回した時、遥 (はる)か北の方の山に五色の雲が舞い下がった。 王は彼処が我が住地だとつぶやいて小姓 (こしょう)1人を従 (したが)えてわけ入った。 峻しき路に疲れて、小姓は魂 (たましい)が抜 (ぬ)けたようになった。 王は谷川の水を掬 (すく)って彼の口にそそいだ。 小姓は忽 (たちま)ちその水で正気を取り戻 (もど)した。 かくしてこの坂は後に「小姓」坂と呼 (よ)ばれた。 それからなお進んで、一宿した処 (ところ)を後に宿野 (しゅくの)といった。 折 (おり)から田野の男達8人がその前を通って王を見つけ、その怪異の姿に敬意を起こし恭 (うやうや)しく話かけたが王は何も言わない。 そこで彼らは、持っていた蔦葛 (つたかずら)をうち振り身ぶりおかしく舞を舞った。 王はその時微笑した。 後永くシャグリ舞いと言ってこの時の舞いの様子 (ようす)を伝えたと云 (い)う。 彼らは、それから王を導いて田野に帰り、そこに仮殿を建てて仕 (つか)えた。 不思議にも王の手飼いの鶴 (つる)が王を慕 (した)って飛び来り、その仮殿を守護した。 王は月毛 (馬の毛色で、葦 (あし)毛のやや赤みのあるもの。)の駒 (こま)を愛し、それに跨 (またが)ってあちこちと遊覧してまわられた。 ある時、王の馬は何かに驚いたのか急に躍 (おど)り上がって、王を乗せたまま井戸の中にとびこんでしまった。 そのため、王の冥福 (めいふく)を祈り、村内の井戸を全 (すべ)て埋 (う)め、またそれ以来、田野では月毛 (馬の毛色で、葦 (あし)毛のやや赤みのあるもの。)の馬を忌(い)むと云 (い)う。 王は、かくて薄命の身の終わりを告げたが、村人は厚く王を葬 (ほおむ)り、神として祀 (まつ)ったと云 (い)う。
と書かれています。



写真BP: 「田野天建神社御由緒 (ゆいしょ)」の説明板です。
歴史
元徳2年 (1330年)伊東祐持日向国下向時、兵道宮田荒ニ郎義立に命じ、天児屋根命を勧請 (かんじょう)、天建神社として武運長久を祈 (いの)る。
天正16年 (1588年)3月、伊東祐兵封を飫肥 (おび)に受け、天建神社を楠原に建立 (こんりゅう)。
寛文元年 (1661年)社殿名字名をも併 (あわ)せて田野村に奉還。 宮田氏を祠官 (しかん、神社に仕える神職。)とさせ、伊東家の武運を祈り、神札を納 (おさ)める毎 (ごと)に謝状を下付した。
明治4年 (1871年)田野神社 (御祭神・大国主尊)に田野大宮大明神 (御祭神・百済国王)が合祀 (ごうし)される。
大正2年 (1913年)天建神社が田野神社に合祀 (ごうし)される。
大正3年 (1914年)田野天建神社と称 (しょう)し奉 (たてまつ)る。
天児屋根尊
 中臣氏、後の藤原氏の祖神である。 「古事記」、「日本書紀」に見る神話では、天照大神のお隠れになった天の岩戸を開こうとされる際、この神が面白い節回しで祝詞 (のりと)を唱 (とな)えて天宇受売尊が踊 (おど)ったとあり、天児屋根尊が宮廷の祭祀 (さいし)をつとめる神であることがわかる。
 天児屋根尊を祭神とする神社の総本社は大阪府の牧岡神社である。 かつて、奈良の都に藤原氏一門の氏神 (うじがみ)である春日神社が創建された際、この神も同社の第3殿に勧請されたのであった。 飫肥藩主伊東氏の祖は、藤原系、工藤祐経とされている。 その伊東氏の日向国下向に際し、そのような例に倣 (なら)ってこの神が勧請され、天建神社が創建されたものと思われる。
大国主尊
 八俣大蛇 (やまたのおろち)退治で知られる須佐之男尊の子孫である。 葦原中津国 (国土)に君臨し、その開発と経営にあたった。 水利を通じ、田畝を開墾 (かいこん)し、山林を開発した外 (ほか)、畜産を興 (おこ)し、医療の法を教え獣や害虫等の災 (わざわ)いを祓 (はら)うなどの数々の事績を「古事記」、「日本書紀」の神話の中に見ることができる。 その様 (よう)にして、苦心して造りあげた国土を天照大神に捧 (ささ)げた国譲 (ゆず)りの神話は特に有名である。 又、因幡 (いなば)の白兎 (しろうさぎ)の神話に見られる様にも、大変親しみ易 (やす)く、人々に富をもたらしてくれる福の神、大黒様 (だいこくさま)として古くより広く民衆からの信仰を集めてきた。
御祭神 百済国王 (くだらこくおう)
 昔、百済国王の船が日向の油津に漂着された。 王は我が住処は何処 (どこ)にしたものかと見回した時、遥 (はる)か北の方の山に五色の雲が舞い下がった。 王は彼処が我が住地だとつぶやいて小姓 (こしょう)1人を従 (したが)えてわけ入った。 峻しき路に疲れて、小姓は魂 (たましい)が抜 (ぬ)けたようになった。 王は谷川の水を掬 (すく)って彼の口にそそいだ。 小姓は忽 (たちま)ちその水で正気を取り戻 (もど)した。 かくしてこの坂は後に「小姓」坂と呼 (よ)ばれた。 それからなお進んで、一宿した処 (ところ)を後に宿野 (しゅくの)といった。 折 (おり)から田野の男達8人がその前を通って王を見つけ、その怪異の姿に敬意を起こし恭 (うやうや)しく話かけたが王は何も言わない。 そこで彼らは、持っていた蔦葛 (つたかずら)をうち振り身ぶりおかしく舞を舞った。 王はその時微笑した。 後永くシャグリ舞いと言ってこの時の舞いの様子 (ようす)を伝えたと云 (い)う。 彼らは、それから王を導いて田野に帰り、そこに仮殿を建てて仕 (つか)えた。 不思議にも王の手飼いの鶴 (つる)が王を慕 (した)って飛び来り、その仮殿を守護した。 王は月毛 (馬の毛色で、葦 (あし)毛のやや赤みのあるもの。)の駒 (こま)を愛し、それに跨 (またが)ってあちこちと遊覧してまわられた。 ある時、王の馬は何かに驚いたのか急に躍 (おど)り上がって、王を乗せたまま井戸の中にとびこんでしまった。 そのため、王の冥福 (めいふく)を祈り、村内の井戸を全 (すべ)て埋 (う)め、またそれ以来、田野では月毛 (馬の毛色で、葦 (あし)毛のやや赤みのあるもの。)の馬を忌(い)むと云 (い)う。 王は、かくて薄命の身の終わりを告げたが、村人は厚く王を葬 (ほおむ)り、神として祀 (まつ)ったと云 (い)う。
と書かれています。



