石井十次の生家、児童福祉の先駆者、宮崎県の偉人、川田神社 (県指定文化財 史跡 石井十次生家、孤児の父 石井十次、石井十次の生誕の地、川田自治公民館)  (宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字上江 字馬場原、字川田)







<標高、位置>  石井十次の生家に行くときの、国道10号と県道304号の交差点 (高鍋高校入り口)は
標高 約5 m
 北緯32度07分42秒  東経131度31分17秒

<標高、位置>  「石井十次の生家(生まれた所。)」は
標高 約10 m
 北緯32度08分31秒  東経131度30分03秒


 「石井十次の生家 (生まれた所。)」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字上江 字馬場原 2044 にあります。
 宮崎県の1番の偉人は誰かと問われれば、私は児童福祉の先駆者 石井十次 先生と答えます。
石井十次の生家は木造瓦葺平屋 (もくぞうかわらぶきひらや)建てで、102 平方メートルの広さがあり、当時の建物から1部補修されているそうです。 石井十次生家は昭和47年9月26日に県指定文化財 史跡に指定されました。 現在は親族の人たち (舘野 (たての) 家)によって管理されています。 石井十次は慶応元年 (1865年)4月11日に父 万吉、母 乃婦子の長男としてここで生まれました。
 「石井十次生誕の家」の石碑 (せきひ)から、
 慶応元年4月11日 (西暦1865年)石井萬吉の長男として十次この家に生まる。 明治15年岡山県医学校に入学するまでこの地にて育つ。 十次はその性 剛直果断仁慈 (じんじ)の行に篤 (あつ)く、我が国近世救済事業の始祖として孤児救済に生涯をささげた偉人である。 明治17年 馬場原教育会を起こし、岡山に到 (いた)り孤児救済の生涯がはじまる。 天与 (てんよ)の資質に加えて精神的素地はこの地にて培 (つちかわ)れる。

  石井十次は慶応元年4月11日(1865年5月5日)に宮崎県 児湯郡 高鍋町で生まれました。 日本で最初に孤児院を創設しました。 「児童福祉の父」と言われます。 石井十次は岡山で医師を目指していましたが中断して、日本最初の孤児院 岡山孤児院を創設しました。 大正3年(1914年)1月30日に宮崎県 木城町で亡くなりました。 岡山孤児院は今はありませんが、石井記念友愛社(宮崎県)と石井記念愛染園(大阪府)が後を引き継いています。 1990年に石井十次顕彰会(宮崎県)により石井十次賞が創設され、毎年、石井十次の精神を引き継いで福祉活動をしている団体にこの賞が贈(おく)られています。
 石井十次は熱心なキリスト教信者でした。 孤児院の児童たちには「満腹主義」といってお腹(なか)いっぱい食べさせました。 十次は音楽幻燈隊を組織し、孤児院の暮らしの映画を上映したり、音楽を演奏したりして募金を集めました。 国内、台湾、韓国、中国、アメリカなどでその活動をしました。 活版印刷、精米(せいまい)などの仕事を児童たちは行いました。 岡山より生活費がかからない宮崎で農場を開墾(かいこん)しました。 60 ヘクタールの広さです。コメ、野菜、桑(くわ)などの栽培をしました。 桑で蚕(かいこ)を養って繭(まゆ)を作らせ、絹織物の材料にしました。 また、女の子には裁縫(さいほう)、男の子には大工(だいく)、鍛冶(かじ、金属を打ちきたえていろんな器物を作ること。 鍬(くわ)、鎌(かま)、包丁(ほうちょう)などを作ります。)も教えました。 最初は石井十次は「先生」と呼ばれていましたが、その内、「おとうさん」と呼ばれるようになりました。 石井十次は演説の中で、「親のない孤児よりもっとかわいそうなのは、心の迷い子、精神の孤児なのです。」と述べています。

