赤木家住宅 (もと本陣)、旧 豊後街道、都農町の町並み (国指定重要文化財 (平成16年指定) 赤木家住宅、本陣とは大名などが泊まる公認の宿泊所です。都農町の町並み、都農川、都農橋、都農神社、上町川、上町橋、尾鈴連山 (尾鈴山系)、尾鈴山 (標高 1405 m ))  (宮崎県 児湯郡 都農町 大字川北 4942)







<標高、位置>  もと本陣だった「赤木家住宅」は
標高 約20 m
 北緯32度15分30秒  東経131度33分30秒

<標高、位置>  都農神社(つのじんじゃ)は
標高 約10 m
 北緯32度15分47秒  東経131度33分31秒

<標高、位置>  都農川の都農橋は
標高 約20 m
 北緯32度15分40秒  東経131度33分37秒

<標高、位置>  上町川の上町橋は
標高 約20 m
 北緯32度15分35秒  東経131度33分34秒

<標高、位置>  都農役場(つのやくば)は
標高 約25 m
 北緯32度15分24秒  東経131度33分35秒

<標高、位置>  県立 都農高等学校は
標高 約30 m
 北緯32度15分07秒  東経131度33分38秒

<標高、位置>  JR都農駅(つのえき)は
標高 約16 m
 北緯32度15分04秒  東経131度34分06秒

<標高、位置>  古代駅 「去飛 (こひ)」は
標高 約10 m
 北緯32度14分59秒  東経131度34分12秒


 「赤木家住宅 (もと本陣、重要文化財)」は宮崎県 児湯郡 都農町 大字川北 4942 にあります。
 赤木家住宅は2004年12月10日に国指定重要文化財になりました。 赤木家は山林業・廻船業 (かいせんぎょう、沿岸航路で旅客・貨物を船で輸送すること。)などで栄えた商家でした。 屋号は万屋 (よろずや)でした。 本陣 (ほんじん)としても用いられました。 本陣は御仮屋とも呼 (よ)ばれます。 本陣は江戸時代の宿駅で、大名・幕府役人・勅使 (ちょくし)・宮門跡 (江戸時代に法親王が住職している寺のこと。)などが宿泊した公認の宿舎のことです。 江戸時代末期の主屋 (おもや)・蔵・納屋 (なや)などが残っています。 主屋の座敷には床・付書院 (つけしょいん、床の間の脇に設けた板張りで、縁側に張り出し、前に明かり障子 (しょうじ)を立てたもの。)・棚 (たな)があります。 蔵は2階建てです。 現存する主屋は天保15年 (1844年)に焼失しましたが、同じ年に以前と同じ形で再建されました。
 「赤木家住宅 (国指定重要文化財)」の説明板から、
 赤木家住宅は天保8年 (1837年)に本陣 (江戸時代の宿駅で、大名・幕府役人・勅使 (ちょくし)・宮門跡 (江戸時代に法親王が住職している寺のこと。)などが宿泊した公認の宿舎。)として許可を得て大名の参勤交代等の宿泊所としての役割を果 (は)たした。 高鍋藩主 秋月種樹 公や種英 公がよく泊 (と)まられ、文久3年 (1863年)と翌年には薩摩藩主 島津久光 公が宿泊されている。 北側の石垣 (いしがき)と板塀 (いたべい)は当時のものがそのまま残っている。
建築年代 主屋 天保15年 (1844年) 床面積 254 平方メートル、蔵 江戸末期 床面積 157 平方メートル、納屋 江戸末期 床面積 33 平方メートル、敷地面積 1790 平方メートル。 構造 主屋 南北棟 (とう) 切妻造・平入・桟 (さん)瓦葺 (かわらぶき)、(西南角屋 寄棟造)、(北面突出部 切妻造・桟 (さん)瓦葺 (かわらぶき))、蔵 東西棟 切妻造・本瓦葺・二階建、納屋 (なや) 木造・平屋建・切妻造・桟 (さん)瓦葺 (かわらぶき)。
指定 平成16年12月10日。