写真BQ: 「田野天建神社御由緒 (ゆいしょ)」の説明板。
歴史
元徳2年 (1330年)伊東祐持日向国下向時、兵道宮田荒ニ郎義立に命じ、天児屋根命を勧請 (かんじょう)、天建神社として武運長久を祈 (いの)る。
天正16年 (1588年)3月、伊東祐兵封を飫肥 (おび)に受け、天建神社を楠原に建立 (こんりゅう)。
寛文元年 (1661年)社殿名字名をも併 (あわ)せて田野村に奉還。 宮田氏を祠官 (しかん、神社に仕える神職。)とさせ、伊東家の武運を祈り、神札を納 (おさ)める毎 (ごと)に謝状を下付した。
明治4年 (1871年)田野神社 (御祭神・大国主尊)に田野大宮大明神 (御祭神・百済国王)が合祀 (ごうし)される。
大正2年 (1913年)天建神社が田野神社に合祀 (ごうし)される。
大正3年 (1914年)田野天建神社と称 (しょう)し奉 (たてまつ)る。
天児屋根尊
 中臣氏、後の藤原氏の祖神である。 「古事記」、「日本書紀」に見る神話では、天照大神のお隠れになった天の岩戸を開こうとされる際、この神が面白い節回しで祝詞 (のりと)を唱 (とな)えて天宇受売尊が踊 (おど)ったとあり、天児屋根尊が宮廷の祭祀 (さいし)をつとめる神であることがわかる。
 天児屋根尊を祭神とする神社の総本社は大阪府の牧岡神社である。 かつて、奈良の都に藤原氏一門の氏神 (うじがみ)である春日神社が創建された際、この神も同社の第3殿に勧請されたのであった。 飫肥藩主伊東氏の祖は、藤原系、工藤祐経とされている。 その伊東氏の日向国下向に際し、そのような例に倣 (なら)ってこの神が勧請され、天建神社が創建されたものと思われる。
大国主尊
 八俣大蛇 (やまたのおろち)退治で知られる須佐之男尊の子孫である。 葦原中津国 (国土)に君臨し、その開発と経営にあたった。 水利を通じ、田畝を開墾 (かいこん)し、山林を開発した外 (ほか)、畜産を興 (おこ)し、医療の法を教え獣や害虫等の災 (わざわ)いを祓 (はら)うなどの数々の事績を「古事記」、「日本書紀」の神話の中に見ることができる。 その様 (よう)にして、苦心して造りあげた国土を天照大神に捧 (ささ)げた国譲 (ゆず)りの神話は特に有名である。 又、因幡 (いなば)の白兎 (しろうさぎ)の神話に見られる様にも、大変親しみ易 (やす)く、人々に富をもたらしてくれる福の神、大黒様 (だいこくさま)として古くより広く民衆からの信仰を集めてきた。
御祭神 百済国王 (くだらこくおう)
 昔、百済国王の船が日向の油津に漂着された。 王は我が住処は何処 (どこ)にしたものかと見回した時、遥 (はる)か北の方の山に五色の雲が舞い下がった。 王は彼処が我が住地だとつぶやいて小姓 (こしょう)1人を従 (したが)えてわけ入った。 峻しき路に疲れて、小姓は魂 (たましい)が抜 (ぬ)けたようになった。 王は谷川の水を掬 (すく)って彼の口にそそいだ。 小姓は忽 (たちま)ちその水で正気を取り戻 (もど)した。 かくしてこの坂は後に「小姓」坂と呼 (よ)ばれた。 それからなお進んで、一宿した処 (ところ)を後に宿野 (しゅくの)といった。 折 (おり)から田野の男達8人がその前を通って王を見つけ、その怪異の姿に敬意を起こし恭 (うやうや)しく話かけたが王は何も言わない。 そこで彼らは、持っていた蔦葛 (つたかずら)をうち振り身ぶりおかしく舞を舞った。 王はその時微笑した。 後永くシャグリ舞いと言ってこの時の舞いの様子 (ようす)を伝えたと云 (い)う。 彼らは、それから王を導いて田野に帰り、そこに仮殿を建てて仕 (つか)えた。 不思議にも王の手飼いの鶴 (つる)が王を慕 (した)って飛び来り、その仮殿を守護した。 王は月毛 (馬の毛色で、葦 (あし)毛のやや赤みのあるもの。)の駒 (こま)を愛し、それに跨 (またが)ってあちこちと遊覧してまわられた。 ある時、王の馬は何かに驚いたのか急に躍 (おど)り上がって、王を乗せたまま井戸の中にとびこんでしまった。 そのため、王の冥福 (めいふく)を祈り、村内の井戸を全 (すべ)て埋 (う)め、またそれ以来、田野では月毛 (馬の毛色で、葦 (あし)毛のやや赤みのあるもの。)の馬を忌(い)むと云 (い)う。 王は、かくて薄命の身の終わりを告げたが、村人は厚く王を葬 (ほおむ)り、神として祀 (まつ)ったと云 (い)う。
と書かれています。