 石井十字は、岡山孤児院経営の寄付依存をやめて独立しようと、故郷 宮崎県の茶臼原(ちゃうすばる)という台地で開墾(かいこん)と孤児の移住を始めました。 この台地の開墾は困難を極めて一時は事業をいったん中止せざるをえなくなりした。 しかし、事業を再開し、水田13町歩、畑46町歩、桑畑16町歩という広大な耕地を開墾することに成功しました。 孤児院の茶臼原移転がほぼ終わったわずか2年後の大正3年、腎臓病によって亡くなりました。

 石井十次は岡山県とここ茶臼原に私立小学校を創設しました。 1913年(大正2年)に設立した茶臼原の私立小学校(私立茶臼原尋常小学校)はその後、自治体の方に寄付されました。 石井十次は明治20年(1887年)に岡山県 大宮村に寺の本堂の一部を借りて孤児教育会(後の岡山孤児院)を設立しました。 明治43年(1910年)には、茶臼原に孤児院を移転しました。 石井十次は明治43年46歳のときに、鍬鎌(くわかま)主義教育の実現のため、岡山孤児院の数十棟の宿舎、学校、集会所などを茶臼原の台地に移しました。

 「茶臼原憲法」は大正2年(亡くなる前年)に石井十次によって制定されました。
1.天は父なり、人は同胞なれば、互いに相信じ、相愛すべきこと。
2.天父は恒(つね)に働き給(たま)ふ、我等も倶(とも)に労働すべき。
3.天恩感謝のため、我等は禁酒禁煙を実行し、収入の十分の一を天倉に納(おさ)むること。

 石井十次の孤児院は小舎制という教育方針で、保母1人に十数人の子供たちが1つの小舎(家)で家族のように生活しました。 石井十次はフランスのルソーの「エミール」の影響を受け、宮崎県 西都市あるいは木城町 茶臼原で「自然・労作」教育をやろうと決心しました。 日向茶臼原分院は大正3年 石井十次の死後は大原孫三郎、次に石井の2番目の妻 辰子(たつこ)が院長になりましたが、1926年(昭和元年)に解散しました。 石井十次は明治から大正にかけて3000人以上の孤児の救済と教育を行いました。

 石井十次の宮崎県 茶臼原 関係の年表: 明治27年(1894年)に茶臼原の開拓(かいたく)に着手、明治28年に品子 夫人が亡くなり、辰子と再婚、明治33年に茶臼原の事業を中断、しかし明治38年に再開しました。 明治43年に孤児院の茶臼原移転を本格的に始めました。 大正元年に茶臼原移転をほぼ終わりました。 大正2年(1913年)に私立茶臼原尋常小学校を設立。 また、茶臼原憲法を作りました。 大正3年(1914年)1月30日に宮崎県 木城町で亡くなりました(48歳)。

 「石井記念友愛社」は宮崎県 児湯郡 木城町 椎木 644-1 にあります。 関連の施設などは木城町 椎木と西都市 穂北にまたがっています。
1945年に石井十次の孫である児島寅一郎 氏が戦災孤児を救うために石井記念友愛社を設立し、現在も活動しています。 その後、石井十次のひ孫である児島草次郎 氏が理事長を勤(つと)めています。
 宮崎県 児湯郡 木城町にある木城温泉館「湯らら」にあった「石井十次と石井記念友愛社」の説明板から、
 石井十次は、日本における福祉事業の先駆者です。 慶応元年(1865年)に高鍋町に生まれ、最初は岡山で医学を学んでいましたが、ある貧しい母子との出会いをきっかけに、23歳で本格的な児童救済事業を始めます。 岡山孤児院を創設し、「孤児の父」と呼ばれた十次の元(もと)には、一時1200名もの子供たちが収容されたと言われます。 施設内には私立の小学校も開設され、ユニークな教育も行われました。
 やがて、フランスの思想家ルソーの「エミール」の感化を受けた十次は、木城町の南端にある茶臼原で「自然・労作」教育をしようと、明治27年、岡山からの大移住を開始します。 児童や職員はもとより、建物も解体して茶臼原の地に再現し、そこで理想的な農村共同体を実現するつもりでした。 ところが、大正3年に十次は志半ばで倒れ、その事業はいったん閉じられます。 その後、昭和20年に太平洋戦争 被災児救済を目的に再開。 「石井記念友愛社」が創設され、児童養護施設や保育園も運営されることになりました。 当時の建物はそのまま残され、一角に建てられた資料館には人間国宝の芹沢 _介(けいすけ) 製作のステンドグラスも寄せられ、十次の偉業を伝えます。

