松熊神社 (外所地震の津波で1度流失)、小戸街区公園、後田川緑道 (東端付近)、宮崎県立 宮崎海洋高等学校、宮崎港 (宮崎海洋高校 艇庫、国土交通省 九州地方整備局 宮崎港湾・空港整備事務所、宮崎漁協、ちりめん加工場、宮崎ちりめん、宮崎港水門、宮崎市下水道施設課 宮崎処理場 (宮崎市 終末処理場)、クロネコヤマト (ヤマト運輸) 小戸店、後田川、後田川河口、後田川の暗渠化 (あんきょか)、後田川の日之出橋)  (宮崎県 宮崎市 小戸町、高洲町、日ノ出町、港)







<標高、位置>  松熊神社は
標高 数 m
 北緯31度54分08秒  東経131度27分07秒

<標高、位置>  小戸街区公園は
標高 数 m
 北緯31度54分07秒  東経131度27分09秒

<標高、位置>  宮崎港の漁港は
標高 数 m
 北緯31度53分56秒  東経131度27分18秒

<標高、位置>  宮崎港水門は
標高 数 m
 北緯31度53分50秒  東経131度27分23秒

<標高、位置>  後田川の河口は
標高 約0 m
 北緯31度54分13秒  東経131度27分23秒

<標高、位置>  後田川の「日之出橋」は
標高 数 m
 北緯31度54分14秒  東経131度27分18秒

<標高、位置>  終末処理場 (下水処理場)は
標高 数 m
 北緯31度53分57秒  東経131度27分06秒

<標高、位置>  宮崎県立 宮崎海洋高等学校は
標高 数 m
 北緯31度54分18秒  東経131度27分09秒

<標高、位置>  宮崎海洋高等学校の「艇庫 (ていこ)」は
標高 数 m
 北緯31度54分15秒  東経131度27分19秒

<標高、位置>  後田川緑道の東端は
標高 数 m
 北緯31度54分15秒  東経131度27分15秒

<標高、位置>  国土交通省 九州地方整備局 宮崎港湾・空港整備事務所は
標高 数 m
 北緯31度54分10秒  東経131度27分19秒

<標高、位置>  宮崎漁協は
標高 数 m
 北緯31度53分57秒  東経131度27分15秒

<標高、位置>  クロネコヤマト (ヤマト運輸) 小戸店は
標高 数 m
 北緯31度54分14秒  東経131度27分11秒


 「松熊神社」は宮崎県 宮崎市 小戸町 35 にあります。
宮崎市 小戸町 (元の地名は檍 (あおき)村 大字吉村 字下別府でした。)は昭和26年頃 (ごろ)出来ました。 神話伝説の「小戸 (おど)」は、宮崎市を流れる大淀川左岸 (下流を見て左。)の下流とされています。
「松熊神社の由来」の説明板から、
御祭神 イザナギ=伊邪那岐神、イザナミ=伊邪那美神、ハヤアキツヒコ=速秋津彦神、セオリツヒメ=瀬織津咲神
由緒 (ゆいしょ)
 人皇第12代 景行天皇の御宇、小戸神社と同じく松熊山にご鎮座 (ちんざ)されましたが、寛文2年 (1662年)9月19日の西海大地震 (外所大地震 (とんところだいじしん)のことです。 外所地震 (とんところじしん、とんどころじしん)は1662年10月31日 (寛文2年9月20日)未明に発生しました。 震源地は日向灘沖でマグニチュードは7.6、最大震度は推定6でした。 有史以来最大の日向灘地震でした。 1662年日向灘地震とも呼 (よ)ばれます。 津波の高さは最大4〜5 m でした。 死者は約200人、約3800世帯の家が壊 (こわ)れました。 宮崎市 木花地区を中心にして宮崎県沿岸のほぼ全部に被害がありました。 7つの村が水没しました。)による洪水 (こうずい)のため社殿流失の災厄 (さいやく)に遭 (あ)いのち下別府 字下北山に再祀 (さいき)しましたが、その後 寛永 (1624年〜1644年) (寛文 (1661年〜1673年)の誤記と思われます。) 5年 大淀川の港脇へ祀 (祠 (ほこら)のことでしょうか。)を建て水門の神として遷座申し上げ ご社名は往古の鎮祭地であります松熊山の松熊を付しました。 1968年 (昭和43年) 明治100年を記念して ご本殿改築が行われました。 例祭は旧3月13日で吉村八幡神社の末社です。

 「小戸街区公園」は宮崎県 宮崎市 小戸町 にあります。

 「宮崎県立 宮崎海洋高等学校」は宮崎県 宮崎市 日の出町 1番地 にあります。
宮崎県立 宮崎海洋高等学校は1900年 (明治33年)4月1日に実業補習学校として設立されました。 水産科が独立したのは1950年 (昭和25年) 水産高等学校になってからです。 このとき日南市から宮崎市に移りました。 平成6年 (1994年)に宮崎海洋高等学校になりました。 男女共学の全日制課程です。 海洋科学科があります。 校訓は真理を探求し常に正道を闊歩 (かっぽ)せよ。 人権を尊重し平和と自由を愛せよ。 責任を重 (おも)んじ実行力のある人となれ。 実習船は「進洋丸」です。

 「後田川の河口」は宮崎県 宮崎市 港 にあります。
後田川は宮崎市の中心部を流れる川で、宮崎港の入江 (いりえ)に注 (そそ)いでいます。

 「後田川緑道の東端」は宮崎県 宮崎市 小戸町と日ノ出町 の間にあります。
後田川に蓋 (ふた)をして (暗渠化 (あんきょか))その上を公園にした「後田川緑道」です。
暗渠化 (あんきょか)は昭和49年度から5年かけて行われました。 そのときに緑道公園も造られました。 周辺の都市化により生活排水が流れ込みドブ川になっていました。 それで暗渠化 (あんきょか)することにより、その上を緑道公園にしました。 下水の宮崎処理場できれいにした水を流す「せせらぎ水道」を緑道公園に造りました。 そこに鯉 (こい)などが泳ぎ、子供たちが水遊びもできる水と緑の公園になりました。 この水緑景観モデル事業は平成4年度に採択されて実施されました。 後田川は「甦 (よみがえ)る水100選」、「都市景観大賞」(建設省制定)に選定されました。