 「都農神社(つの神社)」は宮崎県児湯郡 都農町 大字川北13294にあります。

 都農町の「都農役場」は宮崎県児湯郡 都農町 大字川北4874−2にあります。

 「宮崎県立 都農高等学校」は宮崎県 児湯郡 都農町 大字川北 4661 番地にあります。

 古代駅の「去飛 (こひ)」は宮崎県 児湯郡 都農町 大字川北 字福原尾 にあります。

 日豊本線にある「JR九州 都農駅」は宮崎県児湯郡 都農町 大字川北 駅前3640−2にあります。 都農駅は地上駅で跨線橋(こせんきょう)を持ち、ホームは1面2線です。 1921年(大正10年)6月11日に開業しました。


写真A: 北を見たものです。 国道10号です。 右に都農神社 (つのじんじゃ)の大きな鳥居 (とりい)が見えます。



写真B: 都農神社の大きな鳥居 (とりい)、鎮守の森 (ちんじゅのもり)が見えます。
「都農神社(つの神社)」は宮崎県児湯郡 都農町 大字川北13294にあります。



写真C: 奥に都農神社の駐車場が見えます。 東を見たものです。 右の道を先に進みます。



写真D: 北西を見たものです。 都農神社の東にある大きな鳥居 (とりい)です。 石碑 (せきひ)、石灯籠 (いしどうろう)、杉の木、石垣 (いしがき)もあります。



写真E: 北東を見たものです。 これは古くからの道で旧 豊後街道 (ぶんごかいどう、豊後とは大分県のことです。)です。 左は都農神社です。 奥に歩道橋が見えます。



写真F: 南西を見たものです。 都農川にかかっている都農橋が見えます。 奥に進むと古くからの商店街があり、そこに江戸時代に本陣として使われた「赤木家住宅」があります。 赤木家住宅は重要文化財です。



写真G: 西を見たものです。 遠くに尾鈴山系 (尾鈴連山)が見えます。 左に都農川が奥から流れています。 右は都農神社です。



写真H: 都農橋の欄干 (らんかん)に「都農川」と書いてあります。 南東を見たものです。



写真I: 南西を見たものです。 橋の欄干 (らんかん)に「都農橋」と書いてあります。 遠くの尾鈴連山が美しい。 都農川には石が多く見えます。 奥に道の駅つのと都農神社を結 (むす)ぶ赤い橋 (開運橋)が見えます。 その左に道の駅つのが見えています。



写真J: 都農川と都農橋です。 東 (下流)を見たものです。



写真K: 都農川の上流方向 (西)を都農橋から見たものです。 赤い開運橋が見えています。 右は都農神社です。



写真L: 南西を見たものです。 旧 豊後街道 (ぶんごかいどう)です。 古くからの道です。 左に「駐車場」と書いてあります。 左右には民家もあります。



写真M: 西を見たものです。 右寄 (よ)りの左右対称 (さゆうたいしょう)の山が尾鈴山 (標高 1405 m )です。



写真N: 旧 豊後街道にオートバイ店があります。



写真O: 「上町川 宮崎県」と書いてあります。



写真P: 「かみまちはし」と書いてあります。



写真Q: 上町川の上流方向 (西)を見たものです。 川に石があります。 橋もあります。 遠くの尾鈴連山が見えます。



写真R: 上町川の下流方向 (東)です。 遠くに橋が見えます。 手前は上町橋です。



写真S: 「TIGER」と書いてあります。 パチンコ店です。 駐車場も見えます。



写真T: 「あい交通」と書いてあります。 タクシー会社です。 旧 豊後街道に沿 (そ)っています。



写真U: 左が重要文化財の赤木家住宅です。 主屋 (おもや)の右に蔵が見えています。 南西を見たものです。



写真V: 赤木家住宅のまわりに板塀 (いたべい)があります。
「赤木家住宅 (もと本陣、重要文化財)」は宮崎県 児湯郡 都農町 大字川北 4942 にあります。



写真W: 南西を見たものです。 旧 豊後街道 (ぶんごかいどう)に赤木家住宅は沿 (そ)っています。 左に「和菓子 ケーキ きくや菓子舗」と書いてあります。 右は重要文化財の赤木家住宅です。 交通信号機が見えます。