 「川田神社」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字上江 2194 にあります。

 「川田自治公民館」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字上江 2184 にあります。


写真A: 県道304号にある農業用ホームセンター 「コメリ」です。 石井十次の生家の割りと近く (西)にあります。



写真B: 農業用ホームセンター 「コメリ」の看板 (かんばん)です。



写真C: 県道304号の北西方向を見たものです。 右はコメリです。



写真D: 県道304号の南東方向を見たものです。 先に進んで石井十次の生家に行きます。



写真E: 日向夏ミカンの実かもしれません。



写真F: 電柱に「津波に注意 この付近は海抜 約10.3 m 避難は高台へ 高鍋町」と書いてあります。



写真G: 県道304号です。 北西を見たものです。 道路の拡幅工事が行われていました。



写真H: 北を見たものです。 県道304号からこの道を北に進んで石井十次の生家に行きます。 右に「石井十次生家 ←」の標識があります。



写真I: 県道304号です。 南を見たものです。



写真J: 「県指定文化財 史跡 石井十次生家 ← 約80 m 先」と書いてあります。 この標識が目印になります。



写真K: 右に進むと石井十次の生家に行きます。 左は県道304号です。 北西を見たものです。



写真L: 県道304号の近くにバス停「川田 宮崎交通」があります。 南東を見たものです。



写真M: 右に進んで石井十次生家に行きます。



写真N: この道は古くからあるもののようです。 石井十次が育った頃にもあった道と思われます。



写真O: もうすぐ石井十次の生家があります。 さらに進みます。



写真P: この辺 (あた)りは住宅地になっています。



写真Q: 道の右手が石井十次の生家です。



写真R: 右端は石井十次の生家です。



写真S: 塀 (へい)の向こう側が石井十次の生家の敷地です。 庭に大きな石碑 (せきひ)があります。
石井十次の生家は木造瓦葺平屋 (もくぞうかわらぶきひらや)建てで、102 平方メートルの広さがあり、当時の建物から1部補修されているそうです。 石井十次生家は昭和47年9月26日に県指定文化財 史跡に指定されました。 現在は親族の人たち (舘野 (たての) 家)によって管理されています。 石井十次は慶応元年 (1865年)4月11日に父 万吉、母 乃婦子の長男としてここで生まれました。



写真T: 石井十次の生家のそばです。



写真U: 石井十次の生家の庭木はきれいに剪定 (せんてい)されています。



写真V: 宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字上江 字馬場原 2044 にある石井十次の生家です。
庭の「石井十次先生誕生之地」と彫 (ほ)ってある石碑 (せきひ)、看板 (かんばん)が見えます。



写真W: 石井十次の生誕地です。 生家、石碑 (せきひ)があります。



写真X: 左端は石井十次の生家です。



写真Y: 塀 (へい)のところに「石井十次生誕の家」の石碑 (せきひ)があります。
県指定文化財 史跡 石井十次の生家です。



写真Z: 石碑 (せきひ)の下部です。 手前は道路です。



写真AA: 「石井十次生誕の家」の石碑 (せきひ)があります。
 慶応元年4月11日 (西暦1865年)石井萬吉の長男として十次この家に生まる。 明治15年岡山県医学校に入学するまでこの地にて育つ。 十次はその性 剛直果断仁慈 (じんじ)の行に篤 (あつ)く、我が国近世救済事業の始祖として孤児救済に生涯をささげた偉人である。 明治17年 馬場原教育会を起こし、岡山に到 (いた)り孤児救済の生涯がはじまる。 天与 (てんよ)の資質に加えて精神的素地はこの地にて培 (つちかわ)れる。
昭和45年 石井十次顕彰会
と彫 (ほ)ってあります。