 「国土交通省 九州地方整備局 宮崎港湾・空港整備事務所」は宮崎県 宮崎市 港 1丁目16番地 にあります。
港湾整備、空港整備などを管轄 (かんかつ)しています。

 「JF宮崎 宮崎漁業協同組合 (宮崎漁協)」は宮崎県 宮崎市 港 1丁目9 にあります。

 「ちりめん加工場」は宮崎港の近くに数か所あります。
ちりめん雑魚(じゃこ、ざこ)とはイワシ類の稚魚 (ちぎょ)をゆでて乾かしたものです。 また、ハゼ科のシロウオを煮 (に)て乾かしたものです。
「宮崎ちりめん」はブランド品です。 宮崎県の特産品として、関西・関東などへ出荷されています。 無添加・新鮮・安心・安全と品質にこだわっています。

 「宮崎市下水道施設課 宮崎処理場 (宮崎市 終末処理場)」は宮崎県 宮崎市 高洲町 10番地 にあります。
宮崎処理場は流れてきた下水からきれいな水と汚泥 (おでい)を乾燥した乾燥肥料を作成している所です。

 「クロネコヤマト (ヤマト運輸) 小戸店」は宮崎県 宮崎市 小戸町 98 にあります。
宅急便を取り扱 (あつか)っている所です。

 「宮崎港」は宮崎市 港、港東、新別府町、阿波岐原町にまたがる港です。 大淀川の河口の北岸(左岸(下流を見て左。))の一ツ葉入江に位置する河口港です。 昭和44年(1969年)に開港し、宮崎県が港湾管理者です。 昭和12年(1937年)に赤江港から宮崎港に呼(よ)び名が変わりました。 それまでは赤江港と呼ばれていて重要な港でした。 鎌倉時代から赤江港は使われていました。 文明年間(1469年から1487年、戦国時代)は大陸交易の寄港地となりました。 文化年間(1804年から1818年、江戸時代後期)頃から、上方交易(大阪、神戸など。)が活発になりました。 当時は赤江港は大淀川の南岸(右岸(下流を見て右。))に位置して飫肥藩(おびはん)領の東北端の場所でした。 明治時代は大淀川を用いた内陸部(宮崎市 高岡町、国富町 本庄)と結ばれていました。 しかし、大正12年(1923年)に国鉄 日豊本線が開通し、また河口港によく見られる砂堆積(たいせき)によって航路の維持が困難になり、赤江港は衰退しました。 昭和33年(1958年)から改修工事が始まり、昭和44年(1969年)に一ツ葉入江に宮崎港が出来ました。 宮崎港には漁港、フェリーターミナル、国際コンテナターミナルなどがあります。
 宮崎港は港湾区域告示 昭和38年6月、港湾区域面積 1983 ha、南防波堤 2600 m、内防波堤 450 m、岸壁水深 9 m(50000トン級) 延長 300 m、航路・泊地水深 9 m。
 宮崎港ではチヌ、サヨリ、スズキ、コノシロ、アジコ、サビキなどが釣(つ)れます。

  「宮崎港水門ゲート」の金属製の説明板から、
「宮崎港水門ゲート、1987年5月、管理者 宮崎県、型式 ステンレス製桁構造ローラゲート、純径間x扉高 18.0 m x 9.8 m、設置数 1門、扉体重量 115.0 ton、施工 扉体工 株式会社 田原製作所、本体工 株式会社 志多組。」
宮崎港水門ゲートは大淀川の河口近くの北岸にあり、宮崎港と大淀川の間にあります。



写真A: 左は宮崎港の漁港です。 「宮崎ちりめん」と壁 (かべ)に書いてある建物が宮崎漁協です。
「JF宮崎 宮崎漁業協同組合 (宮崎漁協)」は宮崎県 宮崎市 港 1丁目9 にあります。
 「宮崎ちりめん」はブランド品です。 宮崎県の特産品として、関西・関東などへ出荷されています。 無添加・新鮮・安心・安全と品質にこだわっています。「ちりめん加工場」は宮崎港の近くに数か所あります。
ちりめん雑魚(じゃこ、ざこ)とはイワシ類の稚魚 (ちぎょ)をゆでて乾かしたものです。 また、ハゼ科のシロウオを煮 (に)て乾かしたものです。
 奥には大淀川が左右に流れています。 南を見たものです。



写真B: 南西を見たものです。 右奥に下水処理場のタンクが見えます。 「宮崎市下水道施設課 宮崎処理場 (宮崎市 終末処理場)」は宮崎県 宮崎市 高洲町 10番地 にあります。
宮崎処理場は流れてきた下水からきれいな水と汚泥 (おでい)を乾燥した乾燥肥料を作成している所です。



写真C: 西を見たものです。 この車道を奥に進んで「松熊神社」などに行きます。 右に生コンクリート工場が見えます。 左は食肉センターです。 右奥に高いマンションも見えます。



写真D: 北西を見たものです。 生コンクリート工場です。 フェニックスの木もあります。



写真E: 北を見たものです。



写真F: 西を見たものです。 これから奥の道を先に進みます。



写真G: 左は食肉センターの入り口です。 西を見たものです。



写真H: 右の建物に「宮崎中央倉庫」と書いてあります。



写真I: 十字路が見えてきました。 この十字路を右 (北)に曲がります。



写真J: 「リベラル 一ツ葉」と書いてあります。 高いマンションです。
「津波避難ビル 津波時は、この建物の上階へ避難 この土地は 標高 2.7 m 、宮崎市」と書いてあります。