写真X: 東を見たものです。



写真Y: 来た道を振 (ふ)り返ったものです。 左に「肉のくろき」の看板 (かんばん)があります。 右はタクシー会社の「あい交通」です。 シルバーカーに乗ったご老人が見えます。



写真Z: 左は「肉のくろき」です。



写真AA: 左は重要文化財 赤木家住宅です。 板塀 (いたべい)の右に古い石塀 (いしべい)が残っています。 主屋 (おもや)の右に蔵が見えています。



写真AB: 古い石の塀 (へい)が残っています。 重要文化財の赤木家住宅です。 石の塀 (へい、石垣 (いしがき))と上の古い板塀 (いたべい)は当時のものだそうです。 主屋 (おもや)の右に蔵が見えています。



写真AC: 昔からの石の塀 (へい)です。 石の塀 (へい、石垣 (いしがき))と上の古い板塀 (いたべい)は当時のものだそうです。



写真AD: 赤木家住宅の側面です。 瓦 (かわら)葺 (ふ)き屋根です。



写真AE: 赤木家住宅の上部です。



写真AF: 手前にも以前は石の塀 (へい)があったのでしょう。



写真AG: 杉の木の手前にも建物があります。



写真AH: 赤木家住宅の板の塀 (へい)です。 左は旧 豊後街道 (ぶんごかいどう)です。



写真AI: 旧 豊後街道 (ぶんごかいどう)。 右は赤木家住宅です。



写真AJ: 赤木家住宅の東にあるお菓子屋さんです。



写真AK: 板塀 (いたべい)です。



写真AL: これは門と思われます。



写真AM: 門の下部です。



写真AN: 板塀 (いたべい)です。



写真AO: 都農町にある重要文化財の赤木家住宅です。 木造建築です。
赤木家住宅は2004年12月10日に国指定重要文化財になりました。 赤木家は山林業・廻船業 (かいせんぎょう、沿岸航路で旅客・貨物を船で輸送すること。)などで栄えた商家でした。 屋号は万屋 (よろずや)でした。 本陣 (ほんじん)としても用いられました。 本陣は御仮屋とも呼 (よ)ばれます。 本陣は江戸時代の宿駅で、大名・幕府役人・勅使 (ちょくし)・宮門跡 (江戸時代に法親王が住職している寺のこと。)などが宿泊した公認の宿舎のことです。 江戸時代末期の主屋 (おもや)・蔵・納屋 (なや)などが残っています。 主屋の座敷には床・付書院 (つけしょいん、床の間の脇に設けた板張りで、縁側に張り出し、前に明かり障子 (しょうじ)を立てたもの。)・棚 (たな)があります。 蔵は2階建てです。 現存する主屋は天保15年 (1844年)に焼失しましたが、同じ年に以前と同じ形で再建されました。



写真AP: 重要文化財の赤木家住宅。
江戸時代に赤木家住宅は本陣 (ほんじん)でした。
「本陣 (ほんじん)」とは江戸時代の宿駅で、大名・幕府役人・勅使 (ちょくし)・宮門跡 (江戸時代に法親王が住職している寺のこと。)などが宿泊した公認の宿舎です。