写真BR: 「田野天建神社御由緒 (ゆいしょ)」の説明板です。
歴史
元徳2年 (1330年)伊東祐持日向国下向時、兵道宮田荒ニ郎義立に命じ、天児屋根命を勧請 (かんじょう)、天建神社として武運長久を祈 (いの)る。
天正16年 (1588年)3月、伊東祐兵封を飫肥 (おび)に受け、天建神社を楠原に建立 (こんりゅう)。
寛文元年 (1661年)社殿名字名をも併 (あわ)せて田野村に奉還。 宮田氏を祠官 (しかん、神社に仕える神職。)とさせ、伊東家の武運を祈り、神札を納 (おさ)める毎 (ごと)に謝状を下付した。
明治4年 (1871年)田野神社 (御祭神・大国主尊)に田野大宮大明神 (御祭神・百済国王)が合祀 (ごうし)される。
大正2年 (1913年)天建神社が田野神社に合祀 (ごうし)される。
大正3年 (1914年)田野天建神社と称 (しょう)し奉 (たてまつ)る。
天児屋根尊
 中臣氏、後の藤原氏の祖神である。 「古事記」、「日本書紀」に見る神話では、天照大神のお隠れになった天の岩戸を開こうとされる際、この神が面白い節回しで祝詞 (のりと)を唱 (とな)えて天宇受売尊が踊 (おど)ったとあり、天児屋根尊が宮廷の祭祀 (さいし)をつとめる神であることがわかる。
 天児屋根尊を祭神とする神社の総本社は大阪府の牧岡神社である。 かつて、奈良の都に藤原氏一門の氏神 (うじがみ)である春日神社が創建された際、この神も同社の第3殿に勧請されたのであった。 飫肥藩主伊東氏の祖は、藤原系、工藤祐経とされている。 その伊東氏の日向国下向に際し、そのような例に倣 (なら)ってこの神が勧請され、天建神社が創建されたものと思われる。
大国主尊
 八俣大蛇 (やまたのおろち)退治で知られる須佐之男尊の子孫である。 葦原中津国 (国土)に君臨し、その開発と経営にあたった。 水利を通じ、田畝を開墾 (かいこん)し、山林を開発した外 (ほか)、畜産を興 (おこ)し、医療の法を教え獣や害虫等の災 (わざわ)いを祓 (はら)うなどの数々の事績を「古事記」、「日本書紀」の神話の中に見ることができる。 その様 (よう)にして、苦心して造りあげた国土を天照大神に捧 (ささ)げた国譲 (ゆず)りの神話は特に有名である。 又、因幡 (いなば)の白兎 (しろうさぎ)の神話に見られる様にも、大変親しみ易 (やす)く、人々に富をもたらしてくれる福の神、大黒様 (だいこくさま)として古くより広く民衆からの信仰を集めてきた。
御祭神 百済国王 (くだらこくおう)
 昔、百済国王の船が日向の油津に漂着された。 王は我が住処は何処 (どこ)にしたものかと見回した時、遥 (はる)か北の方の山に五色の雲が舞い下がった。 王は彼処が我が住地だとつぶやいて小姓 (こしょう)1人を従 (したが)えてわけ入った。 峻しき路に疲れて、小姓は魂 (たましい)が抜 (ぬ)けたようになった。 王は谷川の水を掬 (すく)って彼の口にそそいだ。 小姓は忽 (たちま)ちその水で正気を取り戻 (もど)した。 かくしてこの坂は後に「小姓」坂と呼 (よ)ばれた。 それからなお進んで、一宿した処 (ところ)を後に宿野 (しゅくの)といった。 折 (おり)から田野の男達8人がその前を通って王を見つけ、その怪異の姿に敬意を起こし恭 (うやうや)しく話かけたが王は何も言わない。 そこで彼らは、持っていた蔦葛 (つたかずら)をうち振り身ぶりおかしく舞を舞った。 王はその時微笑した。 後永くシャグリ舞いと言ってこの時の舞いの様子 (ようす)を伝えたと云 (い)う。 彼らは、それから王を導いて田野に帰り、そこに仮殿を建てて仕 (つか)えた。 不思議にも王の手飼いの鶴 (つる)が王を慕 (した)って飛び来り、その仮殿を守護した。 王は月毛 (馬の毛色で、葦 (あし)毛のやや赤みのあるもの。)の駒 (こま)を愛し、それに跨 (またが)ってあちこちと遊覧してまわられた。 ある時、王の馬は何かに驚いたのか急に躍 (おど)り上がって、王を乗せたまま井戸の中にとびこんでしまった。 そのため、王の冥福 (めいふく)を祈り、村内の井戸を全 (すべ)て埋 (う)め、またそれ以来、田野では月毛 (馬の毛色で、葦 (あし)毛のやや赤みのあるもの。)の馬を忌(い)むと云 (い)う。 王は、かくて薄命の身の終わりを告げたが、村人は厚く王を葬 (ほおむ)り、神として祀 (まつ)ったと云 (い)う。
と書かれています。