写真AB: 「石井十次生誕の家」の石碑 (せきひ)です。
 慶応元年4月11日 (西暦1865年)石井萬吉の長男として十次この家に生まる。 明治15年岡山県医学校に入学するまでこの地にて育つ。 十次はその性 剛直果断仁慈 (じんじ)の行に篤 (あつ)く、我が国近世救済事業の始祖として孤児救済に生涯をささげた偉人である。 明治17年 馬場原教育会を起こし、岡山に到 (いた)り孤児救済の生涯がはじまる。 天与 (てんよ)の資質に加えて精神的素地はこの地にて培 (つちかわ)れる。
昭和45年 石井十次顕彰会
と彫 (ほ)ってあります。



写真AC: 左手前は石井十次生家の敷地です。 奥から来ました。



写真AD: 石井十次生家です。



写真AE: 石井十次の生誕の家です。



写真AF: この建物も敷地内にあります。



写真AG: 右手前は敷地内です。



写真AH: 石井十次の生誕地です。



写真AI: 石井十次の生誕地です。



写真AJ: 古い木もあります。 左端は道路から見えた石碑 (せきひ)です。



写真AK: 祀 (まつ)ってある黒色の祠 (ほこら)と思われるものがあります。



写真AL: 左に大きな石碑 (せきひ)があります。 右にも四角の石碑があります。



写真AM: 「石井十次先生誕生之地」と彫 (ほ)ってある石碑 (せきひ)です。



写真AN: 宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字上江にある石井十次の生家です。 看板 (かんばん)があります。
県指定文化財 史跡 石井十次の生家です。
石井十次の生家は木造瓦葺平屋 (もくぞうかわらぶきひらや)建てで、102 平方メートルの広さがあり、当時の建物から1部補修されているそうです。 石井十次生家は昭和47年9月26日に県指定文化財 史跡に指定されました。 現在は親族の人たち (舘野 (たての) 家)によって管理されています。 石井十次は慶応元年 (1865年)4月11日に父 万吉、母 乃婦子の長男としてここで生まれました。



写真AO: 石井十次生誕地です。



写真AP: 石井十次の誕生地です。 この庭でも子供の頃、石井十次は遊んだことでしょう。



写真AQ: 左手前は梅の木と思われます。 古木です。



写真AR: 庭に古い木もあります。 県指定文化財 史跡 石井十次の生家。



写真AS: 石井十次の生家。



写真AT: 石井十次の生家の敷地です。



写真AU: 敷地内の建物です。



写真AV: 入り口です。



写真AW: 「孤児の父 石井十次先生の生誕の家」の看板 (かんばん)があります。
1.ご遺族が住んでおられますので、家の中をのぞいたり裏へまわったりしないようにしましょう。 2.屋敷内の花木をいためないようにしましょう。 3.煙草 (たばこ)の吸殻 (すいがら)や紙くずを捨てないようにしましょう。
生誕の家として大切に保存されています。 見学の皆様のご協力をお願いします。
石井十次顕彰会
と書いてあります。