写真AQ: 宮崎県 児湯郡 都農町にある重要文化財の赤木家住宅です。



写真AR: 「赤木家住宅 (国指定重要文化財)」の説明板があります。
 赤木家住宅は天保8年 (1837年)に本陣 (江戸時代の宿駅で、大名・幕府役人・勅使 (ちょくし)・宮門跡 (江戸時代に法親王が住職している寺のこと。)などが宿泊した公認の宿舎。)として許可を得て大名の参勤交代等の宿泊所としての役割を果 (は)たした。 高鍋藩主 秋月種樹 公や種英 公がよく泊 (と)まられ、文久3年 (1863年)と翌年には薩摩藩主 島津久光 公が宿泊されている。 北側の石垣 (いしがき)と板塀 (いたべい)は当時のものがそのまま残っている。
建築年代 主屋 天保15年 (1844年) 床面積 254 平方メートル、蔵 江戸末期 床面積 157 平方メートル、納屋 江戸末期 床面積 33 平方メートル、敷地面積 1790 平方メートル。 構造 主屋 南北棟 (とう) 切妻造・平入・桟 (さん)瓦葺 (かわらぶき)、(西南角屋 寄棟造)、(北面突出部 切妻造・桟 (さん)瓦葺 (かわらぶき))、蔵 東西棟 切妻造・本瓦葺・二階建、納屋 (なや) 木造・平屋建・切妻造・桟 (さん)瓦葺 (かわらぶき)。
指定 平成16年12月10日
と書かれています。



写真AS: 「赤木家住宅 (国指定重要文化財)」の説明板です。
 赤木家住宅は天保8年 (1837年)に本陣 (江戸時代の宿駅で、大名・幕府役人・勅使 (ちょくし)・宮門跡 (江戸時代に法親王が住職している寺のこと。)などが宿泊した公認の宿舎。)として許可を得て大名の参勤交代等の宿泊所としての役割を果 (は)たした。 高鍋藩主 秋月種樹 公や種英 公がよく泊 (と)まられ、文久3年 (1863年)と翌年には薩摩藩主 島津久光 公が宿泊されている。 北側の石垣 (いしがき)と板塀 (いたべい)は当時のものがそのまま残っている。
建築年代 主屋 天保15年 (1844年) 床面積 254 平方メートル、蔵 江戸末期 床面積 157 平方メートル、納屋 江戸末期 床面積 33 平方メートル、敷地面積 1790 平方メートル。 構造 主屋 南北棟 (とう) 切妻造・平入・桟 (さん)瓦葺 (かわらぶき)、(西南角屋 寄棟造)、(北面突出部 切妻造・桟 (さん)瓦葺 (かわらぶき))、蔵 東西棟 切妻造・本瓦葺・二階建、納屋 (なや) 木造・平屋建・切妻造・桟 (さん)瓦葺 (かわらぶき)。
指定 平成16年12月10日
と書かれています。



写真AT: 「赤木家住宅 (国指定重要文化財)」の説明板があります。
 赤木家住宅は天保8年 (1837年)に本陣 (江戸時代の宿駅で、大名・幕府役人・勅使 (ちょくし)・宮門跡 (江戸時代に法親王が住職している寺のこと。)などが宿泊した公認の宿舎。)として許可を得て大名の参勤交代等の宿泊所としての役割を果 (は)たした。 高鍋藩主 秋月種樹 公や種英 公がよく泊 (と)まられ、文久3年 (1863年)と翌年には薩摩藩主 島津久光 公が宿泊されている。 北側の石垣 (いしがき)と板塀 (いたべい)は当時のものがそのまま残っている。
建築年代 主屋 天保15年 (1844年) 床面積 254 平方メートル、蔵 江戸末期 床面積 157 平方メートル、納屋 江戸末期 床面積 33 平方メートル、敷地面積 1790 平方メートル。 構造 主屋 南北棟 (とう) 切妻造・平入・桟 (さん)瓦葺 (かわらぶき)、(西南角屋 寄棟造)、(北面突出部 切妻造・桟 (さん)瓦葺 (かわらぶき))、蔵 東西棟 切妻造・本瓦葺・二階建、納屋 (なや) 木造・平屋建・切妻造・桟 (さん)瓦葺 (かわらぶき)。
指定 平成16年12月10日
と書かれています。