写真BS: 「田野天建神社御由緒 (ゆいしょ)」の説明板。
歴史
元徳2年 (1330年)伊東祐持日向国下向時、兵道宮田荒ニ郎義立に命じ、天児屋根命を勧請 (かんじょう)、天建神社として武運長久を祈 (いの)る。
天正16年 (1588年)3月、伊東祐兵封を飫肥 (おび)に受け、天建神社を楠原に建立 (こんりゅう)。
寛文元年 (1661年)社殿名字名をも併 (あわ)せて田野村に奉還。 宮田氏を祠官 (しかん、神社に仕える神職。)とさせ、伊東家の武運を祈り、神札を納 (おさ)める毎 (ごと)に謝状を下付した。
明治4年 (1871年)田野神社 (御祭神・大国主尊)に田野大宮大明神 (御祭神・百済国王)が合祀 (ごうし)される。
大正2年 (1913年)天建神社が田野神社に合祀 (ごうし)される。
大正3年 (1914年)田野天建神社と称 (しょう)し奉 (たてまつ)る。
天児屋根尊
 中臣氏、後の藤原氏の祖神である。 「古事記」、「日本書紀」に見る神話では、天照大神のお隠れになった天の岩戸を開こうとされる際、この神が面白い節回しで祝詞 (のりと)を唱 (とな)えて天宇受売尊が踊 (おど)ったとあり、天児屋根尊が宮廷の祭祀 (さいし)をつとめる神であることがわかる。
 天児屋根尊を祭神とする神社の総本社は大阪府の牧岡神社である。 かつて、奈良の都に藤原氏一門の氏神 (うじがみ)である春日神社が創建された際、この神も同社の第3殿に勧請されたのであった。 飫肥藩主伊東氏の祖は、藤原系、工藤祐経とされている。 その伊東氏の日向国下向に際し、そのような例に倣 (なら)ってこの神が勧請され、天建神社が創建されたものと思われる。
大国主尊
 八俣大蛇 (やまたのおろち)退治で知られる須佐之男尊の子孫である。 葦原中津国 (国土)に君臨し、その開発と経営にあたった。 水利を通じ、田畝を開墾 (かいこん)し、山林を開発した外 (ほか)、畜産を興 (おこ)し、医療の法を教え獣や害虫等の災 (わざわ)いを祓 (はら)うなどの数々の事績を「古事記」、「日本書紀」の神話の中に見ることができる。 その様 (よう)にして、苦心して造りあげた国土を天照大神に捧 (ささ)げた国譲 (ゆず)りの神話は特に有名である。 又、因幡 (いなば)の白兎 (しろうさぎ)の神話に見られる様にも、大変親しみ易 (やす)く、人々に富をもたらしてくれる福の神、大黒様 (だいこくさま)として古くより広く民衆からの信仰を集めてきた。
御祭神 百済国王 (くだらこくおう)
 昔、百済国王の船が日向の油津に漂着された。 王は我が住処は何処 (どこ)にしたものかと見回した時、遥 (はる)か北の方の山に五色の雲が舞い下がった。 王は彼処が我が住地だとつぶやいて小姓 (こしょう)1人を従 (したが)えてわけ入った。 峻しき路に疲れて、小姓は魂 (たましい)が抜 (ぬ)けたようになった。 王は谷川の水を掬 (すく)って彼の口にそそいだ。 小姓は忽 (たちま)ちその水で正気を取り戻 (もど)した。 かくしてこの坂は後に「小姓」坂と呼 (よ)ばれた。 それからなお進んで、一宿した処 (ところ)を後に宿野 (しゅくの)といった。 折 (おり)から田野の男達8人がその前を通って王を見つけ、その怪異の姿に敬意を起こし恭 (うやうや)しく話かけたが王は何も言わない。 そこで彼らは、持っていた蔦葛 (つたかずら)をうち振り身ぶりおかしく舞を舞った。 王はその時微笑した。 後永くシャグリ舞いと言ってこの時の舞いの様子 (ようす)を伝えたと云 (い)う。 彼らは、それから王を導いて田野に帰り、そこに仮殿を建てて仕 (つか)えた。 不思議にも王の手飼いの鶴 (つる)が王を慕 (した)って飛び来り、その仮殿を守護した。 王は月毛 (馬の毛色で、葦 (あし)毛のやや赤みのあるもの。)の駒 (こま)を愛し、それに跨 (またが)ってあちこちと遊覧してまわられた。 ある時、王の馬は何かに驚いたのか急に躍 (おど)り上がって、王を乗せたまま井戸の中にとびこんでしまった。 そのため、王の冥福 (めいふく)を祈り、村内の井戸を全 (すべ)て埋 (う)め、またそれ以来、田野では月毛 (馬の毛色で、葦 (あし)毛のやや赤みのあるもの。)の馬を忌(い)むと云 (い)う。 王は、かくて薄命の身の終わりを告げたが、村人は厚く王を葬 (ほおむ)り、神として祀 (まつ)ったと云 (い)う。
と書かれています。