写真K: 北を見たものです。 見えている奥の所で右 (東)に曲がって「松熊神社」へ行きます。



写真L: 北を見たものです。 右の高い木の所に「松熊神社」があります。



写真M: 左は松熊神社の境内 (けいだい)です。 北東を見たものです。



写真N: 北を見たものです。 右は松熊神社の境内 (けいだい)。



写真O: 東を見たものです。 松熊神社の境内 (けいだい)です。 ツツジの花が見えます。



写真P: 中央に白藤 (しろふじ)の花が見えます。 松熊神社です。



写真Q: 北を見たものです。 松熊神社の境内 (けいだい)。



写真R: 松熊神社の高い木です。



写真S: 右は松熊神社の木です。



写真T: 右は松熊神社。



写真U: 「津波に注意! この土地は 標高 3.2 m 、海岸から400 m です。 檍 (あおき)地域まちづくり推進委員会」と書いてあります。



写真V: 南東を見たものです。 左は松熊神社の拝殿です。



写真W: 松熊神社です。 南東を見たものです。
「松熊神社」は宮崎県 宮崎市 小戸町 35 にあります。
宮崎市 小戸町 (元の地名は檍 (あおき)村 大字吉村 字下別府でした。)は昭和26年頃 (ごろ)出来ました。 神話伝説の「小戸 (おど)」は、宮崎市を流れる大淀川左岸 (下流を見て左。)の下流とされています。



写真X: 北東を見たものです。 右は松熊神社の木です。



写真Y: 松熊神社のそばです。



写真Z: 松熊神社の近くです。



写真AA: 左は松熊神社の拝殿です。



写真AB: 中央は松熊神社の本殿です。 右は拝殿、左下は末社です。



写真AC: 松熊神社の拝殿と石垣 (いしがき)です。



写真AD: 拝殿です。 左端は本殿です。



写真AE: 松熊神社の石垣 (いしがき)です。 木の奥に鳥居 (とりい)があります。



写真AF: 手前は松熊神社の境内 (けいだい)です。 南東を見たものです。



写真AG: 左に石垣 (いしがき)があります。 境内 (けいだい)です。



写真AH: 松熊神社の末社です。



写真AI: 末社の前に、古い鳥居 (とりい)の下の台が2つ残っています。



写真AJ: 松熊神社の本殿です。 右寄りに象の彫 (ほ)り物があります。



写真AK: 本殿の下部です。



写真AL: 本殿の近くです。



写真AM: 古い石があります。



写真AN: 左は拝殿です。 箒 (ほうき)、熊手 (くまで)もあります。 南を見たものです。



写真AO: 松熊神社の社殿です。



写真AP: 本殿の上部です。



写真AQ: 松熊神社の鳥居 (とりい)です。 石段、右に大きな石碑 (せきひ)、説明板、拝殿もあります。 北を見たものです。



写真AR: 左奥から来ました。
「松熊神社」は宮崎県 宮崎市 小戸町 35 にあります。



写真AS: 北西を見たものです。



写真AT: 南西を見たものです。



写真AU: 南を見たものです。



写真AV: 松熊神社の南です。



写真AW: 奥に小戸街区公園のブランコが見えます。 手前は松熊神社の境内 (けいだい)です。 南東を見たものです。



写真AX: 右奥は小戸街区公園、手前は松熊神社の境内 (けいだい)です。 東を見たものです。



写真AY: 北東を見たものです。 松熊神社です。



写真AZ: 「松熊神社の由来」の説明板があります。
御祭神 イザナギ=伊邪那岐神、イザナミ=伊邪那美神、ハヤアキツヒコ=速秋津彦神、セオリツヒメ=瀬織津咲神
由緒 (ゆいしょ)
 人皇第12代 景行天皇の御宇、小戸神社と同じく松熊山にご鎮座 (ちんざ)されましたが、寛文2年 (1662年)9月19日の西海大地震 (外所大地震 (とんところだいじしん)のことです。 外所地震 (とんところじしん、とんどころじしん)は1662年10月31日 (寛文2年9月20日)未明に発生しました。 震源地は日向灘沖でマグニチュードは7.6、最大震度は推定6でした。 有史以来最大の日向灘地震でした。 1662年日向灘地震とも呼 (よ)ばれます。 津波の高さは最大4〜5 m でした。 死者は約200人、約3800世帯の家が壊 (こわ)れました。 宮崎市 木花地区を中心にして宮崎県沿岸のほぼ全部に被害がありました。 7つの村が水没しました。)による洪水 (こうずい)のため社殿流失の災厄 (さいやく)に遭 (あ)いのち下別府 字下北山に再祀 (さいき)しましたが、その後 寛永 (1624年〜1644年) (寛文 (1661年〜1673年)の誤記と思われます。) 5年 大淀川の港脇へ祀 (祠 (ほこら)のことでしょうか。)を建て水門の神として遷座申し上げ ご社名は往古の鎮祭地であります松熊山の松熊を付しました。 1968年 (昭和43年) 明治100年を記念して ご本殿改築が行われました。 例祭は旧3月13日で吉村八幡神社の末社です。
檍 (あおき)郷土史より
と書かれています。