写真AX: 石井十次が子供の頃 (ころ)遊んだ庭です。



写真AY: 県指定文化財 史跡 石井十次の生家に「石井十次先生誕生之地」と彫 (ほ)ってある石碑 (せきひ)があります。



写真AZ: 石碑 (せきひ)の下部です。



写真BA: 石碑 (せきひ)に「石井十次先生誕生之地」と彫 (ほ)ってあります。



写真BB: 「石井十次先生誕生之地」と彫 (ほ)ってあります。



写真BC: 「石井十次先生誕生之地」と彫 (ほ)ってある石碑 (せきひ)の下部です。



写真BD: 道のそばにある四角の石碑 (せきひ)が木の裏に見えます。 敷地内から見たもの。



写真BE: 石井十次が明治15年 (18歳)まで住んでいたところです。



写真BF: 「石井十次先生誕生之地」と彫 (ほ)ってある石碑 (せきひ)と生家です。



写真BG: 左が石井十次の生家の敷地です。



写真BH: 石井十次も遊んだ庭です。



写真BI: 石井十次が18歳まで住んでいた敷地です。



写真BJ: 石井十次は18歳から岡山県医学校に進学しました。 それまでこの地で育ちました。



写真BK: 四角の石碑 (せきひ)が見えます。



写真BL: 道路のそばにある四角の石碑の裏です。



写真BM: 敷地内にある黒色の祠 (ほこら)と思われます。



写真BN: 古い木が庭にあります。



写真BO: 古い木の中部です。



写真BP: 古い木の下部です。 右端に黒色の祠 (ほこら)があります。



写真BQ: 古い石造物が生家のそばにあります。 シダが付いています。



写真BR: 石灯籠 (いしどうろう)が2つ入り口のそばにあります。



写真BS: 入り口のところです。



写真BT: 入り口付近です。



写真BU: 石井十次先生の生家です。



写真BV: 石井十次先生の生家。



写真BW: 敷地の建物です。



写真BX: 「公認 舘野 (たての)しろあり防除施行所、日本白蟻対策協会認定、宮崎県白蟻防除協会」と書いてあります。



写真BY: 生家の敷地内です。



写真BZ: 右は敷地内です。



写真CA: 生家の近くにある十字路です。



写真CB: 橙 (だいだい)の実が多く付いています。



写真CC: 左に小川 (用水路)が見えます。 石井十次の生家の近くです。



写真CD: この辺 (あた)りは石井十次の生家より少し低くなっています。



写真CE: 畑、田んぼ、用水路、民家、近くの山 (台地)、森、林などが見えます。 石井十次もこの景色を眺 (なが)めたことでしょう。
奥に川南町の台地が見えます。



写真CF: 奥に川南町にある台地が見えます。 その台地には宗麟原供養塔 (そうりんばるくようとう)があります。



写真CG: 小川 (用水路)の手前は高台になっています。



写真CH: 小川 (用水路)の橋があります。



写真CI: 畑の作物も見えます。 民家、森、山 (台地)、林、用水路、橋などが見えます。



写真CJ: 石井十次の生家近くの住宅地です。 先は下 (くだ)り坂になっています。



写真CK: 用水路 (小川)、田畑、送電線鉄塔、民家などが見えます。



写真CL: 手前は用水路 (小川)です。 送電線鉄塔もあります。



写真CM: 左に橋が見えます。 左寄 (よ)りに尾鈴山連山が見えます。



写真CN: 遠くに尾鈴山連山が見えます。 橋、送電線鉄塔もあります。



写真CO: 石井十次の生家の近くです。



写真CP: 手前は橋です。 尾鈴山山系、高い送電線鉄塔、民家、田畑などが見えます。



写真CQ: 石井十次の生家の近くから尾鈴山連山が美しく見えます。 石井十次もよくこの風景を見たことでしょう。 北西を見たものです。



写真CR: 左は石井十次の生家の敷地です。



写真CS: 石井十次の生家の敷地。



写真CT: 左は石井十次の生家の入り口です。



写真CU: 野草の「ツワブキの花」が咲いていました。



写真CV: 奥に尾鈴山連山が美しく見えます。 県道304号です。 農業用ホームセンターの「コメリ」の建物が見えます。 北西を見たものです。 奥に進むと木城町の中心部に行きます。



写真CW: 県道304号の近くです。 奥に高鍋町にある舞鶴城公園の山や木城町にある茶臼原 (ちゃうすばる)台地に連 (つら)なる山 (台地)が見えます。 南西を見たものです。



写真CX: 南西を見たものです。 奥に高鍋町にある舞鶴城公園の山や木城町にある茶臼原 (ちゃうすばる)台地に連 (つら)なる山 (台地)が見えます。 手前は県道304号です。