写真BT: 「田野天建神社御由緒 (ゆいしょ)」の説明板です。
歴史
元徳2年 (1330年)伊東祐持日向国下向時、兵道宮田荒ニ郎義立に命じ、天児屋根命を勧請 (かんじょう)、天建神社として武運長久を祈 (いの)る。
天正16年 (1588年)3月、伊東祐兵封を飫肥 (おび)に受け、天建神社を楠原に建立 (こんりゅう)。
寛文元年 (1661年)社殿名字名をも併 (あわ)せて田野村に奉還。 宮田氏を祠官 (しかん、神社に仕える神職。)とさせ、伊東家の武運を祈り、神札を納 (おさ)める毎 (ごと)に謝状を下付した。
明治4年 (1871年)田野神社 (御祭神・大国主尊)に田野大宮大明神 (御祭神・百済国王)が合祀 (ごうし)される。
大正2年 (1913年)天建神社が田野神社に合祀 (ごうし)される。
大正3年 (1914年)田野天建神社と称 (しょう)し奉 (たてまつ)る。
天児屋根尊
 中臣氏、後の藤原氏の祖神である。 「古事記」、「日本書紀」に見る神話では、天照大神のお隠れになった天の岩戸を開こうとされる際、この神が面白い節回しで祝詞 (のりと)を唱 (とな)えて天宇受売尊が踊 (おど)ったとあり、天児屋根尊が宮廷の祭祀 (さいし)をつとめる神であることがわかる。
 天児屋根尊を祭神とする神社の総本社は大阪府の牧岡神社である。 かつて、奈良の都に藤原氏一門の氏神 (うじがみ)である春日神社が創建された際、この神も同社の第3殿に勧請されたのであった。 飫肥藩主伊東氏の祖は、藤原系、工藤祐経とされている。 その伊東氏の日向国下向に際し、そのような例に倣 (なら)ってこの神が勧請され、天建神社が創建されたものと思われる。
大国主尊
 八俣大蛇 (やまたのおろち)退治で知られる須佐之男尊の子孫である。 葦原中津国 (国土)に君臨し、その開発と経営にあたった。 水利を通じ、田畝を開墾 (かいこん)し、山林を開発した外 (ほか)、畜産を興 (おこ)し、医療の法を教え獣や害虫等の災 (わざわ)いを祓 (はら)うなどの数々の事績を「古事記」、「日本書紀」の神話の中に見ることができる。 その様 (よう)にして、苦心して造りあげた国土を天照大神に捧 (ささ)げた国譲 (ゆず)りの神話は特に有名である。 又、因幡 (いなば)の白兎 (しろうさぎ)の神話に見られる様にも、大変親しみ易 (やす)く、人々に富をもたらしてくれる福の神、大黒様 (だいこくさま)として古くより広く民衆からの信仰を集めてきた。
御祭神 百済国王 (くだらこくおう)
 昔、百済国王の船が日向の油津に漂着された。 王は我が住処は何処 (どこ)にしたものかと見回した時、遥 (はる)か北の方の山に五色の雲が舞い下がった。 王は彼処が我が住地だとつぶやいて小姓 (こしょう)1人を従 (したが)えてわけ入った。 峻しき路に疲れて、小姓は魂 (たましい)が抜 (ぬ)けたようになった。 王は谷川の水を掬 (すく)って彼の口にそそいだ。 小姓は忽 (たちま)ちその水で正気を取り戻 (もど)した。 かくしてこの坂は後に「小姓」坂と呼 (よ)ばれた。 それからなお進んで、一宿した処 (ところ)を後に宿野 (しゅくの)といった。 折 (おり)から田野の男達8人がその前を通って王を見つけ、その怪異の姿に敬意を起こし恭 (うやうや)しく話かけたが王は何も言わない。 そこで彼らは、持っていた蔦葛 (つたかずら)をうち振り身ぶりおかしく舞を舞った。 王はその時微笑した。 後永くシャグリ舞いと言ってこの時の舞いの様子 (ようす)を伝えたと云 (い)う。 彼らは、それから王を導いて田野に帰り、そこに仮殿を建てて仕 (つか)えた。 不思議にも王の手飼いの鶴 (つる)が王を慕 (した)って飛び来り、その仮殿を守護した。 王は月毛 (馬の毛色で、葦 (あし)毛のやや赤みのあるもの。)の駒 (こま)を愛し、それに跨 (またが)ってあちこちと遊覧してまわられた。 ある時、王の馬は何かに驚いたのか急に躍 (おど)り上がって、王を乗せたまま井戸の中にとびこんでしまった。 そのため、王の冥福 (めいふく)を祈り、村内の井戸を全 (すべ)て埋 (う)め、またそれ以来、田野では月毛 (馬の毛色で、葦 (あし)毛のやや赤みのあるもの。)の馬を忌(い)むと云 (い)う。 王は、かくて薄命の身の終わりを告げたが、村人は厚く王を葬 (ほおむ)り、神として祀 (まつ)ったと云 (い)う。
と書かれています。