写真AU: 「赤木家住宅 (国指定重要文化財)」の説明板。
 赤木家住宅は天保8年 (1837年)に本陣 (江戸時代の宿駅で、大名・幕府役人・勅使 (ちょくし)・宮門跡 (江戸時代に法親王が住職している寺のこと。)などが宿泊した公認の宿舎。)として許可を得て大名の参勤交代等の宿泊所としての役割を果 (は)たした。 高鍋藩主 秋月種樹 公や種英 公がよく泊 (と)まられ、文久3年 (1863年)と翌年には薩摩藩主 島津久光 公が宿泊されている。 北側の石垣 (いしがき)と板塀 (いたべい)は当時のものがそのまま残っている。
建築年代 主屋 天保15年 (1844年) 床面積 254 平方メートル、蔵 江戸末期 床面積 157 平方メートル、納屋 江戸末期 床面積 33 平方メートル、敷地面積 1790 平方メートル。 構造 主屋 南北棟 (とう) 切妻造・平入・桟 (さん)瓦葺 (かわらぶき)、(西南角屋 寄棟造)、(北面突出部 切妻造・桟 (さん)瓦葺 (かわらぶき))、蔵 東西棟 切妻造・本瓦葺・二階建、納屋 (なや) 木造・平屋建・切妻造・桟 (さん)瓦葺 (かわらぶき)。
指定 平成16年12月10日
と書かれています。



写真AV: 「赤木家住宅 (国指定重要文化財)」の説明板です。
 赤木家住宅は天保8年 (1837年)に本陣 (江戸時代の宿駅で、大名・幕府役人・勅使 (ちょくし)・宮門跡 (江戸時代に法親王が住職している寺のこと。)などが宿泊した公認の宿舎。)として許可を得て大名の参勤交代等の宿泊所としての役割を果 (は)たした。 高鍋藩主 秋月種樹 公や種英 公がよく泊 (と)まられ、文久3年 (1863年)と翌年には薩摩藩主 島津久光 公が宿泊されている。 北側の石垣 (いしがき)と板塀 (いたべい)は当時のものがそのまま残っている。
建築年代 主屋 天保15年 (1844年) 床面積 254 平方メートル、蔵 江戸末期 床面積 157 平方メートル、納屋 江戸末期 床面積 33 平方メートル、敷地面積 1790 平方メートル。 構造 主屋 南北棟 (とう) 切妻造・平入・桟 (さん)瓦葺 (かわらぶき)、(西南角屋 寄棟造)、(北面突出部 切妻造・桟 (さん)瓦葺 (かわらぶき))、蔵 東西棟 切妻造・本瓦葺・二階建、納屋 (なや) 木造・平屋建・切妻造・桟 (さん)瓦葺 (かわらぶき)。
指定 平成16年12月10日
と書かれています。



写真AW: 「赤木家住宅 (国指定重要文化財)」の説明板。
 赤木家住宅は天保8年 (1837年)に本陣 (江戸時代の宿駅で、大名・幕府役人・勅使 (ちょくし)・宮門跡 (江戸時代に法親王が住職している寺のこと。)などが宿泊した公認の宿舎。)として許可を得て大名の参勤交代等の宿泊所としての役割を果 (は)たした。 高鍋藩主 秋月種樹 公や種英 公がよく泊 (と)まられ、文久3年 (1863年)と翌年には薩摩藩主 島津久光 公が宿泊されている。 北側の石垣 (いしがき)と板塀 (いたべい)は当時のものがそのまま残っている。
建築年代 主屋 天保15年 (1844年) 床面積 254 平方メートル、蔵 江戸末期 床面積 157 平方メートル、納屋 江戸末期 床面積 33 平方メートル、敷地面積 1790 平方メートル。 構造 主屋 南北棟 (とう) 切妻造・平入・桟 (さん)瓦葺 (かわらぶき)、(西南角屋 寄棟造)、(北面突出部 切妻造・桟 (さん)瓦葺 (かわらぶき))、蔵 東西棟 切妻造・本瓦葺・二階建、納屋 (なや) 木造・平屋建・切妻造・桟 (さん)瓦葺 (かわらぶき)。
指定 平成16年12月10日
と書かれています。