写真BA: 「松熊神社の由来」の説明板です。
御祭神 イザナギ=伊邪那岐神、イザナミ=伊邪那美神、ハヤアキツヒコ=速秋津彦神、セオリツヒメ=瀬織津咲神
由緒 (ゆいしょ)
 人皇第12代 景行天皇の御宇、小戸神社と同じく松熊山にご鎮座 (ちんざ)されましたが、寛文2年 (1662年)9月19日の西海大地震 (外所大地震 (とんところだいじしん)のことです。 外所地震 (とんところじしん、とんどころじしん)は1662年10月31日 (寛文2年9月20日)未明に発生しました。 震源地は日向灘沖でマグニチュードは7.6、最大震度は推定6でした。 有史以来最大の日向灘地震でした。 1662年日向灘地震とも呼 (よ)ばれます。 津波の高さは最大4〜5 m でした。 死者は約200人、約3800世帯の家が壊 (こわ)れました。 宮崎市 木花地区を中心にして宮崎県沿岸のほぼ全部に被害がありました。 7つの村が水没しました。)による洪水 (こうずい)のため社殿流失の災厄 (さいやく)に遭 (あ)いのち下別府 字下北山に再祀 (さいき)しましたが、その後 寛永 (1624年〜1644年) (寛文 (1661年〜1673年)の誤記と思われます。) 5年 大淀川の港脇へ祀 (祠 (ほこら)のことでしょうか。)を建て水門の神として遷座申し上げ ご社名は往古の鎮祭地であります松熊山の松熊を付しました。 1968年 (昭和43年) 明治100年を記念して ご本殿改築が行われました。 例祭は旧3月13日で吉村八幡神社の末社です。
檍 (あおき)郷土史より
と書かれています。



写真BB: 「松熊神社の由来」の説明板。
御祭神 イザナギ=伊邪那岐神、イザナミ=伊邪那美神、ハヤアキツヒコ=速秋津彦神、セオリツヒメ=瀬織津咲神
由緒 (ゆいしょ)
 人皇第12代 景行天皇の御宇、小戸神社と同じく松熊山にご鎮座 (ちんざ)されましたが、寛文2年 (1662年)9月19日の西海大地震 (外所大地震 (とんところだいじしん)のことです。 外所地震 (とんところじしん、とんどころじしん)は1662年10月31日 (寛文2年9月20日)未明に発生しました。 震源地は日向灘沖でマグニチュードは7.6、最大震度は推定6でした。 有史以来最大の日向灘地震でした。 1662年日向灘地震とも呼 (よ)ばれます。 津波の高さは最大4〜5 m でした。 死者は約200人、約3800世帯の家が壊 (こわ)れました。 宮崎市 木花地区を中心にして宮崎県沿岸のほぼ全部に被害がありました。 7つの村が水没しました。)による洪水 (こうずい)のため社殿流失の災厄 (さいやく)に遭 (あ)いのち下別府 字下北山に再祀 (さいき)しましたが、その後 寛永 (1624年〜1644年) (寛文 (1661年〜1673年)の誤記と思われます。) 5年 大淀川の港脇へ祀 (祠 (ほこら)のことでしょうか。)を建て水門の神として遷座申し上げ ご社名は往古の鎮祭地であります松熊山の松熊を付しました。 1968年 (昭和43年) 明治100年を記念して ご本殿改築が行われました。 例祭は旧3月13日で吉村八幡神社の末社です。
檍 (あおき)郷土史より
と書かれています。



写真BC: 松熊神社の拝殿です。 しめ縄、御幣 (ごへい)もあります。 横木の端 (はし)に象の彫 (ほ)り物が見えます。
「松熊神社」は宮崎県 宮崎市 小戸町 35 にあります。



写真BD: 石灯籠 (いしどうろう)が拝殿のそばにあります。



写真BE: 右手には石灯籠 (いしどうろう)と手水鉢 (ちょうずばち)があります。



写真BF: 松熊神社の石段です。 左手前は鳥居 (とりい)です。



写真BG: 松熊神社の拝殿の中です。 奥は本殿です。



写真BH: 拝殿の中です。



写真BI: 拝殿の中。



写真BJ: お賽銭箱 (さいせんばこ)のそばに「お参り頂きまして ありがとうございます。 お賽銭 (さいせん)は毎日集金してあります。 神様にお礼のお賽銭をあげて下さい。 心が落ち着きます。 松熊神社」と書いてあります。