写真BU: 「田野天建神社御由緒 (ゆいしょ)」の説明板です。
歴史
元徳2年 (1330年)伊東祐持日向国下向時、兵道宮田荒ニ郎義立に命じ、天児屋根命を勧請 (かんじょう)、天建神社として武運長久を祈 (いの)る。
天正16年 (1588年)3月、伊東祐兵封を飫肥 (おび)に受け、天建神社を楠原に建立 (こんりゅう)。
寛文元年 (1661年)社殿名字名をも併 (あわ)せて田野村に奉還。 宮田氏を祠官 (しかん、神社に仕える神職。)とさせ、伊東家の武運を祈り、神札を納 (おさ)める毎 (ごと)に謝状を下付した。
明治4年 (1871年)田野神社 (御祭神・大国主尊)に田野大宮大明神 (御祭神・百済国王)が合祀 (ごうし)される。
大正2年 (1913年)天建神社が田野神社に合祀 (ごうし)される。
大正3年 (1914年)田野天建神社と称 (しょう)し奉 (たてまつ)る。
天児屋根尊
 中臣氏、後の藤原氏の祖神である。 「古事記」、「日本書紀」に見る神話では、天照大神のお隠れになった天の岩戸を開こうとされる際、この神が面白い節回しで祝詞 (のりと)を唱 (とな)えて天宇受売尊が踊 (おど)ったとあり、天児屋根尊が宮廷の祭祀 (さいし)をつとめる神であることがわかる。
 天児屋根尊を祭神とする神社の総本社は大阪府の牧岡神社である。 かつて、奈良の都に藤原氏一門の氏神 (うじがみ)である春日神社が創建された際、この神も同社の第3殿に勧請されたのであった。 飫肥藩主伊東氏の祖は、藤原系、工藤祐経とされている。 その伊東氏の日向国下向に際し、そのような例に倣 (なら)ってこの神が勧請され、天建神社が創建されたものと思われる。
大国主尊
 八俣大蛇 (やまたのおろち)退治で知られる須佐之男尊の子孫である。 葦原中津国 (国土)に君臨し、その開発と経営にあたった。 水利を通じ、田畝を開墾 (かいこん)し、山林を開発した外 (ほか)、畜産を興 (おこ)し、医療の法を教え獣や害虫等の災 (わざわ)いを祓 (はら)うなどの数々の事績を「古事記」、「日本書紀」の神話の中に見ることができる。 その様 (よう)にして、苦心して造りあげた国土を天照大神に捧 (ささ)げた国譲 (ゆず)りの神話は特に有名である。 又、因幡 (いなば)の白兎 (しろうさぎ)の神話に見られる様にも、大変親しみ易 (やす)く、人々に富をもたらしてくれる福の神、大黒様 (だいこくさま)として古くより広く民衆からの信仰を集めてきた。
御祭神 百済国王 (くだらこくおう)
 昔、百済国王の船が日向の油津に漂着された。 王は我が住処は何処 (どこ)にしたものかと見回した時、遥 (はる)か北の方の山に五色の雲が舞い下がった。 王は彼処が我が住地だとつぶやいて小姓 (こしょう)1人を従 (したが)えてわけ入った。 峻しき路に疲れて、小姓は魂 (たましい)が抜 (ぬ)けたようになった。 王は谷川の水を掬 (すく)って彼の口にそそいだ。 小姓は忽 (たちま)ちその水で正気を取り戻 (もど)した。 かくしてこの坂は後に「小姓」坂と呼 (よ)ばれた。 それからなお進んで、一宿した処 (ところ)を後に宿野 (しゅくの)といった。 折 (おり)から田野の男達8人がその前を通って王を見つけ、その怪異の姿に敬意を起こし恭 (うやうや)しく話かけたが王は何も言わない。 そこで彼らは、持っていた蔦葛 (つたかずら)をうち振り身ぶりおかしく舞を舞った。 王はその時微笑した。 後永くシャグリ舞いと言ってこの時の舞いの様子 (ようす)を伝えたと云 (い)う。 彼らは、それから王を導いて田野に帰り、そこに仮殿を建てて仕 (つか)えた。 不思議にも王の手飼いの鶴 (つる)が王を慕 (した)って飛び来り、その仮殿を守護した。 王は月毛 (馬の毛色で、葦 (あし)毛のやや赤みのあるもの。)の駒 (こま)を愛し、それに跨 (またが)ってあちこちと遊覧してまわられた。 ある時、王の馬は何かに驚いたのか急に躍 (おど)り上がって、王を乗せたまま井戸の中にとびこんでしまった。 そのため、王の冥福 (めいふく)を祈り、村内の井戸を全 (すべ)て埋 (う)め、またそれ以来、田野では月毛 (馬の毛色で、葦 (あし)毛のやや赤みのあるもの。)の馬を忌(い)むと云 (い)う。 王は、かくて薄命の身の終わりを告げたが、村人は厚く王を葬 (ほおむ)り、神として祀 (まつ)ったと云 (い)う。
と書かれています。



写真BV: 絵馬 (えま)を掛 (か)けてあります。



写真BW: 御神籤 (おみくじ)を掛 (か)ける所です。



写真BX: 「田野天建神社」の別の説明板があります。
 上桜地区にあるこの神社には、旧 田野神社の大己貴命、旧 田野大宮大明神の百済王 (くだらおう)、天建神社の天児屋根命の3神が合祀 (ごうし)されている。 旧 田野神社の勧請 (かんじょう)年月は天正6年 (1578年)以前の記述が史書にあるが、明白でない。 明治4年 (1871年)11月、田野村村社・田野神社となった経歴もある。 百済王 (くだらおう)を祭った旧 田野大宮大明神縁起 (えんぎ)由来の祠 (ほこら)は初め持田にあり、後に仏堂園 元倉に建てられたが、明治4年に田野神社に合祀 (ごうし)された。 天建神社の祭神は伊東家の祖神 天児屋根命で、寛文元年 (1661年)、宮田家の祖先、武田六右衛門が第4代藩主 祐由の怒りに触 (ふ)れ田野に左遷された際、楠原に社 (やしろ)を建てたものである。 大正2年に田野神社に合祀 (ごうし)され、大正3年 (1914年)から田野天建神社と呼 (よ)ぶようになった。 宮田家が代々の祠官 (しかん、神社に仕 (つか)える神職。)として現在に至 (いた)る。 例祭は以前は7月20日だったが、現在は、「ふるさと祭り」の日に神社の御神幸のみが参加している。
(田野町歴史の小径 (こみち))
と書かれています。