写真CY: 近くの様子 (ようす)です。 奥に高鍋町にある舞鶴城公園の山や木城町にある茶臼原 (ちゃうすばる)台地に連 (つら)なる山 (台地)が見えます。



写真CZ: 南東を見たものです。 奥に進むと国道10号、高鍋町の中心部に行きます。



写真DA: 県道304号にある農業用ホームセンターの「コメリ」です。



写真DB: 「たんぽぽの花」です。



写真DC: 「たんぽぽの綿毛 (わたげ)」がまだ少し残っています。



写真DD: 1月上旬ですが、野草の「セイタカアワダチソウの花」がありました。



写真DE: 「スイセンの花」がありました。 虫が来ています。



写真DF: 石井十次生家の近くの県道304号です。 「川田神社」の一の鳥居 (とりい)が見えます。 奥に高鍋町にある舞鶴城公園の山や木城町にある茶臼原 (ちゃうすばる)台地に連 (つら)なる山 (台地)が見えます。 南西を見たものです。



写真DG: 石井十次生家の近くの「川田神社」です。 一の鳥居 (とりい)です。 しめ縄もあります。 「川田自治公民館」と書いてある標柱もあります。 奥に二の鳥居 (とりい)も小さく見えます。
「川田神社」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字上江 2194 にあります。
 「川田自治公民館」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字上江 2184 にあります。



写真DH: 川田神社の一の鳥居 (とりい)に「皇恩隆々・・・」と書いてあります。



写真DI: 川田神社の一の鳥居 (とりい)に「川田神社」と書いてある額 (がく)があります。



写真DJ: 川田神社の一の鳥居 (とりい)に「神威・・・」と書いてあります。



写真DK: 川田神社の参道です。 奥に二の鳥居 (とりい)が見えます。 右は川田自治公民館です。 その右に川田神社の社殿があります。 ポールの上にスピーカーがあります。



写真DL: 川田神社参道の右手の方です。



写真DM: 参道の左手の方です。 奥に高鍋町にある舞鶴城公園の山や木城町にある茶臼原 (ちゃうすばる)台地に連 (つら)なる山 (台地)が見えます。



写真DN: 川田神社の二の鳥居 (とりい)です。 しめ縄、御幣 (ごへい)もあります。 奥に大きな石碑 (せきひ)が見えます。



写真DO: 川田神社の二の鳥居 (とりい)に「明和 (江戸中期 1764年〜1772年)6年11月吉日」と彫 (ほ)ってあります。



写真DP: 川田神社にある大きな石碑 (せきひ)です。



写真DQ: 川田神社の立木です。



写真DR: 木の上部です。



写真DS: 川田神社にある石碑 (せきひ)の上部です。



写真DT: 川田神社の石碑 (せきひ)の中部です。



写真DU: 川田神社の石碑 (せきひ)の下部です。



写真DV: 川田自治公民館の建物です。
 「川田自治公民館」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字上江 2184 にあります。



写真DW: 川田神社の境内 (けいだい)にある川田自治公民館です。



写真DX: 「川田自治公民館」と書いてあります。



写真DY: 石碑 (せきひ)があります。



写真DZ: 近くの様子 (ようす)です。



写真EA: 右は川田自治公民館です。



写真EB: 川田神社の境内 (けいだい)に遊具があります。 これは滑り台 (すべりだい)です。



写真EC: 川田神社の境内 (けいだい)にブランコ、乗り物、滑り台、藤棚 (ふじだな)などがあります。 左端は川田神社の社殿です。



写真ED: 川田神社の社殿です。 右は本殿です。



写真EE: 川田神社の社殿です。 左端は川田自治公民館です。



写真EF: 川田神社の社殿と川田自治公民館です。



写真EG: 中央は川田神社の本殿です。



写真EH: 社殿の下部です。



写真EI: 川田神社の本殿です。
「川田神社」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字上江 2194 にあります。



写真EJ: 川田神社の境内 (けいだい)にある別の社殿です。 しめ縄、御幣 (ごへい)もあります。



写真EK: 建物の下部です。



写真EL: 川田神社の境内 (けいだい)に墓地があります。



写真EM: 川田神社の境内 (けいだい)。



写真EN: 右に川田自治公民館、その左に川田神社の社殿が見えます。



写真EO: 左は川田自治公民館です。



写真EP: 「ユキヤナギの花」が咲いていました。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)