写真BK: 2つの石灯籠 (いしどうろう)と三角形の手水鉢 (ちょうずばち)があります。 三角形の手水鉢 (ちょうずばち)は珍 (めずら)しいと思います。



写真BL: 四角の手水鉢 (ちょうずばち)と石灯籠 (いしどうろう)です。 拝殿の右手です。



写真BM: 内側から見た鳥居 (とりい)です。 しめ縄があります。 南を見たものです。



写真BN: 鳥居 (とりい)の下部と石段です。



写真BO: 西を見たものです。 右は拝殿です。



写真BP: ここにも手水鉢 (ちょうずばち)があります。



写真BQ: 左は鳥居 (とりい)、右端は拝殿です。 西を見たものです。



写真BR: 手前は拝殿の近くの木です。 右端は鳥居 (とりい)です。 南を見たものです。



写真BS: 「神社改築記念碑 (ひ)」と彫 (ほ)ってある石碑 (せきひ)があります。 奥に小戸街区公園の遊具も見えます。 南東を見たものです。



写真BT: 松熊神社の境内 (けいだい)です。



写真BU: 手前は松熊神社の境内 (けいだい)。



写真BV: 枯 (か)れたソテツの木と思われます。 東を見たものです。



写真BW: 枯れたソテツの木の下部です。



写真BX: 北を見たものです。 左は拝殿です。



写真BY: 左は拝殿です。



写真BZ: 上を見たものです。 左は拝殿。



写真CA: 境内 (けいだい)の木と拝殿です。



写真CB: 左に本殿があります。 北を見たものです。



写真CC: 右は松熊神社の本殿です。
「松熊神社」は宮崎県 宮崎市 小戸町 35 にあります。



写真CD: 本殿の下部です。



写真CE: 左は拝殿です。



写真CF: 左は拝殿。



写真CG: 右端は本殿です。



写真CH: 松熊神社の本殿です。 象の彫 (ほ)り物があります。 しめ縄と御幣 (ごへい)もあります。



写真CI: 近くから見た松熊神社の本殿です。 本殿の扉 (とびら)の上にも彫 (ほ)り物があります。



写真CJ: 左手前は松熊神社の境内 (けいだい)です。 北東を見たものです。



写真CK: 「神社改築記念碑 (ひ)」と書いてある石碑 (せきひ)があります。



写真CL: この石碑 (せきひ)の裏に「昭和43年4月吉日」と書いてあります。 昭和43年は明治が始まってから100年目です。



写真CM: 左は神社の石垣 (いしがき)です。



写真CN: 隣接 (りんせつ)している小戸街区公園です。 遊具、東屋 (あずまや)、子供たちが野球をしている広場などが見えます。 南東を見たものです。



写真CO: 高いマンションが南にあります。 子供たちが野球をしていました。 小戸街区公園です。 南を見たものです。



写真CP: 小戸街区公園です。
「小戸街区公園」は宮崎県 宮崎市 小戸町 にあります。 宮崎港から割 (わ)りと近いところにあります。 松熊神社の隣 (とな)りです。



写真CQ: 小戸街区公園のブランコも見えます。 東を見たものです。



写真CR: 北東を見たものです。



写真CS: 北を見たものです。



写真CT: 北西を見たものです。 松熊神社の鳥居 (とりい)、拝殿も見えます。 小戸街区公園から見たものです。



写真CU: 西を見たものです。 右端に鳥居 (とりい)があります。



写真CV: 東を見たものです。 滑り台 (すべりだい)、東屋 (あずまや)も見えます。 小戸街区公園です。



写真CW: 南東を見たものです。 小戸街区公園の広場で子供たちが野球をしています。 奥は高いマンションです。



写真CX: 東を見たものです。 小戸街区公園の茶色の門が見えます。 左端は滑り台 (すべりだい)で右端はトイレです。 外の車道も見えます。



写真CY: 公園のトイレです。



写真CZ: 小戸街区公園の鉄棒と左端の滑り台 (すべりだい)です。 北東を見たものです。



写真DA: 門に「小戸街区公園」と書いてあります。 鉄棒などの遊具も見えます。 西を見たものです。
「小戸街区公園」は宮崎県 宮崎市 小戸町 にあります。



写真DB: 小戸街区公園の茶色の門です。 南西を見たものです。 門の内側に車止めがあります。



写真DC: 南を見たものです。 左奥に生コンクリート工場があります。 右手前は小戸街区公園です。



写真DD: 南東を見たものです。 生コンクリート工場があります。



写真DE: 東を見たものです。 飲料水の自動販売機があります。



写真DF: 北を見たものです。 奥の右手にクロネコヤマト (ヤマト運輸)があります。 左に携帯電話の基地局アンテナがあります。



写真DG: 左手前は小戸街区公園です。



写真DH: 小戸街区公園の金網 (かなあみ)に「不法投棄禁止」と書いてあります。



写真DI: 車道から見た小戸街区公園です。 西を見たものです。



写真DJ: 北を見たものです。



写真DK: この車道の突 (つ)き当りに後田川緑道が左右に通っています。 クロネコヤマト (ヤマト運輸)の黄色に見えている看板 (かんばん)も小さく見えます。 左端に携帯電話の基地局アンテナがあります。 北を見たものです。



写真DL: 南を見たものです。 奥の林は小戸街区公園です。 その右手に見えてはいませんが、松熊神社があります。 高いマンションも見えます。



写真DM: クロネコヤマト (ヤマト運輸) 小戸店です。



写真DN: 右は宅急便のクロネコヤマト (ヤマト運輸) 小戸店です。
「クロネコヤマト (ヤマト運輸) 小戸店」は宮崎県 宮崎市 小戸町 98 にあります。



写真DO:  宅急便の「クロネコヤマト (ヤマト運輸) 小戸店」は宮崎県 宮崎市 小戸町 98 にあります。
宅急便を取り扱 (あつか)っている所です。



写真DP:  クロネコヤマトの幟 (のぼり)、トラック、「ヤマト運輸」、「宅急便」と書いてある看板 (かんばん)もあります。
「クロネコヤマト (ヤマト運輸) 小戸店」は宮崎県 宮崎市 小戸町 98 にあります。
宅急便を取り扱 (あつか)っている所です。



写真DQ: この道の突 (つ)き当りに後田川に蓋 (ふた)をしてその上を公園にした「後田川緑道」があります。 携帯電話の基地局アンテナが見えます。 北を見たものです。



写真DR: 「とだかうどん」と書いてあります。 東を見たものです。



写真DS: 西を見たものです。 後田川に蓋 (ふた)をしてその上を公園にした「後田川緑道」があります。 右端の奥に宮崎県立 宮崎海洋高等学校 (宮崎海洋高校)の体育館が見えます。



写真DT: 宮崎県立 宮崎海洋高等学校の体育館が後田川緑道の奥 (北)に見えます。
「宮崎県立 宮崎海洋高等学校」は宮崎県 宮崎市 日の出町 1番地 にあります。
宮崎県立 宮崎海洋高等学校は1900年 (明治33年)4月1日に実業補習学校として設立されました。 水産科が独立したのは1950年 (昭和25年) 水産高等学校になってからです。 このとき日南市から宮崎市に移りました。 平成6年 (1994年)に宮崎海洋高等学校になりました。 男女共学の全日制課程です。 海洋科学科があります。 校訓は真理を探求し常に正道を闊歩 (かっぽ)せよ。 人権を尊重し平和と自由を愛せよ。 責任を重 (おも)んじ実行力のある人となれ。 実習船は「進洋丸」です。