写真BY: 「田野天建神社」の別の説明板です。
 上桜地区にあるこの神社には、旧 田野神社の大己貴命、旧 田野大宮大明神の百済王 (くだらおう)、天建神社の天児屋根命の3神が合祀 (ごうし)されている。 旧 田野神社の勧請 (かんじょう)年月は天正6年 (1578年)以前の記述が史書にあるが、明白でない。 明治4年 (1871年)11月、田野村村社・田野神社となった経歴もある。 百済王 (くだらおう)を祭った旧 田野大宮大明神縁起 (えんぎ)由来の祠 (ほこら)は初め持田にあり、後に仏堂園 元倉に建てられたが、明治4年に田野神社に合祀 (ごうし)された。 天建神社の祭神は伊東家の祖神 天児屋根命で、寛文元年 (1661年)、宮田家の祖先、武田六右衛門が第4代藩主 祐由の怒りに触 (ふ)れ田野に左遷された際、楠原に社 (やしろ)を建てたものである。 大正2年に田野神社に合祀 (ごうし)され、大正3年 (1914年)から田野天建神社と呼 (よ)ぶようになった。 宮田家が代々の祠官 (しかん、神社に仕 (つか)える神職。)として現在に至 (いた)る。 例祭は以前は7月20日だったが、現在は、「ふるさと祭り」の日に神社の御神幸のみが参加している。
(田野町歴史の小径 (こみち))
と書かれています。



写真BZ: 「田野天建神社」の別の説明板。
 上桜地区にあるこの神社には、旧 田野神社の大己貴命、旧 田野大宮大明神の百済王 (くだらおう)、天建神社の天児屋根命の3神が合祀 (ごうし)されている。 旧 田野神社の勧請 (かんじょう)年月は天正6年 (1578年)以前の記述が史書にあるが、明白でない。 明治4年 (1871年)11月、田野村村社・田野神社となった経歴もある。 百済王 (くだらおう)を祭った旧 田野大宮大明神縁起 (えんぎ)由来の祠 (ほこら)は初め持田にあり、後に仏堂園 元倉に建てられたが、明治4年に田野神社に合祀 (ごうし)された。 天建神社の祭神は伊東家の祖神 天児屋根命で、寛文元年 (1661年)、宮田家の祖先、武田六右衛門が第4代藩主 祐由の怒りに触 (ふ)れ田野に左遷された際、楠原に社 (やしろ)を建てたものである。 大正2年に田野神社に合祀 (ごうし)され、大正3年 (1914年)から田野天建神社と呼 (よ)ぶようになった。 宮田家が代々の祠官 (しかん、神社に仕 (つか)える神職。)として現在に至 (いた)る。 例祭は以前は7月20日だったが、現在は、「ふるさと祭り」の日に神社の御神幸のみが参加している。
(田野町歴史の小径 (こみち))
と書かれています。



写真CA: 仏像と思われるものがあります。



写真CB: 古い供 (そなえ)え物などを入れる所です。



写真CC: 「古神札」を入れる所です。



写真CD: 大きな杉の木の下部です。



写真CE: 田野町にある田野天建神社の拝殿です。 狛犬 (こまいぬ)も見えます。 左はさくらが丘保育園です。 北を見たものです。
「田野天建神社 (たのてんけんじんじゃ)」は宮崎県 宮崎市 田野町 字宮ノ原 甲 2793 にあります。



写真CF: 北西を見たものです。 右は拝殿、左はさくらが丘保育園です。



写真CG: 西を見たものです。 さくらが丘保育園の遊具が見えます。



写真CH: 南西を見たものです。 左に石灯籠 (いしどうろう)、右にさくらが丘保育園の遊具があります。



写真CI: 参道と鳥居 (とりい)などです。 南を見たものです。



写真CJ: 南東を見たものです。



写真CK: 東を見たものです。



写真CL: 北東を見たものです。



写真CM:  「郷土の名木 (イチョウ) 宮崎市、指定番号 第332号 平成24年2月9日」と書いてある標柱と御神木のイチョウの木があります。 イチョウには、しめ縄を巻いてあります。