写真AX: 左に説明板が見えます。 右はお菓子屋さんです。



写真AY: 本陣であった赤木家住宅です。
「本陣 (ほんじん)」とは江戸時代の宿駅で、大名・幕府役人・勅使 (ちょくし)・宮門跡 (江戸時代に法親王が住職している寺のこと。)などが宿泊した公認の宿舎です。



写真AZ: 江戸時代に赤木家住宅は本陣 (ほんじん)でした。



写真BA: 出入り口です。



写真BB: 出入り口への通路です。



写真BC: 本陣赤木家住宅のそばにバス停「都農 宮崎交通」があります。



写真BD: 江戸時代に赤木家住宅は本陣 (ほんじん)でした。
「本陣 (ほんじん)」とは江戸時代の宿駅で、大名・幕府役人・勅使 (ちょくし)・宮門跡 (江戸時代に法親王が住職している寺のこと。)などが宿泊した公認の宿舎です。



写真BE: 本陣であった赤木家住宅です。



写真BF: バス停「都農 宮崎交通」の時刻表です。



写真BG: 赤木家住宅の敷地です。



写真BH: 江戸時代に本陣だった赤木家住宅です。
「本陣 (ほんじん)」とは江戸時代の宿駅で、大名・幕府役人・勅使 (ちょくし)・宮門跡 (江戸時代に法親王が住職している寺のこと。)などが宿泊した公認の宿舎です。



写真BI: 江戸時代に赤木家住宅は本陣 (ほんじん)でした。
「本陣 (ほんじん)」とは江戸時代の宿駅で、大名・幕府役人・勅使 (ちょくし)・宮門跡 (江戸時代に法親王が住職している寺のこと。)などが宿泊した公認の宿舎です。



写真BJ: 赤木家住宅。



写真BK: 本陣だった赤木家住宅です。



写真BL: 赤木家住宅の出入り口です。



写真BM: 離れたところから見た赤木家住宅です。
赤木家住宅は2004年12月10日に国指定重要文化財になりました。 赤木家は山林業・廻船業 (かいせんぎょう、沿岸航路で旅客・貨物を船で輸送すること。)などで栄えた商家でした。 屋号は万屋 (よろずや)でした。 本陣 (ほんじん)としても用いられました。 本陣は御仮屋とも呼 (よ)ばれます。 本陣は江戸時代の宿駅で、大名・幕府役人・勅使 (ちょくし)・宮門跡 (江戸時代に法親王が住職している寺のこと。)などが宿泊した公認の宿舎のことです。 江戸時代末期の主屋 (おもや)・蔵・納屋 (なや)などが残っています。 主屋の座敷には床・付書院 (つけしょいん、床の間の脇に設けた板張りで、縁側に張り出し、前に明かり障子 (しょうじ)を立てたもの。)・棚 (たな)があります。 蔵は2階建てです。 現存する主屋は天保15年 (1844年)に焼失しましたが、同じ年に以前と同じ形で再建されました。



写真BN: 江戸時代に本陣だった赤木家住宅です。
「本陣 (ほんじん)」とは江戸時代の宿駅で、大名・幕府役人・勅使 (ちょくし)・宮門跡 (江戸時代に法親王が住職している寺のこと。)などが宿泊した公認の宿舎です。



写真BO: 都農町にある国指定重要文化財の赤木家住宅です。



写真BP: 西の方に左右対称 (さゆうたいしょう)の尾鈴山 (1405 m )が見えます。



写真BQ: 「くすり調剤 黒木薬局」の看板 (かんばん)、手前の古い家などがあります。 都農町の旧 豊後街道 (ぶんごかいどう)です。



写真BR: 「宮崎銀行」と書いてあります。 旧 豊後街道です。



写真BS: 「慈友塾 都農校」、「文明堂」の看板 (かんばん)があります。 旧 豊後街道 (ぶんごかいどう)です。



写真BT: バス停「都農駅通 宮崎交通」があります。 先の十字路を左 (東)に進むとJR 都農駅があります。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)