写真DU: 後田川緑道の奥 (北)に宮崎海洋高校の体育館とグラウンドのネット (網 (あみ))が見えます。



写真DV: 北東を見たものです。 後田川に蓋 (ふた)をしてその上を公園にした「後田川緑道」です。



写真DW: 東を見たものです。



写真DX: 南を見たものです。 この奥に宅急便のクロネコヤマト 小戸店や小戸街区公園、松熊神社があります。



写真DY: 後田川に蓋 (ふた)をしてその上を公園にした「後田川緑道」です。
水飲み場、休憩所 (きゅうけいしょ)、外灯、歩道、植木などがあります。



写真DZ: 黄色などの動物の像の遊具があります。 歩道が東西に続いています。 後田川に蓋 (ふた)をしてその上を公園にした「後田川緑道」です。
「後田川緑道の東端」は宮崎県 宮崎市 小戸町と日ノ出町 の間にあります。
後田川に蓋 (ふた)をして (暗渠化 (あんきょか))その上を公園にした「後田川緑道」です。
暗渠化 (あんきょか)は昭和49年度から5年かけて行われました。 そのときに緑道公園も造られました。 周辺の都市化により生活排水が流れ込みドブ川になっていました。 それで暗渠化 (あんきょか)することにより、その上を緑道公園にしました。 下水の宮崎処理場できれいにした水を流す「せせらぎ水道」を緑道公園に造りました。 そこに鯉 (こい)などが泳ぎ、子供たちが水遊びもできる水と緑の公園になりました。 この水緑景観モデル事業は平成4年度に採択されて実施されました。 後田川は「甦 (よみがえ)る水100選」、「都市景観大賞」(建設省制定)に選定されました。



写真EA: 宮崎県立 宮崎海洋高等学校 (宮崎海洋高校)です。 北西を見たものです。
「宮崎県立 宮崎海洋高等学校」は宮崎県 宮崎市 日の出町 1番地 にあります。



写真EB: 宮崎海洋高等学校の運動場 (グラウンド)のまわりのネット (網 (あみ))があります。
「宮崎県立 宮崎海洋高等学校」は宮崎県 宮崎市 日の出町 1番地 にあります。



写真EC: 「空き缶 (かん)・ごみの投げ捨てを禁止します。 宮崎海洋高等学校長」と書いてあります。 左上は海洋高校の体育館です。



写真ED: 後田川緑道は後田川を暗渠化 (あんきょか、上に蓋 (ふた)をすることです。)して造られました。 ここは後田川緑道の東端です。 後田川緑道と書いてある石碑 (せきひ)があります。
「後田川緑道の東端」は宮崎県 宮崎市 小戸町と日ノ出町 の間にあります。



写真EE: 「後田川緑道」と彫 (ほ)ってある石碑 (せきひ)があります。



写真EF: ここから東は後田川の蓋 (ふた)はありません。 昔ながらの後田川が残っています。 「後田川の河口」は宮崎県 宮崎市 港 にあります。
後田川は宮崎市の中心部を流れる川で、宮崎港の入江 (いりえ)に注 (そそ)いでいます。
左奥に海洋高等学校の艇庫 (ていこ、舟が入っている建物です。)、日之出橋 (平成11年3月竣工 (しゅんこう、完成すること。))、右に高いワシントン椰子 (やし)があります。 東を見たものです。



写真EG: 西を見たものです。 後田川の暗渠 (あんきょ、川の上に蓋 (ふた)をしたものです。)がよく分かります。 下の穴から水が流れて来ています。 その上を公園にして後田川緑道となっています。 後田川緑道の東端が見えています。 右端に海洋高校のグラウンドのネットが見えます。
「後田川緑道の東端」は宮崎県 宮崎市 小戸町と日ノ出町 の間にあります。
後田川に蓋 (ふた)をして (暗渠化 (あんきょか))その上を公園にした「後田川緑道」です。
暗渠化 (あんきょか)は昭和49年度から5年かけて行われました。 そのときに緑道公園も造られました。 周辺の都市化により生活排水が流れ込みドブ川になっていました。 それで暗渠化 (あんきょか)することにより、その上を緑道公園にしました。 下水の宮崎処理場できれいにした水を流す「せせらぎ水道」を緑道公園に造りました。 そこに鯉 (こい)などが泳ぎ、子供たちが水遊びもできる水と緑の公園になりました。 この水緑景観モデル事業は平成4年度に採択されて実施されました。 後田川は「甦 (よみがえ)る水100選」、「都市景観大賞」(建設省制定)に選定されました。



写真EH: 奥に宮崎県立 宮崎海洋高等学校 (宮崎海洋高校)の校舎、体育館、グラウンドのまわりのネットなどが見えます。
「宮崎県立 宮崎海洋高等学校」は宮崎県 宮崎市 日の出町 1番地 にあります。
宮崎県立 宮崎海洋高等学校は1900年 (明治33年)4月1日に実業補習学校として設立されました。 水産科が独立したのは1950年 (昭和25年) 水産高等学校になってからです。 このとき日南市から宮崎市に移りました。 平成6年 (1994年)に宮崎海洋高等学校になりました。 男女共学の全日制課程です。 海洋科学科があります。 校訓は真理を探求し常に正道を闊歩 (かっぽ)せよ。 人権を尊重し平和と自由を愛せよ。 責任を重 (おも)んじ実行力のある人となれ。 実習船は「進洋丸」です。
 左は後田川緑道の東端です。



写真EI: 宮崎海洋高等学校 艇庫 (ていこ、舟を入れておく倉庫です。)、右に後田川の日之出橋があります。 東を見たものです。



写真EJ: 「ひのではし」と書いてあります。 後田川の日之出橋 (平成11年3月竣工 (しゅんこう、完成すること。))です。 南西を見たものです。



写真EK: 後田川の日之出橋に「平成11年3月竣工 (しゅんこう、完成すること。)」と書いてあります。 後田川は宮崎港の入江 (いりえ)に注 (そそ)いでいます。 河口に多くの漁船などが停泊 (ていはく)しています。