写真CN: 御神木のイチョウの木にしめ縄をしてあります。



写真CO: 御神木のイチョウの中部です。



写真CP: 御神木のイチョウの上部です。



写真CQ: 御神木のイチョウの最上部です。



写真CR: 狛犬 (こまいぬ)です。



写真CS: 狛犬 (こまいぬ)の台座です。



写真CT: もう一つのコマイヌです。 下に「奉納」と彫 (ほ)ってあります。 後ろはさくらが丘保育園です。



写真CU: コマイヌの台座です。



写真CV: 田野天建神社の拝殿です。 横木に象などの彫 (ほ)り物があります。 しめ縄、鈴が見えます。



写真CW: 石段もあります。



写真CX: 拝殿の右部です。 大きな杉の木があります。



写真CY: 拝殿の左部です。 左端はさくらが丘保育園です。



写真CZ: 拝殿のそばから南を見たものです。 参道と鳥居 (とりい)などが見えます。



写真DA: 手前に3本の鈴紐 (ひも)が見えます。



写真DB: しめ縄と鈴紐 (ひも)です。



写真DC: 3つの鈴があります。 田野天建神社。



写真DD: 拝殿の中です。 大きな額 (がく)に「田野天建神社」と書いてあります。 手前はお賽銭箱 (さいせんばこ)です。



写真DE: 田野天建神社の拝殿の中です。 太鼓 (たいこ)もあります。



写真DF: 田野天建神社の拝殿の中です。 太鼓 (たいこ)もあります。



写真DG: 側面から見た鈴などです。



写真DH: 拝殿の下部です。



写真DI: 左は拝殿の側面です。



写真DJ: 拝殿の側面です。



写真DK: 側面の上部です。



写真DL: 中央に本殿が見えます。



写真DM: 左は本殿、右は拝殿です。



写真DN: 地面の苔 (こけ)が美しい。



写真DO: クスノキの実が落ちていました。



写真DP:  「郷土の名木 (イチョウ) 宮崎市、指定番号 第332号 平成24年2月9日」と書いてある標柱と古い手水鉢 (ちょうずばち)があります。



写真DQ: イチョウの神木のしめ縄です。



写真DR: 左は大きな杉の木です。



写真DS: 奥の本殿と左の拝殿の側面です。



写真DT: 田野天建神社の境内 (けいだい)です。



写真DU: 拝殿と左のさくらが丘保育園です。



写真DV: 西を見たものです。



写真DW: 南西を見たものです。 左手前は遊具です。



写真DX: 南を見たものです。



写真DY: 南東を見たものです。



写真DZ: 拝殿の側面です。 お神輿 (みこし)が見えます。



写真EA: 拝殿の側面から見たお神輿 (みこし)です。



写真EB: 本殿の側面です。 田野天建神社。



写真EC: 本殿の側面の下部です。



写真ED: 北を見たものです。 田野天建神社の境内 (けいだい)です。



写真EE: 境内 (けいだい)に大きな杉の木が何本もあります。



写真EF: 杉の木です。



写真EG: 境内 (けいだい)に建物があります。



写真EH: 右は大きな杉の木です。 南を見たものです。



写真EI: 大きな杉の木が並 (なら)んでいます。 南を見たものです。



写真EJ: 杉の木の中部です。



写真EK: 右は拝殿です。



写真EL: 境内 (けいだい)の立木です。



写真EM: 熊の像があります。



写真EN: 北東を見たものです。



写真EO: 外の建物も見えます。



写真EP: 北を見たものです。



写真EQ: 西を見たものです。 奥はさくらが丘保育園です。



写真ER: 田野天建神社 (たのてんけんじんじゃ)の鎮守の森 (ちんじゅのもり)です。



写真ES: 奥に社殿があります。 右はさくらが丘保育園です。 南西を見たものです。



写真ET: 田野天建神社の木です。



写真EU: 森を見上 (みあ)げたものです。



写真EV: 森の下部です。 右奥は拝殿です。



写真EW: 鎮守の森 (ちんじゅのもり)です。



写真EX: 森の中部です。



写真EY: 見上 (みあ)げたものです。



写真EZ: 左奥は本殿です。 遊具もあります。 右端はさくらが丘保育園です。 南西を見たものです。



写真FA: 田野天建神社の境内 (けいだい)です。



写真FB: 奥は本殿です。 南を見たものです。



写真FC: 竹箒 (たけぼうき)、1輪車などがあります。 奥に建物があります。 北西を見たものです。



写真FD: 北西を見たものです。



写真FE: 西を見たものです。 左はさくらが丘保育園です。



写真FF: 右はさくらが丘保育園です。 南西を見たものです。
「さくらが丘保育園」は宮崎県 宮崎市 田野町 甲 2793番地4 にあります。



写真FG: 南を見たものです。 中央は本殿です。 右はさくらが丘保育園です。



写真FH: 北西を見たものです。



写真FI: 西を見たものです。 さくらが丘保育園です。



写真FJ: 大きな杉の木があります。



写真FK: 杉の木の上部です。



写真FL: 境内 (けいだい)の木の根です。 面白 (おもしろ)い形をしています。



写真FM: 木の根元 (ねもと)です。 遊具も見えます。



写真FN: 木の中部です。



写真FO: 木の中部。



写真FP: 木の上部です。 田野天建神社。



写真FQ: 本殿の下の石垣 (いしがき)です。 右奥は拝殿です。



写真FR: 左から本殿、拝殿、右はさくらが丘保育園です。 南を見たものです。



写真FS: 拝殿の下部です。



写真FT: 南東を見たものです。 コマイヌが見えます。



写真FU: 鈴、石段などがあります。 拝殿です。



写真FV: きれいに竹箒 (たけぼうき)で筋 (すじ)を地面に付けてあります。 田野天建神社。



写真FW: 左端に鳥居 (とりい)が見えます。 右はさくらが丘保育園です。
「さくらが丘保育園」は宮崎県 宮崎市 田野町 甲 2793番地4 にあります。
さくらが丘保育園は緑豊かな神社の境内 (けいだい)にあり、恵まれた環境の中で子供たちの主体性に主眼をおいた保育が行われています。 社会福祉法人さくらが丘福祉会が経営しています。



写真FX: 参道と鳥居 (とりい)、杉の木などです。 南を見たものです。



写真FY: 面白 (おもしろ)い穴 (あな)のあいた石を置いてあります。 右は杉の木です。



写真FZ: 石の穴 (あな)は貫通していて、向 (む)こうの光が見えます。



写真GA: 杉の木の根元にある穴のあいた石です。



写真GB: 「御神灯」と彫 (ほ)ってあります。



写真GC: 田野天建神社の参道のところです。 石灯籠 (いしどうろう)があります。



写真GD: こちらにも石灯籠 (いしどうろう)があります。



写真GE: 石灯籠 (いしどうろう)の下部です。



写真GF: 石碑 (せきひ)と石のテーブルがあります。 西を見たものです。



写真GG: 社務所に「おみくじの順番」を書いてあります。



写真GH: 「田野天建神社総改修記念碑 (ひ)」があります。 東を見たものです。



写真GI:  「御大典記念」と彫 (ほ)ってあります。 大典 (たいてん)とは重大な儀式 (ぎしき)のことです。 南を見たものです。



写真GJ: 田野天建神社総改修記念碑 (ひ)の裏や石の柵 (さく)などです。



写真GK: 田野天建神社の前の道です。 西を見たものです。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)