写真EL: 「宮崎海洋高等学校 艇庫 (ていこ)」と建物に書いてあります。 この中に舟が入っていると思われます。
宮崎県立 宮崎海洋高等学校は1900年 (明治33年)4月1日に実業補習学校として設立されました。 水産科が独立したのは1950年 (昭和25年) 水産高等学校になってからです。 このとき日南市から宮崎市に移りました。 平成6年 (1994年)に宮崎海洋高等学校になりました。 男女共学の全日制課程です。 海洋科学科があります。 校訓は真理を探求し常に正道を闊歩 (かっぽ)せよ。 人権を尊重し平和と自由を愛せよ。 責任を重 (おも)んじ実行力のある人となれ。 実習船は「進洋丸」です。



写真EM: 海洋高校の艇庫 (ていこ)です。



写真EN: 宮崎海洋高校の艇庫 (ていこ)です。 水色の鉄骨は舟を後田川に降 (お)ろしたり、揚 (あ)げたりするときに用いるものと思われます。 後田川の川岸 (左岸 (下流を見て左。))にあります。 東を見たものです。



写真EO: 後田川の河口です。 宮崎港の入江 (いりえ)に注 (そそ)いでいます。



写真EP: 南を見たものです。 右は後田川の日之出橋です。



写真EQ: 南西を見たものです。 手前は日之出橋です。



写真ER: 西を見たものです。 宮崎海洋高校、後田川緑道も見えます。



写真ES: 宮崎海洋高等学校の校舎、体育館、グラウンドのネットと夜間照明などが見えます。 西を見たものです。
「宮崎県立 宮崎海洋高等学校」は宮崎県 宮崎市 日の出町 1番地 にあります。



写真ET: 河口に漁船などが多く停泊 (ていはく)しています。 東を見たものです。
「後田川の河口」は宮崎県 宮崎市 港 にあります。
後田川は宮崎市の中心部を流れる川で、宮崎港の入江 (いりえ)に注 (そそ)いでいます。



写真EU: 日之出橋から見た宮崎海洋高等学校の艇庫 (ていこ)です。 北東を見たものです。



写真EV: 後田川の日之出橋から北を見たものです。



写真EW: 日之出橋から北西を見たものです。 宮崎海洋高校、後田川緑道の東端も見えます。



写真EX: 南西を見たものです。 携帯電話の基地局アンテナ、マンションなどが見えます。



写真EY: 南を見たものです。 自動車タイヤの「タイヤランド」、左に高いワシントン椰子 (やし)があります。



写真EZ: 日之出橋から南を見たものです。 歩道、車道があります。



写真FA: 南東を見たものです。



写真FB: 日之出橋から見た後田川の河口です。
「後田川の河口」は宮崎県 宮崎市 港 にあります。



写真FC: 「日之出橋」と書いてあります。



写真FD: 橋に「後田川」と書いてあります。 右奥は後田川緑道の東端です。 西を見たものです。



写真FE: 自動車タイヤの「タイヤランド」です。 南西を見たものです。



写真FF: 「←宮崎県 中部港湾事務所」と書いてあります。



写真FG: 東を見たものです。 奥は宮崎港です。



写真FH: 「国土交通省 九州地方整備局 宮崎港湾・空港整備事務所」と書いてあります。
「国土交通省 九州地方整備局 宮崎港湾・空港整備事務所」は宮崎県 宮崎市 港 1丁目16番地 にあります。



写真FI: 「国土交通省 九州地方整備局 宮崎港湾・空港整備事務所」と書いてあります。



写真FJ: 門のところです。



写真FK: 建物のそばにフェニックスの木があります。 「国土交通省 九州地方整備局 宮崎港湾・空港整備事務所」は宮崎県 宮崎市 港 1丁目16番地 にあります。
港湾整備、空港整備などを管轄 (かんかつ)しています。



写真FL: ココス椰子 (やし)を植えてあります。 国土交通省 九州地方整備局 宮崎港湾・空港整備事務所です。 北を見たものです。



写真FM: 「misumi」とガスタンクに書いてあります。 「ENEOS GAS」と書いてあります。 西を見たものです。



写真FN: パチンコ店の「.COM」です。 南西を見たものです。 左に生コンクリート工場もあります。



写真FO: 左に「松浦回漕店 (かいそうてん)」と書いてあります。 右にパチンコ店の「.COM」と生コンクリート工場もあります。 南を見たものです。



写真FP: 「株式会社 松浦回漕店 (かいそうてん)」です。



写真FQ: 「松浦回漕店 (かいそうてん)」と書いてあります。 東を見たものです。



写真FR: 松浦回漕店 (かいそうてん)です。 北東を見たものです。



写真FS: 北を見たものです。 「misumi」のガスタンクがいくつか見えます。



写真FT: パチンコ店の「.COM」です。 西を見たものです。



写真FU: 生コンクリート工場です。 南西を見たものです。



写真FV: 野草の「ツバナ (チガヤの穂)」がありました。



写真FW: 「ちりめん加工場」と建物に書いてあります。 右の所で小さな魚の「ちりめん」を太陽で乾燥させます。 北東を見たものです。
「ちりめん加工場」は宮崎港の近くに数か所あります。
ちりめん雑魚(じゃこ、ざこ)とはイワシ類の稚魚 (ちぎょ)をゆでて乾かしたものです。 また、ハゼ科のシロウオを煮 (に)て乾かしたものです。
「宮崎ちりめん」はブランド品です。 宮崎県の特産品として、関西・関東などへ出荷されています。 無添加・新鮮・安心・安全と品質にこだわっています。



写真FX: 左はちりめん加工場です。 東を見たものです。



写真FY: 右は宮崎港の漁港です。 水門も見えます。 南東を見たものです。



写真FZ: 南を見たものです。 建物に「宮崎ちりめん」と書いてあります。
「ちりめん加工場」は宮崎港の近くに数か所あります。
ちりめん雑魚(じゃこ、ざこ)とはイワシ類の稚魚 (ちぎょ)をゆでて乾かしたものです。 また、ハゼ科のシロウオを煮 (に)て乾かしたものです。



写真GA: 南西を見たものです。



写真GB: 左寄りに宮崎市 終末処理場の建物が見えます。 「宮崎市下水道施設課 宮崎処理場 (宮崎市 終末処理場)」は宮崎県 宮崎市 高洲町 10番地 にあります。



写真GC: 西を見たものです。 はじめに奥の道を先に進みました。 右は生コンクリート工場です。



写真GD: 北西を見たものです。 生コンクリート工場が見えます。



写真GE: 南西を見たものです。



写真GF: 宮崎漁協の建物に「宮崎ちりめん」と書いてあります。 「宮崎ちりめん」はブランド品です。 宮崎県の特産品として、関西・関東などへ出荷されています。 無添加・新鮮・安心・安全と品質にこだわっています。 南を見たものです。
「JF宮崎 宮崎漁業協同組合 (宮崎漁協)」は宮崎県 宮崎市 港 1丁目9 にあります。
左は宮崎港の漁港です。



写真GG: 奥に大淀川と宮崎港の間の宮崎港水門が見えます。 宮崎港の漁港です。 南東を見たものです。
「宮崎港」は宮崎市 港、港東、新別府町、阿波岐原町にまたがる港です。 大淀川の河口の北岸(左岸(下流を見て左。))の一ツ葉入江に位置する河口港です。 昭和44年(1969年)に開港し、宮崎県が港湾管理者です。 昭和12年(1937年)に赤江港から宮崎港に呼(よ)び名が変わりました。 それまでは赤江港と呼ばれていて重要な港でした。 鎌倉時代から赤江港は使われていました。 文明年間(1469年から1487年、戦国時代)は大陸交易の寄港地となりました。 文化年間(1804年から1818年、江戸時代後期)頃から、上方交易(大阪、神戸など。)が活発になりました。 当時は赤江港は大淀川の南岸(右岸(下流を見て右。))に位置して飫肥藩(おびはん)領の東北端の場所でした。 明治時代は大淀川を用いた内陸部(宮崎市 高岡町、国富町 本庄)と結ばれていました。 しかし、大正12年(1923年)に国鉄 日豊本線が開通し、また河口港によく見られる砂堆積(たいせき)によって航路の維持が困難になり、赤江港は衰退しました。 昭和33年(1958年)から改修工事が始まり、昭和44年(1969年)に一ツ葉入江に宮崎港が出来ました。 宮崎港には漁港、フェリーターミナル、国際コンテナターミナルなどがあります。
 宮崎港は港湾区域告示 昭和38年6月、港湾区域面積 1983 ha、南防波堤 2600 m、内防波堤 450 m、岸壁水深 9 m(50000トン級) 延長 300 m、航路・泊地水深 9 m。
 宮崎港ではチヌ、サヨリ、スズキ、コノシロ、アジコ、サビキなどが釣(つ)れます。

  「宮崎港水門ゲート」の金属製の説明板から、
「宮崎港水門ゲート、1987年5月、管理者 宮崎県、型式 ステンレス製桁構造ローラゲート、純径間x扉高 18.0 m x 9.8 m、設置数 1門、扉体重量 115.0 ton、施工 扉体工 株式会社 田原製作所、本体工 株式会社 志多組。」
宮崎港水門ゲートは大淀川の河口近くの北岸にあり、宮崎港と大淀川の間にあります。



写真GH: 宮崎港の漁港です。 多くの漁船が停泊 (ていはく)しています。 奥に宮崎港水門も見えます。 南東を見たものです。



写真GI:  宮崎港の漁港にある多くの漁船と水門です。 宮崎港水門は大淀川と宮崎港の間にあります。 南東を見たものです。
「宮崎港」は宮崎市 港、港東、新別府町、阿波岐原町にまたがる港です。 大淀川の河口の北岸(左岸(下流を見て左。))の一ツ葉入江に位置する河口港です。 昭和44年(1969年)に開港し、宮崎県が港湾管理者です。 昭和12年(1937年)に赤江港から宮崎港に呼(よ)び名が変わりました。 それまでは赤江港と呼ばれていて重要な港でした。 鎌倉時代から赤江港は使われていました。 文明年間(1469年から1487年、戦国時代)は大陸交易の寄港地となりました。 文化年間(1804年から1818年、江戸時代後期)頃から、上方交易(大阪、神戸など。)が活発になりました。 当時は赤江港は大淀川の南岸(右岸(下流を見て右。))に位置して飫肥藩(おびはん)領の東北端の場所でした。 明治時代は大淀川を用いた内陸部(宮崎市 高岡町、国富町 本庄)と結ばれていました。 しかし、大正12年(1923年)に国鉄 日豊本線が開通し、また河口港によく見られる砂堆積(たいせき)によって航路の維持が困難になり、赤江港は衰退しました。 昭和33年(1958年)から改修工事が始まり、昭和44年(1969年)に一ツ葉入江に宮崎港が出来ました。 宮崎港には漁港、フェリーターミナル、国際コンテナターミナルなどがあります。
 宮崎港は港湾区域告示 昭和38年6月、港湾区域面積 1983 ha、南防波堤 2600 m、内防波堤 450 m、岸壁水深 9 m(50000トン級) 延長 300 m、航路・泊地水深 9 m。
 宮崎港ではチヌ、サヨリ、スズキ、コノシロ、アジコ、サビキなどが釣(つ)れます。

  「宮崎港水門ゲート」の金属製の説明板から、
「宮崎港水門ゲート、1987年5月、管理者 宮崎県、型式 ステンレス製桁構造ローラゲート、純径間x扉高 18.0 m x 9.8 m、設置数 1門、扉体重量 115.0 ton、施工 扉体工 株式会社 田原製作所、本体工 株式会社 志多組。」
宮崎港水門ゲートは大淀川の河口近くの北岸にあり、宮崎港と大淀川の間にあります。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)